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この「良寬 珠玉の言葉」の下記の内容は、野積良寬研究所作成のガイドブック「良寬 珠玉の言葉」の内容と同一です。
1 霞立つ 永き春日を 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ
2 月よみの 光をまちて 帰りませ 山路は栗の 毬の落つれば
3 天寒し自愛せよ
4 あずさゆみ 春になりなば 草の庵を とくでてきませ 逢ひたきものを
5 人の子の 遊ぶを見れば にはたずみ 流るる涙 とどめかねつも
6 猫だって食べたいこて
7 如何なるが 苦しきものと 問ふならば 人をへだつる 心と答へよ
8 当に是の念を成すべし、何を以てか之を救護せんと
9 墨染の わが衣手の ゆたならば うき世の民を 覆はましものを
10 い行きかへらひ 水運ぶ見ゆ
11 奈何せん 蒼生の罹を
12 茲に来って淳を喪ふ莫れ
13 盗人に とり残されし 窓の月
14 欲無ければ一切足り 求むる有れば万事窮まる
15 清秋の夜 月華中流に浮かぶ 瀰猴之を探らんと欲して 相率て水中に投ずるが如し
16 終夜 榾柮を焼き 静かに古人の詩を読む
17 形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
18 一衣一鉢
19 襤褸又た襤褸 襤褸これ生涯
20 焚くほどは 風がもてくる 落ち葉かな
21 従ひ乳虎の隊に入るとも 名利の路を践む勿れ 名利纔かに心に入らば 海水も亦た澍ぎ難し
22 誰か問わん迷悟の跡 何ぞ知らん名利の塵
23 君看よ双眼の色 語らざるは憂い無きに似たり
24 過ちを知らば則ち速やかに改めよ 執すれば則ち是も真に非ず
25 竿直くして節弥高く 心虚にして根愈堅し
26 開き易きは始終の口 保ち難きは歳寒の心
27 徳を積むは厚く 己に受くるは薄く
28 忍は是功徳の本
29 行じ難きを能く行じ 忍び難きを能く忍ぶ
30 身をすてて 世をすくふ人も 在すものを 草の庵に ひまもとむとは
31 一生成香
32 期するところは弘道にあり 誰か浮漚の身を惜しまん
33 衝天の志気敢へて自ら持せしを
34 朝に孤峰の頂を極め 暮に玄海の流れを截つ
35 大廈の将に崩倒せんとするや 一木の支ふる所に非ず
36 世上の栄枯は雲の変態
37 過去は已に過ぎ去り 未来は尚ほ未だ来たらず
38 つきてみよ 一二三四五六七八 九の十 十とをさめて またはじまるを
39 淡雪の 中に立てたる 三千大千世界 またその中に 泡雪ぞ降る 40 風定まりて花尚ほ落ち 鳥啼いて山更に幽かなり
41 花無心にして蝶を招く 蝶無心にして花を尋ぬ
42 眼根旧によって双眉の素にあるを
43 生涯瀟灑たり破家の風
44 騰騰天真に任す
45 優游
46 頑愚 信に比無し
47 蓆を敷いて日裡に眠る
48 災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候、死ぬ時節には 死ぬがよく候
49 生きていく場合、死を忘れなければ、過ちを少なくして過ごせるだろう
50 散る桜 残る桜も 散る桜
51 裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
52 南無帰命常不軽
霞立つ 永き春日を 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ
良寛といえば、子供たちと一日中、かくれんぼをしたり、毬突きをしている姿が思いうかびます。
寒く厳しい冬が終わり、待ちに待った春が来て、のどかな一日を、村の子ども達といっしょに、手まり歌を歌いながら、毬つきをしたのです。
何を考えているのかわからない腹黒い大人よりも、純真な子供たちを良寛は愛したのです。
