良寛さまと貞心尼 │ 出会い(文政十年) │ 文政十一年 │文政十二年 │ 文政十三年・天保元年 │ 遷化(天保二年) │ 貞心尼の後半生 │ |
文政十一年(一八二八) 良寛七十一歳、貞心尼三十一歳
春の手紙のやりとり
春の初めころお師匠様に手紙を差し上げて
自(おの)づから 冬の日かずの 暮れ行けば 待つともなきに 春は来にけり (貞心尼)
われも人も 嘘も誠も へだてなく 照らしぬきける 月のさやけさ (貞心尼)
覚めぬれば 闇も光も なかりけり 夢路を照らす 有明の月 (貞心尼)
年が明けて、春になってから、貞心尼から良寛さまに手紙が届きました。内容は冬の次には自然に春が来るであるとか、月の光(仏法の真理)はあまねく照らしているとか、迷っていた時も月の光(仏法の真理)は照らしていたというような歌で、ようやく迷いから抜け出たことを詠(うた)っています。
この歌を見た良寛さまは、貞心尼からの春の初めの音信を喜ぶ歌と、仏法についての教えの歌を送りました。
御返歌
天が下に 満つる玉より 黄金(こがね)より 春の初めの 君がおとづれ (良寛) おとづれ…音信
手に触る ものこそなけれ 法(のり)の道 それがさながら それにありせば (良寛)
仏法についての教えの歌の意は、「仏法とは手に触れば分かるような 分別世界のものではなく、森羅万象は仏法の真理がそのまま顕現したもの」でしょう。
御返歌
春風に み山の雪は 解けぬれど 岩間によどむ 谷川の水 (貞心尼)
御かへし
み山べの み雪解けなば 谷川に よどめる水は あらじとぞ思ふ (良寛)
ところがまた来た貞心尼からの歌は「まだ谷川の水が岩間によどんでいます(まだ完全に迷いが吹き切れてはいないのです)」という内容でした。
それに対して良寛さまは「春になれば自然に雪が解けて、谷川に流れるという自然の摂理がすなわち仏法の真理であるから、よどめる水はないはずなのだ」という歌を返しました。
御返歌
いづこより 春は来しぞと 尋ぬれど 答えぬ花に うぐひすの啼く (貞心尼)
君なくば 千(ち)たび百(もも)たび 数ふとも 十づつ十を 百と知らじを (貞心尼)
御返歌
いざさらば 我もやみなむ ここのまり 十づつ十を 百と知りせば (良寛)
その後、貞心尼は「毎年春はやって来るし、春になれば、自然に花は咲き、花が咲けば、ウグイスが鳴く」という意味の歌と「お師匠様がいなかったならば、いつまでたっても、十づつ十が百であること(当たり前のことがすなわち仏法の真理であること)を知りませんでした」という歌を返してきました。
その歌を見た良寛さまは「そのように(仏法の真理が)分かったのならば、私ももう仏道のお話は終わりにしましょう」という歌を返しました。
春の二回目の相見
ところが、貞心尼は「まだまだお師匠様から教えを受けたいと思っていたのに、お師匠様は完全に自分が仏法の真理を悟ったと誤解された」と思い、直接お逢いしてお話したいと思ったのでしょう。良寛さまの草庵を訪ねたようです。そこでいろいろなお話をしたのでしょう。貞心尼が帰ろうとする時に詠み交わした歌があります。
それではこれでおいとましようと、私がお師匠様のもとを去ろうとするときにお師匠様御歌
霊山(りょうぜん)の 釈迦(しゃか)のみ前に 契りてし ことな忘れそ 世はへだつとも (良寛)
御返歌
霊山の 釈迦のみ前に 契りてし ことは忘れじ 世はへだつとも (貞心尼)
