良寛さまと貞心尼

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 良寛さまと貞心尼 │ 出会い(文政十年) │ 文政十一年 │文政十二年 │ 文政十三年・天保元年 │ 遷化(天保二年) │ 貞心尼の後半生 │

「良寬さまと貞心尼」の以下の記述は、廉価頒布ガイドブック『良寬さまと貞心尼』(32p)の内容と同じです。

良寛

 越後の名僧良寛は、一七五八年出雲崎の名主の長男として生まれました。
 名主見習役であった栄蔵(良寛の幼名)は十八歳の時に、生家橘屋を出奔(しゅっぽん)し、その後、坐禅修行を始めました。
 二十二歳の時に越後に巡錫(じゅんしゃく)してきた国仙和尚により尼瀬の光照寺で得度し、国仙和尚とともに備中玉島の円通寺に赴きました。
 円通寺で厳しい修行を積んだ良寛は三十二歳の時に、師の国仙和尚から悟りの境地に達したことを証明する印可(いんか)の偈(げ)を授かりました。
 その後も諸国行脚(あんぎゃ)の修行を続け、三十五歳の春に越後に帰国しました。帰国後も諸国行脚を続けましたが、遅くとも四十歳までには、いったん国上山(くがみやま)の五合庵に定住しました。
 五合庵に定住してから、良寛は坐禅修行を続けながら、清貧の托鉢僧として生きました。
 仏道修行のかたわら、子供たちと手毬(てまり)やかくれんぼなどで一緒に遊んだり、万葉集や書の古典を学び、優れた詩歌を詠み、美しい書を書きました。
 また、亀田鵬斎(ぼうさい)、大村光枝など多くの文人や阿部定珍(さだよし)、解良叔問(しゅくもん)、原田鵲斎(じゃくさい)などの友人と交流しました。
 五十九歳の年に国上の乙子神社草庵に移住しました。
 六十九歳の年に島崎の木村家庵室に移住しました。晩年には、貞心尼や弟の由之(ゆうし)との心温まる交流がありました。
 天保二年(一八三一)七十四歳で遷化(せんげ)しました。

貞心尼

 貞心尼は寛政十年(一七九八)長岡藩士の娘奧村マスとして生まれました。文学好きな少女だったようです。
 十七歳の時、小出の医師関長温に嫁ぎましたが、子供ができなかったこともあってか、二十二歳の時に離別しました。
 二十三歳の時、柏崎の閻王寺(えんのうじ)で、剃髪し、心竜尼(しんりょうに)・眠竜尼(みんりょうに)の弟子となり、尼としての厳しい修行を始めました。
 托鉢の折々に、和歌や書にたけた徳の高い僧侶という良寛さまの噂を聞いたのでしょうか、是非ともお逢いして、仏道のことや和歌のことを学びたいと思うようになったのでしょう。
 その機会を得るためにでしょうか、文政十年(一八二七)貞心尼三十歳の年の春、七十歳の良寛さまのいる島崎に近い長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂(えんまどう)に移り住みました。
 その後の二人の純真で清らかな心の交流は、貞心尼が三十八歳の時にまとめた『蓮(はちす)の露』の中に詠まれた唱和の歌でたどることができます。
 二人の清らかな心の交流の裏には、尼僧として厳しい修行を積んだ貞心尼の仏道とは何かを学ぼうとする真摯(しんし)な姿勢と、禅僧として厳しい修行により高い境地に達していた良寛さまの、貞心尼の思いに積極的に応えようとするあたたかい思いやりがあったのです。
 良寛さま遷化後しばらくしてから、貞心尼は柏崎に移り住みました。
 貞心尼は幕末を代表する三大女流歌人の一人に数えられ、『蓮(はちす)の露』のほかにも、歌集『もしほ草』、『焼野の一草』などを残しています。
 明治五年(一八七二)七十五歳で没しました。