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 (1)『良寛はアスペルガー症候群の天才だった』

2012 (株)考古堂書店 2,600円(税抜き)残部僅少!

         アスペルガー症候群の多くは天才ではないが、

天才の多くはアスペルガー症候群である。

良寬もまた多くの天才たちと同様に、

アスペルガー症候群の天才だった                                                                                                                                         

第1章 良寛はアスペルガー症候群だった
第2章 良寛の逸話の謎
第3章 アスペルガー症候群だった良寛の苦悩の青春
第4章 良寛は天才芸術家だった
第5章 良寛は天才宗教家だった
第6章 アスペルガー症候群とは
第6章 アスペルガー症候群とは
第7章 天才はアスペルガー症候群だった
第8章 今なぜ良寛なのか

 良寛といえば、詩歌や書など芸術面では優れたところがあったが、僧侶としては寺に定住せず、托鉢で食を得、子どもと遊び暮らすなど挫折者観が一般的だ。そんななか全く違った視点から良寛は天才芸術家、天才宗教家であったという仮説を展開。

 名主の長男に生まれながらなぜ出家したのか、なぜ住職にもならず草庵に独居し、清貧を貫く独自な生き方を選んだのかのなぞを解き明かしたいと思い研究を続けるなかで、和歌や書で見せる抜群の才能、宗教家としての高い境地、とくに、古典などに対する驚異的暗記力から、良寛は多くの天才たちと同様、アスペルガー症候群であり、天才ゆえに既存の枠組みにはまらず、自由な道を歩んだのではないかという仮説を得るにいたる。そして、良寛の逸話などを分析し、アスペルガー症候群だったと結論。
 あらゆる欲望を捨て、貧を苦にしないすがすがしい清貧の生き方、動植物に注いだ慈愛の心、農民庶民への温かいまなざしを持つ良寛。欲望追求を根本原理とする現代、それゆえ多くの困難を抱えることになった今こそわれわれは良寛に学ぶべきではないのか。良寛のことをよく知らない若い人、物質的に豊かでなくても心豊かに生きたいという人たちにぜひ読んでほしい。

※注 本書「良寬はアスペルガー症候群の天才だった」は平成二十四年に初版を発行したものであるが、その後の著者の良寛研究の深化により、良寛の伝記上の課題について、現在では本書の記載内容とは異なる見解を持つようになった点がいくつかある。主な点を掲げる。

○良寛が十八歳で家出した後、二十二歳で正式に得度出家するまでの四年間について、いったん三峰館に復学したのち、その後、観音院などで坐禅修行を始め、得度する半年ほど前に光照寺に入山したのではないかと考えるようになった。詳細は「青年良寛の出奔と空白の4年間について」(『郷土史燕』第十二号(二〇一九.三))又は長岡新聞に現在連載中のコラム「良寛-波瀾の生涯」を参照願いたい。

○大而宗龍との初回の相見については、円通寺時代の天明五年(一七八五)良寛二十八歳の年ではなかったかと考えるようになった。詳細は「良寛と大而宗龍禅師との相見について」(『新潟県文人研究』第十九号(二〇一六))を参照願いたい。

○山形爛藤杖と印可の偈の解釈については、「良寛の杖と徳昌寺の『請蔵南行襴葛藤』」(『長岡郷土史』第五十四号(二〇一七))、及び「良寛の印可の偈」について(『長岡郷土史』第五十五号(二〇一八.五))を参照願いたい。

○良寛が還郷の途次、善光寺の次に糸魚川に行ったものではないと考えるようになった。どのようなコースを辿ったかの詳細については、「良寛は還郷の際、なぜ善光寺の次に糸魚川に行ったのか」(『新潟県文人研究』第十八号(二〇一五))、及び「良寛の東北行脚は六十代ではなかった」(『郷土史燕』第十一号(二〇一八.三))を参照願いたい。

○良寛の東北行脚は六十代の乙子神社草庵時代ではなく、三十代の還郷後から五合庵定住までの間のことではないと考えるようになった。円通寺を出てから五合庵に定住するまでの不定住時代についての詳細は、「良寛の東北行脚は六十代ではなかった」(『郷土史燕』第十一号(二〇一八.三))を参照願いたい。

○アスペルガー症候群の天才の例として、政治家で織田信長とヒトラーを挙げたが、最近ではこの二人はサイコパスであった可能性が高いと思うようになった。

 