霞立つ 永き春日(はるひ)を 子どもらと
手まりつきつつ この日暮らしつ
この短歌は次の長歌の反歌です。
あづさ弓 春さり来れば
飯乞(いひこ)ふと 里にい行(ゆ)けば
里子ども 道のちまたに
手まりつく 我も交じりぬ
そが中に 一二三四五六七(ひふみよいむな)
汝(な)がつけば 我(わ)は歌ひ
我が歌へば 汝はつきて
つきて歌ひて 霞立つ
永き春日を 暮らしつるかも
(飯乞ふ…托鉢する)
良寛には同じような歌がたくさんあります。
この里に 手まりつきつつ子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし
この宮の 森の木下(こした)に 子どもらと 遊ぶ春日に なりにけらしも
子どもらよ いざ出でいなむ 弥彦(いやひこ)の 岡のすみれの 花にほひ見に
(花にほい…花の美しさ)
良寛がいっしょに毬つきをして遊んだ女の子たちの中には、数年に一回の水害の年になると、年貢を納められないため、上州木崎宿あたりに、飯盛り女として売られていくという過酷な運命が待っていました。
良寛はそんな子供たちといっしょになって遊ぶことで、楽しい思い出をつくってあげていたのです。
良寛は四十代以降の三十年間を国上山の山中の五合庵や乙子神社草庵で過ごしました。
その国上山の麓、今の大河津分水のあたりに渡部という集落がありました。その庄屋で造り酒屋でもあった阿部定珍(さだよし)は、良寛よりかなり年下でしたが、良寛ととても親しく、お互いが行ったり来たりしていました。
江戸で学んだ定珍は和歌に秀でており。良寛とは逢えば和歌を詠み交わすほどの仲でした。
ある晩、定珍は酒を携えて五合庵に良寛を訪ね、楽しいひとときを過ごしたのでしょう。ふと気が付くと日がとっぷりと暮れていました。そこで、定珍が帰ろうとしましたが、良寛は次の歌を詠んで、月が出るまで、もう少しゆっくりしていくようにと、足止めしたのです。
月よみの 光をまちて 帰りませ
山路(やまじ)は栗の 毬(いが)の落つれば
(月よみの…月の神様)
本音は定珍にもっと長くいてほしかったのかもしれませんが、この歌では、定珍の身を案じる、やさしい思いに充ちたものになっています。
良寛には多くの友人が今した。牧ヶ花の解良(けら)叔問(しゅくもん)には庄屋としての心がまえを読んだ歌を贈っています。
領(し)ろしめす 民があしくば われからと身をとがめてよ 民があしくば
(領ろしめす…領治する)
(民があしくば…年貢が納められないなど農民の行いが悪ければ)
良寛の親友であった医師の原田鵲斎(じゃくさい)とは、かつて梅の花をともに楽しんだことがありました。その鵲斎が移転したのち、その旧宅を訪ねた時の歌があります。
その上は 酒に浮けつる 梅の花
土に落ちけり いたづらにして
与板の大坂屋三輪家は全国的な豪商でした。同家の六代多仲長高の娘おきしは与板の山田重翰(しげもと)(杜皐(とこう))の兄弟の杢左衛門重富に嫁ぎましたが、夫の死後は三輪家に戻り、徳昌寺の虎斑(こはん)和尚の弟子となって剃髪し、維馨尼(いきょうに)(一七六四~一八二二)となりました。良寛の親友だった三輪左一の姪で、良寛よりも六歳年下でした。
徳昌寺の虎斑和尚は明版大蔵経を買い求めるために募金をはじめました。
文化十四年(一八一七)五十四歳の維馨尼も、はるばる江戸へ勧進(募金)に出かけました。
それを聞いた良寛は感激するとともに、維馨尼の身を案じて、詩や和歌を書いて送ったのです。良寛が女性に贈った唯一の漢詩616です。(漢詩の番号は『定本良寛全集 第一巻詩集』(中央公論新社)の番号です。以下同じ。)翌年の文政元年、江戸から帰国した維馨尼は病臥しました。そして、伊勢松坂に十月にでかけて、十一月に借金をして明版大蔵経を入手した虎斑和尚は、越後に十二月に帰国したあとに、維馨尼を見舞い、その行動を賞賛しました。
江戸ニ而(て)
維馨尼
君欲求蔵経
遠離故園地
