和歌でたどる良寛の生涯

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出家・帰国 │ 五合庵定住 │ 親しい人々と橘屋の没落 │ 晩年 │

晩年-木村家庵室時代
浄土思想への傾倒
寺泊での夏籠もり
貞心尼との清らかな心の交流
三条地震
晩年の由之との交流
山田家との交流
盆踊り                                                ざくろ
病臥した良寛と貞心尼
冬と病の歌
辞世の句
遷化

略年表

 

晩年-木村家庵室時代
 良寛は晩年、木村家庵室のまわりにいろいろな花を植え、丹精を込めて育てていました。

我が庵(いお)の  垣根に植ゑし 八千草(やちぐさ)の 花もこのごろ 咲き初めにけり

 ところが、五月に大風が吹いて、花々が倒れてしまいました。それを嘆いた長歌があります。
み園生(そのふ)に  植ゑし秋萩   はたすすき すみれたむぽぽ
合歓の花  芭蕉朝顔   藤ばかま   紫をに露草
忘れ草   朝な夕なに  心して   水を注ぎて
日覆ひして 育てしぬれば  常よりも   殊にあはれと 
人も言ひ   われも思ひしを 時こそあれ  皐つきの月の   
二十日まり 五日の暮の  大風の   狂ひて吹けば  
あらがねの 土にぬべ伏し  ひさかたの  雨に乱りて 
ももちぢに  もまれにければ あたらしと   思ふものから 
風のなす  業にしあれば  せむすべもなし  (長歌)
わが宿に  植ゑて育てし  百くさは 風の心に 任すなりけり (反歌)
 良寛が育てていたのは花だけではありません。五合庵にいた頃でしょうか、来客(阿部定珍でしょうか)に山の畑にまいて育てた大根をふるまった良寛の歌があります。大根や菜っ葉くらいは草庵の周りで育てていたようです。
あしびきの 国上(くがみ)の山の 山畑(やまばた)に 蒔(ま)きし大根(おおね)ぞ あさず食(お)せ君

浄土思想への傾倒
 良寛は自力本願の禅の修行を行いましたが、晩年に近づくにしたがって、他力本願の浄土思想に傾倒したかのように、阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰的な歌を多く歌っています。
 背景には、越後、特に平野部には浄土真宗の信者が多いこと、晩年に身を寄せていた木村家が熱心な浄土真宗の信仰の篤い信者であったことも影響しているでしょう。
かにかくに ものな思いそ 弥陀仏(みだぶつ)の 本(もと)の誓いの あるにまかせて
(本(もと)の誓い…衆生をお救いくださると誓われたこと)                                     
我ながら うれしくもあるか 御(み)ほとけの います御国(みくに)に 行(ゆ)くと思へば 

愚かなる 身こそなかなか うれしけれ 弥陀の誓いに 会ふと思えば
(なかなか…かえって) 
                  
待たれにし 身にしありせば いまよりは かにもかくにも 弥陀のまにまに 
(待たれにし…命の終わりを待っている)   
(まにまに…心のままにまかせよう)   
                                        
極楽に 我が父母は おはすらむ 今日膝もとへ 行くと思へば    

草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   
 庶民の魂を救済する方法としては、仏の教えを説いて、煩悩を捨てさせ、悟りを得させることが、本来の方法でしょう。しかし、貧しく、日々の過酷な労働に追われている庶民に対して、この方法は現実的ではありません。悟りの境地に至るには、出家して、長く厳しい修行が必要ですが、江戸時代の農民に出家することは許されていなかったのです。
 良寛は、貧しい農民が真に救われるためには、菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)による菩薩行では限界があり、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え、一心に阿弥陀仏を信じる教えは尊いものと考え、他力本願的な魂の救済という方法に徐々に傾倒していった可能性もあります。
 阿弥陀仏にすがることで、救われ、来世は極楽に行くことができるという教えの方が、庶民に安心を与え、庶民の魂を救済する方法としては、より現実的と考えるようになったのかもしれません。 
 また、老境になるにつれ、良寛自身が阿弥陀仏の本願に一切の身を任せようと考えるようになったのということも考えられます。

寺泊での夏籠もり
 長年、自然の豊かな国上山で暮らした良寛にとって、賑やかな島崎の町中での暮らしはなじめなかったようです。木村家に移住した年の12月25日付けの阿部定珍宛の手紙があります。
「まことに狭くて暮らし難く候。暖気になり候はば、また何方(いぢかた)へも参るべく候」
 そうしたことからか、移住した翌年、文政10年(1827)良寛70歳の年の夏の間、海と佐渡の見える寺泊の照明寺密蔵院(しょうみょうじみつぞういん)で過ごしました。また、阿部定珍宛の次の手紙もあります。
「僧もこの夏、密蔵院へ移り候。観音堂の守り致し、飯は照明寺にて食べ候。一寸(ちょっと)御知らせ申し上げ候。」
 おそらく良寛は、文政11年も、文政12年も寺泊の照明寺密蔵院で一定期間逗留していたのではないでしょうか。お世話になっている木村家への遠慮も少しはあったかもしれません。
 照明寺の過去帳に次の歌が書かれています。