 (2)『良寛は世界一美しい心を持つ菩薩だった』

2014 (株)考古堂書店 2,000円(税抜き)294p 400g

世界一の美しい心をもった良寛は
自分の命ですら惜しむことなく
自己犠牲をともなう愛の心で
差別された民衆を救済した

 第1章 美しい心とは
「求めない心」と「愛の心」を持つことが美しい心になることが書かれている。
 第2章 無為の心 
 欲望を捨てて清貧に生きた良寬は、富や名誉を求めないだけでなく、自分の考えへの執着や、美醜などの相対的な価値の一方を志向するはからいも捨てて、一切の作為を廃した「無為の心」になりきっていたことが書かれている。そして、人を信じて疑わない心、他人の意志に抵抗せずに従いどんな仕打ちを受けても怒らない心、殺されそうになっても命を惜しむことのない心を持ち、その心のままに生きていたからこそ、世界一美しい心であったということができる。
 第3章 愛の心
 良寬は虫、動物、植物など命あるものはすべてその命を大切にしたり、子供、父母、兄弟、夫婦など家族への愛の心を持っていただけでなく、すべての人を愛して差別を憎む愛の心を持っていた。とりわけ、搾取され困窮にあえいでいた農民への慈愛のまなざし・救済への思いは強く持っていた。また、美しい自然を愛する心も持っていたことが書かれている。
 第4章 愛の心の実践-衆生済度の菩薩行
 良寬が愛の心の実践として目指した衆生済度の方法としては、難しい説教をすることではなく、一軒一軒托鉢に回り、優しい笑顔で庶民と接したり、あたたかい言葉をかけたり、疲れている人には按摩をしてやったりする方法であったことなどが書かれている。
 第5章 美しい心を保ち続けるための厳しい修行と自省
 良寬は生涯、美しい心を持つ続けるために、草庵独居・托鉢・坐禅・清貧の生活という厳しい修行を続けるとともに、常に我が身を振り返り、自分の言動が美しい心にかなったものか否かの自省を怠らなかったことが書かれている。
 第6章 良寛の思想   
 良寬の仏教思想、世界観、時空観、死生観とはどのようなものであったかが、良寬の漢詩の踏み込んだ解釈などによって、書かれている。また、良寬に大きな影響を与えた荘子の思想や良寬の辞世の句についても書かれている。
 第7章 良寛の悟境
 禅僧であった良寬の悟りの境地を表している漢詩によく使われる、騰騰、任天真、優游、愚などの重要なキーワードについて詳しく書かれている。
 第8章 良寛の嘆き
 良寬は自分の思想や悟境を理解し、ともに語り合得る友人の不在や、自分の仏法を嗣ぐ後継者がいないことの嘆きを漢詩や和歌に詠っていることなどが書かれている。
 第9章 散聖
 良寬が生き方の理想と考えた布袋や、その漢詩から大きな影響を受けた寒山、さらには乞食桃水などの、市井の中で生きる世俗的価値観を超越した聖僧たちについて書かれている。

※注 本書「良寛は世界一美しい心を持つ菩薩だった」は平成二十六年に初版を発行したものであるが、その後の良寛研究の深化等により、良寛の伝記上の課題について、現在では本書の記載内容とは異なる見解を持つようになった点がある。
○大森子陽が鶴岡で斬殺された事実はなかったのではないと考えるようになった。竹内登著「大森子陽と大森家の謎を探る」(『郷土史燕』第九号(二〇一六.三))を参照願いたい。

 (3)『良寛は権力に抵抗した民衆救済者だった』

2015 (株)考古堂書店 1,800円(税抜き)残部僅少!                                                         

差別され虐げられた貧しい農民達を救うため、                               菩提薩埵四摂法による衆生済度の菩薩行を                               実践した良寛は、幕藩体制の権力にも
抵抗した真の民衆救済者であった                                                                             

第1章 良寛の実像  
第2章 良寛の生きた時代
第3章 橘屋のファミリーヒストリー
第4章 良寛の国学思想
第5章 良寛の民衆救済思想
第6章 権力への反発・警戒と抵抗
第7章 反幕府の機運醸成とネットワーク形成
第8章 権力からの追求と逃避・韜晦
第9章 良寛の死とその後

シリーズ最終作
 良寛には三つの大きな謎があり、その謎の答えを三部作としてまとめた。第一の謎は、良寛がなぜ独自の生き方をしたかであり、『良寛はアスペルガー症候群の天才だった』という仮説を立てた。第二の謎は、なぜ良寛は現在に至るまでも多く人たちから愛され続けているのかであり、第二作『良寛は世界一美しい心を持つ菩薩だった』で述べた。第三の謎は、良寛の葬式にほとんどの村人が参列し、大きな墓が建てられたほど、なぜ当時の人々から、良寛は絶大な尊敬を受けたのかであり、この謎の解明に挑んだものが良寛の実像に迫るシリーズ3部作の最終作である本書『良寛は権力に抵抗した民衆救済者だった』である。