吁嗟吾何道
天寒自愛
十二月二十五日 良寛
(読み)
君 蔵経を求めんと欲(ほっ)し
遠く故園の地を離る
吁嗟(ああ) 吾何をか道(い)はん
天寒し 自愛せよ
(訳文)
あたなは大蔵経の購入費用を求めに、
遠く故郷を離れて江戸に出向かれた。
ああ、あなたの尊い志に対して、私は何を申し上げようか。
寒い季節です、からだをいたわってください。
年が明けた正月十六日に書かれた維馨尼宛の良寛の手紙もあります。その手紙には、漢詩一編と月雪の美しさを詠んで維馨尼の志を称えた和歌一首が書かれています。
あずさゆみ 春になりなば 草の庵を とくでてきませ 逢ひたきものを
良寛は六十九歳の秋に長岡市島崎の木村家に移り住みました。
翌年の春、その庵室に三十歳の美しい尼僧が良寛を訪ねて来ました。そのとき良寛は不在でしたが、貞心尼は木村家に良寛への歌と手毬を託しました。その歌に良寛は返歌を返しています。
これぞこの 仏の道に 遊びつつ
つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ(貞心尼)
(御法…仏法)
つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや)九(ここ)の十(とを) 十とおさめて
またはじまるを (良寛)
秋になって初めて二人が逢うことができました。良寛の仏道の弟子となった貞心尼は、師匠良寛が七十四歳で遷化(せんげ)するまでの約四年間に、良寛とたくさんの和歌のやりとりをしました。
貞心尼はその和歌のやりとりを良寛没後に「蓮(はちす)の露」という稿本にまとめたのです。
良寛が遷化する前の年の冬になると良寛の病状が悪化しました。貞心尼はお見舞いの歌を贈りました。
そのままに なほ耐へしのべ いまさらに
しばしの夢を いとふなよ君 (貞心尼)
それに対して、良寛は貞心尼の顔がぜひ見たいという思いをそのまま詠んだ歌を貞心尼に贈ったのです。
あづさ弓 春になりなば 草の庵(いほ)を
とく出てきませ 逢ひたきものを (良寛)
(あづさ弓…春の枕詞)(とく…早く)
年末に良寛危篤の報に接した貞心尼は、雪の塩入(しほのり)峠を越えて、島崎の木村家まで駆けつけました。貞心尼の懸命な看病もむなしく、年が明けた正月六日に良寛は遷化しました。
良寛との純真で清らかなな心の交流は、貞心尼にとって一生の宝物になりました。
人の子の 遊ぶを見れば にはたずみ 流るる涙 とどめかねつも
江戸時代は七年ほどに一回、疱瘡(ほうそう)(天然痘)が大流行し、多くの子供たちが亡くなりました。
良寛には、疱瘡で死んだ子の親の気持ちになって、悲しみにくれる親に寄り添って、詠んだ歌がたくさんあります。
あづさゆみ 春を春とも 思ほえず 過ぎにし子らが ことを思へば
(あづさゆみ…春の枕詞)
(過ぎにし…死んだ)
春されば 木々のこずゑに 花は咲けども
もみぢ葉の 過ぎにし子らは 帰らざりけり
(春されば…春が来たので)
(もみぢ葉の…過ぎの枕詞)
人の子の 遊ぶを見れば にはたずみ
流るる涙 とどめかねつも
(にはたずみ…流るるの枕詞)
もの思ひ すべなき時は うち出でて
古野に生ふる 薺(なずな)をぞ摘む
(もの思ひ…亡くなった子供のことが思い出され)
(すべなき時…悲しみでどうしようもない時)
いつまでか 何嘆(なげ)くらむ 嘆けども
尽きせぬものを 心まどひに
煙りだに 天つ御空(みそら)に 消え果てて
面影のみぞ 形見ならまし
嘆くとも 返らぬものを 現(うつ)し身は
常なきものと 思ほせよ君
(現し身…この世に生きている人)
知る知らぬ 誘ひ給へ 御仏(みほとけ)の
法(のり)の蓮(はちす)の 花の台(うてな)に
(知る知らぬ…知っている子供も知らない子供も)
良寛は人間だけでなく、動物や、虫、さらには植物まで、その小さな命を大切にして、心から慈しみました。そんな逸話や和歌があります。