終日(ひねもす)に 夜もすがらなす 法の道 うき世の民に 回して向かはむ 
(法の道…仏の道) 
(回して向かはむ…回向を行う)    

 密蔵院で良寛は万葉調の長短歌も作っています。

  寺泊に居りし時詠める
大殿の  大殿の 殿の御前(みまえ)の
美林(みはやし)は 幾代経ぬらむ
ちはやぶる 神さびにけり
そのもとに 庵を占めて
朝(あした)には い行き廻(もとほ)り
夕べには そこに出(い)で立ち
立ちて居て 見れども飽かぬ これの美林
(大殿…照明寺の観音堂)
(反歌)
山陰の 荒磯(ありそ)の波の 立ち返り 見れども飽かぬ これの美林

大殿の 林のもとに 庵占めぬ 何かこの世に 思ひ残さむ

大殿の 林のもとを 清めつつ 昨日(きのう)も今日も 暮らしつるかも 

月夜には 眠(い)も寝ざりけり 大殿の 林のもとに 行き帰りつつ

 寺泊から島崎に戻るときの歌があります。

  寺泊を 出づる時詠める
縁(えにし)あらば またも住みなむ 大殿の 森の下庵 いたくあらすな

命(いのち)の 全(また)くしあらば 木の下(もと)に 庵占めてむ また来む夏は

 寺泊から島崎に戻った後の秋でしょうか。木村家の人々との楽しいやりとりの歌があります。

終夜(よもすがら) つま木炊きつつ 円居して 濁れる酒を 飲むが楽しさ

  次の日は、しきりに風吹き雨降り、たしなみつつ島崎に到りぬ。人の、家苞(いえづと)を 乞ひたりければ
(たしなみ…苦労)
(家苞…おみやげ)
笠は空に 草鞋(わらじ)は脱げぬ 蓑は飛ぶ 我が身一つは 家の苞とて

貞心尼との清らかな心の交流
 貞心尼は寛政10年(1798)、長岡藩士の娘奧村マスとして生まれました。文学好きな少女だったようです。
 17歳の時、小出の医師関長温に嫁ぎましたが、子供ができなかったこともあってか、22歳の時に離婚しました。
 23歳の時、柏崎の閻王寺(えんのうじ)で、剃髪し、心竜尼(しんりょうに)・眠竜尼(みんりょうに)の弟子となり、尼としての修行を始めました。
 托鉢の折々に、和歌や書にたけた徳の高い僧侶という良寛さまの噂を聞いたのでしょうか、是非ともお会いして、仏道のことや和歌のことを学びたいと思うようになったのでしょう。
 その機会を得るためにでしょうか、文政10年(1827)貞心尼三十歳の年の春、七十歳の良寛さまのいる島崎に近い、長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂(えんまどう)に移り住みました。
 その年の4月15日頃、良寛さまがいつも子供たちと手毬をついているということを聞いた貞心尼は、手まりを持って、島崎の木村家庵室の良寛さまを訪ねました。
 しかしながら、良寛さまは寺泊の照明寺密蔵院に出かけており、不在だったのです。そこで貞心尼は次の和歌を木村家に託して、良寛さまに渡してもらうことにしたのです。

これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ (貞心尼)

 6月に貞心尼からの手まりと和歌を受け取った良寛は、貞心尼に次の歌を返しました。

つきてみよ  一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九(こお)の十(とを) 十とおさめて またはじまるを (良寛)

 この歌の「つきてみよ」には手まりをついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。
 それから秋になって、貞心尼は初めて良寛さまに逢うことができました。その時の唱和の歌です。

君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ (貞心尼)

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに (良寛)
(まにまに…なりゆきにまかせよう)
                                          
 その日貞心尼は、熱心に良寛さまの仏道のお話しを聞いていましたが、夜が更けてきたので、良寛さまは次の歌を詠みました。

白妙(しろたえ)の 衣手寒し 秋の夜の 月なか空に 澄みわたるかも (良寛)

 この歌の月は仏法の象徴であり、月が澄みわたっているということは、仏法の真理は明白だということでしょう。あわせて、月が空高く昇り、夜も更けたことから、今日はこれくらいにしましょうという意味を込めた歌でしょうか。
 夜が更けても、まだまだお話しを聞きたいと思った貞心尼は次の歌を返しました。
向かひゐて 千代も八千代も 見てしがな空ゆく月の こと問はずとも (貞心尼)
 「仏法の象徴である月をいつまでも見ていたい、仏道の話をもっと聞いていたいのです。空行く月は言葉(仏法の真理)を言わないとしても、良寛さまから仏道の話を聞き続けたいのです。」というような歌意でしょうか。
 一方で、「良寛さまと向かい合っていつまでも良寛さまを見ていたい。空行く月は何も言わないように、良寛さまが私になにも話をしなくとも」というような意味にもとることができるかもしれません。この歌に対して、良寛さまは次の歌を返しました。

心さへ 変はらざりせば 這ふ蔦(つた)の 絶えず向かはむ 千代も八千代も(良寛)