寛が尊敬された理由

 良寛は差別され虐げられた農民たちを、自らの命を盾にしてまでも圧政から守り、徳川幕藩体制の権力にも抵抗した。だからこそ、ただ単に愛されただけでなく、農民達から絶大な尊敬を受けた。衆生済度の菩薩行を生涯にわたって実践した良寛は、真の民衆救済者であり真の菩薩だったというのが結論である。
本書の内容について
 本書は第1章の「良寛の実像」から第9章の「良寛の死とその後まで」からなるが、第5章以降の良寛の民衆救済思想と権力に抵抗した姿の描写が中心となる。だがそれだけではない、良寛の実像を簡潔にまとめているほか、良寛の意外と波瀾万丈だった生涯を、消滅した生家橘屋のレクイエムでもある自選歌集『ふるさと』の和歌を中心にたどっており、その歌の解釈を複層的に試みている。さらに、良寛を国学者という視点で論じている点も、斬新な視点であり、宗教者・歌人・詩人・書家として天才性を発揮した良寛の新たな一面を見ることができる。

 

※注 本書「良寛は権力に抵抗した民衆救済者だった」は平成二十七年に初版を発行したものであるが、その後の著者の良寛研究の深化により、良寛の伝記上の課題について、現在では本書の記載内容とは異なる見解を持つようになった点がいくつかある。主な点を掲げる。

○ 良寛が還郷の途次、善光寺の次に糸魚川に行ったものではないと考えるようになった。どのようなコースを辿ったかの詳細については、「良寛は還郷の際、なぜ善光寺の次に糸魚川に行ったのか」(『新潟県文人研究』第十八号(二〇一五))、及び「良寛の東北行脚は六十代ではなかった」(『郷土史燕』第十一号(二〇一八.三))を参照願いたい。

○ 良寛の東北行脚は六十代の乙子神社草庵時代ではなく、三十代の還郷後から五合庵定住までの間のことではないと考えるようになった。円通寺を出てから五合庵に定住するまでの不定住時代についての詳細は、「良寛の東北行脚は六十代ではなかった」(『郷土史燕』第十一号(二〇一八.三))を参照願いたい。

 (4)『良寛 野の花の歌』

「良寛 野の花の歌」写真

2018 (株)考古堂書店 1,200円(税抜き)134p 250g

 野の花を愛した良寛の名歌の数々。    
 外山康雄の繊細にして優美な野の花の水彩画と、
 本間明が選ぶ良寛の野の花の名歌と解説のコラボ。
 三大歌人の一人である良寛は、移り変わる季節の自然を愛し、
 清楚で可憐な野の花を題材とした歌をたくさん詠んでいます。

飯乞ふと わが来しかども 春の野に                                  すみれ摘みつつ 時を経にけり   

 第1章 花を愛した良寛
 第2章 春
 第3章 夏
 第4章 秋

【あとがき より】
 良寛は宗教者として、独自の道を歩みながら、生涯修行を続け、無欲の心、慈悲の心を持ち続けました。その清らかな心で人々に寄り添って生き、自然を愛しました。そして、折々の感慨や心情を和歌や漢詩に詠い、美しい書で表現しました。
 良寛の和歌は万葉の遺響を墜(お)とさず、さらに万葉をも越えた良寛調と評されるほど、明治の歌人、伊藤左千夫、齋藤茂吉などから絶賛され、今でも高く評価されています。
 国文学者の久松潜一博士(東大、國學院大學教授)が昭和三十六年に行った「和歌史における三歌人」と題した講演の中で、日本の和歌史上の最もすぐれた歌人として三人の歌人を挙(あ)げられました。柿本人麻呂、藤原定家、良寛の三人です。
 良寛は日本の三大歌人の一人であり、人間的なすばらしい和歌を数多く詠んでいます。その中でも、移り変わる季節の自然を愛した良寛は、清楚で可憐な野の花を題材とした歌をたくさん詠んでいます。本書では良寛が詠んだ素敵な野の花の歌を紹介しました。
 良寛が愛(め)でて歌に詠んだ花々を訪ね、良寛のふるさと越後の豊かな自然の中を散策すれば、日頃のあわただしい生活から離れ、心癒やされる豊かな時間を過ごすことができるのではないでしょうか。
 良寛が歌に詠んだ野の花のすばらしい水彩画は外山康雄氏の作です。外山氏は鋭い感性で、野の花々の楚々とした本質を捉え、一点一点繊細かつ優美に描かれています。良寛の名歌と外山氏の魅力的な水彩画が一体となり、本書が薫り高く趣の深いものになったことは望外の喜びです。