良寛は出雲崎町の中山の庄屋佐藤家を時々訪れては、飯びつのご飯を勝手に食べて行きました。
時々ふたをしなかったので家の人が、「良寛さま、ご飯を食べてもよいが、おひつのふたをしてください。猫が食うとわるいから」と言うと、良寛は「猫だって食べたいこて」と言いました。
むらぎもの 心楽しも 春の日に
鳥のむれつつ 遊ぶを見れば
(むらぎもの…心の枕詞)
我宿の 草木にかくる 蜘蛛(くも)の糸
払わんとして かつはやめける
(かつは…すぐに)
良寛は夏になると蚊帳(かや)を借りて使っていました。蚊帳がないと全身蚊に喰(く)われてとても耐えられないからです。でも、そうすると蚊も血を吸えなくて生きてゆけないからかわいそうだと、良寛は毎晩、片足だけを蚊帳から出して寝たそうです。
良寛の庵の周りの雑草があまりにも繁っていたので、ある日、村人が親切心から雑草をきれいに刈ってしまいました。良寛は庵に帰ってきて、草がなくなっているのを見て、虫たちの寝床がなくなってしまったなあと悲しみました。
良寛は厠(かわや)の縁側の下から生えてきた竹の子を見て、縁側の板に穴をあけてやりました。そのうち竹の子が伸びて庇(ひさし)に届きそうになったので、ロウソクの火で庇に穴をあけようとしました。ところが火が庇に燃え移って、厠がすべて焼けてしまいました。
木村家の娘のおかのが嫁ぐにあたって、良寛が与えた戒語の中に、次の条があります。
一、上をうやまひ、下をあはれみ しやう(生)あるもの とりけだものにいたるまで なさけをかくべき事
如何なるが 苦しきものと 問ふならば 人をへだつる 心と答へよ
良寛がこの世の中で一番心苦しく思っていたことは、人間同士が助け合ったり仲良くしたりしないで、人を差別したり、自分だけがよければよくて困っている他人を助けようとしないことだと思っていたようです。そんな気持ちを詠った歌があります。
如何(いか)なるが 苦しきものと 問ふならば
人をへだつる 心と答へよ
江戸時代は士農工商の身分が固定されていました。士農工商の下には非人というさらに差別された階層もありました。良寛はこうした身分差別があることを悲しいと感じていました。
そんな良寛には、非人八助が水死したことを悲しんで作った漢詩753があります。
金銀官禄 天地に還り
得失有無 本来空なり
貴賤凡聖 同じく一如(いちにょ)
業障(ごうしょう)輪廻(りんね) 此(こ)の身に報ゆ
苦しいかな 両国長橋の下
帰り去る 一川流水の中
他日 知音(ちいん)若し相問はば
波心の明月 主人公と
(天地に還り…死ねば自分のものでなくなる)
(一如…人間の本質は同じで、差別はないはずだ)
(業障輪廻 此の身に報ゆ…前世の悪い行いのせいでこのような身分になったのだろうか、そうではないはずだ)
(波心の名月 主人公…川の波間に浮かぶ 満月のように、八助も生まれた時から自分 が持っている仏性・仏の心は光り輝いる。)
また、水鳥でさえも、お互いが助け合っているのに、何で人間は自分のことだけを考えて、困っている人を助けないのだろうという思いを詠った歌があります。
越路なる 三島の沼に 棲む鳥も
羽がひ交(かわ)して 寝るちふものを
(三島の沼…長岡市島崎又は寺泊入軽井にあった沼)
(羽がひ交して…互いに羽を重ねて仲良く)
(寝るちふ…寝るという)
良寛に「自警文」と題する比較的長文の文章があります。
若(も)し邪見の人・無義(愧)の人・愚痴の人・暗鈍の人・醜陋(しゅうろう)の人・重悪の人・長病の人・孤独の人・不遇の人・六根不具の人を見る者は、
当(まさ)に是(こ)の念を成すべし。何を以(もっ)てか之(これ)を救護せんと。
従佗(たとい)、救護する能はずとも、仮にも驕慢の心・高貴(慢)の心・調(嘲)弄の心・軽賤の心・厭悪(えんお)の心を起こす可からず。急ぎ悲愍(ひびん)の心を生ず可し。若(も)し起こらざる者は、慚愧(ざんき)の心を生じて深く我が身を恨む可し。我は是れ道を去ること太だ遠し。所以(ゆえん)の者は何ぞや。先聖に辜負(こふ)するが故なり。聊(いささ)か之を以て自ら警(いまし)むと云ふ。」