インドの霊鷲山(りょうじゅせん)で弟子や信者達に法華経を説法したお釈迦様の言葉「法華経を説き弘めよ。そうすれば、世を越えて諸仏に守護され、いつか未来に誰もが仏道を成就できる」に、釈迦のみ前にいた弟子や信者達はみなその道を行くことを誓いました。
現在僧や尼になって仏法と縁が結ばれているのは、過去の世に釈迦のみ前で仏道に精進することを誓ったからだといいます。
奈良時代の僧・行基の歌が平安時代中期の拾遺集にあります。
南天竺より東大寺供養(天平勝宝四年(七五二)に催された東大寺開眼供養会)にあひに、菩提(天竺から来日した菩提僊那(婆羅門僧正))がなぎさ(難波津の渚)に来つきたりける時よめる
霊山(りょうぜん)の 釈迦のみまへに 契りてし 真如くちせず あひみつるかな (拾遺一三四八)
(歌意)霊山の説法の時、釈迦のみ前で誓った者は仏道を成就できるという真理は、消滅することなく一 貫していることよ、そのためこうしてあなたと逢うことができたなあ。
「お釈迦様のみ前で誓った時と今とでは世は隔たっているが、誓ったそのことを決して忘れてはならぬ」という良寛さまの教えに、貞心尼は「決して忘れません」と答えました。
あるいは、「世はへだつとも」の良寛さまの言葉には「自分が先に死んで、二人があの世とこの世に隔たったとしても」という思いも込められていたのかもしれません。
晩春の三回目の相見
晩春三月、木村家庵室の良寛さまを貞心尼は訪ねました。そこで良寛さまはその頃興味をもって研究していた五十音のことを貞心尼に話したようです。
声韻(せいいん)(声母(子音)と韻母(母音))についてお話しされて
かりそめの 事とな思(も)ひそ この言(こと)は 言の葉のみと 思ほすな君 (良寛)
おいとま申し上げてとて
いざさらば 幸(さき)くてませよ ほととぎす しば鳴く頃は またも来てみむ (貞心尼) 幸くてませよ…お元気でいてください しば…しきりに
浮き雲の 身にしありせば ほととぎす しば鳴く頃は いづこに待たなむ (良寛) 浮き雲の…浮雲のように所定まらぬ
秋萩の 花咲く頃は 来て見ませ 命全(また)くば 共にかざさむ(良寛) 命全くば…まだ元気でしたら
貞心尼が帰る際に詠んだ「ホトトギスがしきりに鳴く頃にまた来ます」という歌に対して、良寛は「ホトトギスがしきりに鳴く頃には、(托鉢に出かけることも多いことから)どこでお待ちしていることでしょう」という歌を返しています。
あるいは、次の歌に「命またくば」とあることから、自分の命がそう長くないことをうすうす自覚して「あの世に行って待っているかもしれませんよ」という思いも込められているのかもしれません。
夏の四回目の相見
けれども、お師匠様がおっしゃった頃まではまたずに、また、お訪ねして
秋萩の 花咲く頃を 待ち遠み 夏草分けて またも来にけり (貞心尼) 待ち遠み…待ち遠しくて
御返歌
秋萩の 咲くを遠みと 夏草の 露を分けわけ 訪ひし君はも (良寛)
「秋萩の花咲く頃にまた来てください」という良寛さまの歌に反して、待ち遠しく思った貞心尼は、夏草の茂った頃にまた良寛さまを訪ねたようです。
貞心尼の歌について「貞心尼に代わりてよめる」との詞書きのある次の良寛さまの歌があるので、良寛さまは「自分ならこう詠む」と貞心尼に示したのかもしれません。
萩が花 咲けば遠みと ふるさとの 柴の庵を 出でて来(こし)しわが
貞心尼は和歌についても良寛さまの教えを望んでおり、良寛さまは貞心尼の作った歌について、こうすればもっとよくなるという添削の指導を行っていたのかもしれません。
この年の十一月十二日 越後三条大地震が発生しました。『蓮(はちす)の露』では、この前後は空白になっています。