僧としての独自の生き方

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良寛が目指した理想の人間慈愛の心僧としての独自の生き方

僧としての独自の生き方

 良寛は釈尊、道元に忠実でした。仏教の本来のあるべき姿を求めたのです。釈尊や道元にとって、仏教は一つであったと同じように、良寛も仏教は一つだと思っていました。そのため宗派を超越していたのです。
 無欲無心、慈愛
 山中草庵に独居し、托鉢僧として生きる 寺に住まず、住職にもならない
 清貧の生活              一衣一鉢
 生涯修行・自省            只管打坐、托鉢行脚
 生涯衆生済度の菩薩行を実践                  菩提薩埵四摂法(布施、愛語、利行、同事)、托鉢
             
【托鉢の意義】
 托鉢は、出家の仏と在家の仏が出会い、財施をいただくかわりに、法施、和顔施や仏徳という布施を施すものであり、菩提心を持って行う衆生済度のための菩薩行でもありました。
 良寛が托鉢を行ったのは、仏徳を積んだ良寛が、にこやかな表情(和顔)でやさしい言葉をかけたり(愛語)して、清らかな慈愛の心で人々と接することで、人々の苦しみを和らげるためだったのです。
【衆生済度の菩薩行】                                    
 道元は庶民を救うために庶民と接するに当たっては、『正法眼蔵』で菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)に基づくことを勧めました。四摂法とは布施、愛語、利行、同事のことです。
 良寛は、江戸時代には出家が禁じられた農民などの貧しい人々に対して、仏法を説いても悟りに至ることは難しいことから、説教をすることをしませんでした。その代わりに、四摂法を実践したのです。行動による教えや、笑いを施す奇話・逸話も四摂法と同様に衆生済度の菩薩行だったのです。
【布施】
 良寛は生活に苦しむ人々に財を施すことはとてもできなかったですし、ただ仏法を説くだけの説教をすることもありませんでした。良寛が人々に施した布施は、主にやさしい慈愛に満ちた表情で人々と接する和顔施(わがんせ)や、やさしい言葉をかける愛語施であり、清らかな心の仏徳を施すことでした。良寛が人々に和顔施と仏徳の布施を施す主な手段は托鉢でした。
 また書を無償で施すことも布施であったでしょう。高い悟境に達し、厳しい修行を積んだ上での、托鉢による和顔施・愛語施や仏徳の布施こそ、良寛が菩提心の発露として実践した衆生済度のための菩薩行であったのです。
【愛語】
 やさしい言葉をかける愛語を良寛は非常に重視しました。愛語の精神で庶民と接することで人々を救済していた良寛は、とりわけ、けっして使ってはならない言葉を戒語(いましめことば)として、常に頭の中に箇条書きで整理して記憶していました。もちろん、時々は思い出して復唱していたでしょう。だから、親しい人に、それらの箇条書きを思い出して、書き出して、与えたのです。良寛の戒語はたくさん残っています。
【利行】 
 相手をいたわり支えることが「利行」(りぎょう)です。良寛は疲れたり体調の悪い農民に按摩や灸をしたり、具合の悪い人には看病したりした。また、親の命日だと言われて頼まれれば、読経もしました。忙しい農繁期に子供たちと遊ぶことは、親から見ればありがたいことであり、これも利行でした。
【同事】   
 同じ境遇に身をおき安らぎを与えることが「同事」です。良寛が子供たちと一緒に遊んだことも、親しい農夫とよく一緒に酒を酌み交わしたことも、同事行でした。
 良寛は子供達と遊ぶだけでなく、よく遊女とおはじきをして遊んだといいます。遊女の中にはまだ十代の幼い少女も多く、これも世間からは虐げられた遊女に対する同事行でした。
【行動による教化】
  同事、利行などの菩提薩埵四摂法は行動によって庶民の苦しみを救済する手法ですが、良寛は庶民に説教することはなく、仏の教えを自分の行動で示すことがよくありました。子供たちとのかくれんぼで、良寛が朝までかくれ続けていたという行動は、子供たちに、人を疑ってはいけないという教えを、みずからが実践して見せたのです。
 良寛に逸話が多いのは、人を信じて疑ってはいけないということや、小さな命も大切にしなければならないなどの教えを、説教する代わりに行動で示して教化するためでした。
【奇話・逸話-笑いの布施】
 笑いは健康によい影響を与え、人々を楽しくさせてくれます。良寛の笑いを誘う奇行・逸話は、笑いを人々に布施として与え、人々の苦しみを忘れさせて幸せにするためだったのです。
【詩歌書の布施】
  自らの慈愛の心を詩歌に詠い、親しい人と唱和し、それを書にして庶民に無償で与えることは、良寬独特の仏法の布施であり、詩歌書はともに重要な弘法、伝法の手段でもありました。
【子供と遊ぶことの意義】
字を教える、お話をする      → 布施(子供たちに字を教える~
笑顔で接する                    →  和顔施(和顔の布施)
やさしい言葉              → 愛語
子守、幼子の相手               → 忙しい大人へのサービス= 利行
自分も子供になりきって遊ぶ    → こどもに仲間ができる= 同事
過酷な運命が待っている子供たちへの楽しい思い出づくり
(水害・凶作→年貢の未納→人身売買→奴隷的労働→病気→死 (例:上州木崎宿の飯盛女)
【鷹狩を諫めた逸話】
  玉木礼吉氏の『良寛全集』に次の逸話があります。
「国上山は村上藩の領土に属す、侯猟を好み出遊時を顧みず、禅師一日山を下る、村民奔走して途を掃ふ、禅師その故を問ふ、村民声を潜めて曰わく、我侯将に猟せむとす、今や我儕(ともがら)秋収に忙し、然れども侯の命(めい)奈何(いかん)ともする能(あた)はざるなりと、禅師曰わく予汝等の為に、侯の出遊を止めんか、村民皆曰わく至囑(ししょく)々々(おたのみします)、禅師乃ち榜子(ほうす)(名札)を作らしめ之に題して曰わく 
短か日の さすかぬれきぬ 乾しあへぬ                                 青田のかりは 心してゆけ 
既にして駕至る、侯之を熟視し悵然として駕を回し、これより復た出猟せざりしと、」
【乙助】 
 北川省一氏の『良寛遊戯』に次の文があります。「名宛て人は不明であるが残された良寛の書簡の中につぎの一枚があった。
「一筆申上候然らば乙助しばられ候はゞはやく御しらせ可被下(くださるべく)候。八日」
 良寛壮年の頃の勇気凜々たる筆であった。乙助が何者であったか、事情がどのようなものであったかは全く判らないが、乙助は指名手配された被疑者であるが、それが捕縛されたならば、駆けつけて行って役人と掛け合い弁護してやりたいという決意がありありとうかがえるような文面であった。」
【多くの民衆に尊敬され愛された良寛さま】
  良寛さまが托鉢に来ることを心待ちにしていた村人達は、うっかり良寛さんが自分の家に立ち寄らないで通り過ぎないように、見張り番をたてていたたという逸話があります。
 良寛さまの葬式にはほとんど村中に人々が集まったほか、遠方からもたくさん参列した。葬列の先頭が300メートルも離れた火葬場まで到着しても、木村家にはまだ出発をまっている人がいたほどです。
 そして良寛さまの墓は、極めて大きな墓です。人々の良寛への思慕の念の大きさが反映されたのでしょう。