(悲愍(ひびん)…あわれみ)
(先聖…もろもろの諸仏・聖人)
(辜負(こふ)…そむく)
よこしまな考えの人、
正しい道理をわきまえない人、
仏教の教えを知らず道理を解さない人、
道理に暗く愚かで鈍い人、
心がけが賤しくけがらわしい人、
悪事を重ねた人、
長患いの人、
ひとりぼっちの人、
運が悪く才能にふさわしい地位や境遇を得られない人、
眼耳鼻舌身意の働きに障がいのある人、
このような人々を見たならば、直ちに、「なんとしてでも救い護ろう」という思いを持つべきですと良寛は述べています。まさに衆生済度(しゅじょうさいど)の菩薩行(ぼさつぎょう)に生涯を生きた良寛の真骨頂です。
また、事実かどうかは定かではありませんが、良寛は光明皇后の遺図により、癩(らい)病院(ハンセン氏病の病院)を再興しようとしたが果たせなかったという話が山崎良平氏の『大愚良寛』にあります。
墨染の わが衣手の ゆたならば うき世の民を 覆はましものを
江戸時代、農民は収穫の五割もの年貢を取り立てられて貧窮し、その日生きていくことがせいいっぱいでした。
そんな農民に寄り添って生きた良寛は、世の中の人々を苦しみから救いたいという強い思いを抱いていました。そんな思いを詠った歌が良寛にはたくさんあります。
墨染(すみぞめ)の わが衣手の ゆたならば
うき世の民を 覆(おほ)はましものを
(ゆたならば…広くゆったりしているならば)
わが袖は 涙に朽ちぬ 小夜(さよ)更(ふ)けて
うき世の中の 人を思ふに
(涙に朽ちぬ…濡れて弱くなった)
わが袖は しとどにぬれぬ うつせみの
憂き世の中の ことを思ふに
(空蝉の…身の枕詞)
世の中の 憂さを思へば 空蝉(うつせみ)の
わが身の上の 憂さはものかは
(憂さ…生きていくつらさ)
(ものかは…取り立てて言うほどのものではない)
憂きことは なほこの上に 積もれかし
世を捨てし身に 試してや見む
夜は寒し 麻の衣は いと薄し
うき世の民に 何を掛けまし
うき世の人を思ひて
楢崎(ならさき)の 森のからすの 鳴かぬ日は
あれども袖の 濡れぬ日はなし
(楢崎…長岡市和島地域の字名)
ある年の元旦に幼子を連れた乞食の母子が雪の中、五合庵まで良寛に救いを求めてやってきました。清貧に生きた良寛は何も持っていないことを承知でした。それでも良寛なら救ってくださると頼られる存在だったのです。
良寛は、農民から托鉢でいただくお米で生きていました。そしてその農民たちは日々、困窮の暮らしをしており、常に自然災害に悩まされていました。
良寛にはそんな農民たちが日照りの干ばつに苦しむ姿に同情し、寄り添って詠んだ歌が多くあります。
あしびきの 山田の小父(をぢ)が ひめもすに
い行きかへらひ 水運ぶ見ゆ
(あしびきの…山の枕詞)
(小父…老農夫)
(ひめもすに…一日中)
(い行きかへらひ…行ったり来たりして)
我さへも 心にもなし 小山田(をやまだ)の
山田の苗の しをるる見れば
(しをるる…日照りのためにしおれているのを)
ひさかたの 雨も降らなむ あしびきの
山田の苗の かくるるまでに
(ひさかたの…雨の枕詞)
逆に稲刈り時の長雨に苦しむ農民の苦労を救ってやりたいとの願いを詠った歌もあります。
秋の雨の 日に日に降るに あしびきの
山田の小父(をぢ)は 奥手(おくて)刈るらむ
(奥手刈るらむ…晩稲を刈り取っているのだろう)
奥手刈る 山田の小父(をぢ)は いかならむ
ひと日(ひ)も雨の 降らぬ日はなし
また、洪水で堤防が決壊し、多くの人が被害にあうのではないかと心配した歌があります。
遠方(をちかた)ゆ しきりに貝の 音すなり
今宵の雨に 堰(せき)崩(く)えなむか
(遠方ゆ…遠方から)
(貝の音…非常事態を告げるホラ貝の音)
(堰崩えなむか…堤防が決壊したのだろうか)