乙子神社草庵時代

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良寛の生涯 良寛の清貧の
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良寛の宗教・思想 良寛の芸術
少年時代青年時代 │ 円通寺時代 │ 帰国・五合庵定住以前 │ 五合庵時代 │ 乙子神社草庵時代 │ 木村家庵室時代 │ 貞心尼との交流 │ 良寛の略年表 │

乙子神社草庵への移住
 良寛は五十九歳の時、五合庵から少し下った乙子神社草庵に移住しました。
 移住の理由は、薪水の労が老いの身にこたえるようになったからか、五合庵が老朽化したためか、あるいは遍澄(へんちょう)が弟子入りして、身の周りの面倒を見てくれるようになったので五合庵が手狭になったからでしょう。

良寛芸術の円熟
 乙子神社草庵時代は、良寛の芸術がもっとも円熟したときでした。和歌は万葉調さらには良寛調といわれるほどであり、書もまた、点と線の調和の美しい独特の草書を書いています。

維馨尼との交流
 大坂屋三輪家の娘おきしは夫の死後三輪家に戻り、徳昌寺の虎斑(こはん)和尚の弟子となって剃髪し、維馨尼(いきょうに)(一七六四~一八二二)となりました。三輪左一の姪です。
 徳昌寺が買い求める明版大蔵経の代価二百二十両をまかなうため、五十四歳の維馨尼は、はるばる江戸へ勧進(募金)に出かけました。それを聞いた良寛は感激するとともに、維馨尼の身を案じて、次の漢詩を書いて送りました。

君 蔵経を求めんと欲し   遠く故園の地を離る 
吁嗟(ああ) 吾何をか道(い)はん   天寒し 自愛せよ 
(訳文)             
あたなは大蔵経の費用を求めに、遠く故郷を離れ、江戸に出向かれた。
ああ、あなたの尊い志に対して、私は何を申し上げようか。寒い季節です、体をいたわってください。

妹や友人の死
 乙子神社草庵時代にも良寛の妹むらや由之の長男・馬之助の妻ゆう、さらのは大村光枝、解良叔問、維馨尼などの親しかった人たちが亡くなっています。
 毎年のように雪海苔(岩のり)を送ってくれた妹のむらが亡くなった時に、良寛は次の哀傷歌を詠んでいます。

春ごとに 君が賜ひし 雪海苔を                                     今より後は 誰か賜はむ                                        雪海苔…岩海苔