 仏道を極めようという心さえ変わらなければ、蔦がどこまでも伸びていくように、いつまでも向かい合って、お話しをしましょうという意味でしょう。この歌を聞いて、貞心尼は次の歌を返しました。

立ち帰り またも訪ひ来む たまぼこの 道の芝草 たどりたどりに (貞心尼)

 さらに良寛さまは貞心尼に次の歌を返します。

またも来よ 柴の庵(いおり)を 嫌(いと)はずば すすき尾花の 露を分けわけ (良寛)

 こうして二人が初めて出逢った日から、貞心尼は良寛さまの仏道の弟子となり、手紙のやりとりや貞心尼の良寛さまへの訪問が続きました。
 やがて、お互いの心がかよいあい、良寛さまが遷化するまで二人の心温まる交流が続きました。詳しい二人の交流や和歌の唱和は、ガイドブック『良寛さまと貞心尼』を御覧下さい。
 
三条地震
  良寛が島崎の木村家の庵に移住した後、江戸時代後期の文政11年(1828)良寛71歳の年の11月12日、三条町を中心に大地震が発生しました。
 見附、今町、与板、長岡など被害は方十里に及び、倒壊家屋は二万一千軒、死者千五百人余に達するという大惨事となりました。朝の時間帯だったため、火災も多く発生しました。
 与板の由之は早速12日付けで、島崎にいる兄の良寛に手紙を出しています。
 良寛は三条町の真言宗宝塔院の住職だった隆全に、11月21日付けで無事を確かめる手紙を出しています。この手紙の中で、住職の隆観や三浦屋幸助の安否も尋ねています。隆全が編んだ『良寛法師歌集』の中に、三条地震の被害を悲しんだ良寛の和歌4首が入っています。

永らへむ ことや思ひし かくばかり 変わり果てぬる 世とは知らずて

かにかくに 止まらぬものは 涙なり 人の見る目も 忍ぶばかりに
(かにかくに…あれこれと思い嘆いて)

むらぎもの 心を遣(や)らむ 方ぞなき あふさきるさに 思い惑ひて
(むらぎもの…心の枕詞)
(あふさきるさに…あれやこれやと)
                  
諸人(もろびと)の かこつ思ひを 留め置きて 己れ一人に 知らしめむとか

 良寛はまた、12月8日付けで阿部定珍と山田杜皐(とこう)に宛てて、2通の手紙を出しています。その2通の手紙の中に、次の歌が詠まれています。

うちつけに 死なば死なずて 長らえて かかる憂き目を 見るがわびしき
(うちつけに…だしぬけに)

 これらの地震に関する手紙の中で、特に有名なものが、与板に住む友人の山田杜皐への次の書簡です。
 「地しんは信(まこと)に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中、死人もなく、目出度く存じ候。
 うちつけに 死なば死なずて 長らえて かかる憂き目を 見るがわびしき
 しかし、災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候、死ぬ時節には 死ぬがよく候
是はこれ 災難をのがるる妙法にて候。かしこ。  臘八  良寛
  山田杜皐老 」
 これは、自然随順の死生観を持ち、騰騰任運(とうとうにんぬん)、随縁に徹した良寛の悟達の境地を示すものとして、良寛の中では最も有名な言葉です。災禍に苦しんでいる人が聞けば、誤解しそうな言葉ですが、心境の高い山田杜皐であれば理解してくれると考えたのでしょう。  
 道元禅の忠実な継承者でもあった良寛は、道元の死生観を受け継ぎ、生死を超克していました。道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「生死(しょうじ)の巻」には次の一文があります。「ただ生死すなわち涅槃(ねはん)とこころえて、生死として いとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分あり。」
(ただ生死輪廻の事実は、そのままが涅槃(真理、悟りの境地)であるとこの道理を明らめて、生死輪廻の人生を厭うて苦しんだり、悲しんだり、怖れてはならない。また涅槃という奇特な別な存在があるのではないから、涅槃を願うべきものでないと諦観(たいかん)すれば、そのとき初めて生死輪廻の苦しみと迷いを離れる道が現成(げんじょう)するのである。(訳は中村宗一「全訳正法眼蔵 四」誠信書房より))
 道元の「生すなはち不生、すなはち不滅。生来(き)たらば、ただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかひてつかふべし」という境地に、長年の修行によって良寛も達していたのです。

 良寛は、また、地震の被災者に米を配ったり、犠牲者の無縁仏供養の盛大な法要に要する多額の費用を全額寄進した、与板藩主井伊直経の慈悲あふれる行動に感激して、井伊公を讃える漢詩も詠んでいます。井伊公は民政に尽力し、善政を行ない、「凱悌(がいてい)の君」と称された名君でした。
 大坂屋三輪家の九代当主三輪権平もまた、与板藩の求めた最も多い額の資金と物資の供出に、積極的に応じました。良寛は権平に宛てた手紙のなかで、この事を賞賛する次の歌を詠んでいます。

  此度(こたび)、数多(まね)く 百姓(おおみたから) を御恵(みめぐ)みませりと聞きて
あらたまの 年は経るとも さすたけの 君が心は 我が忘れめや

 また、宝塔院でも地震の犠牲者を供養する地震亡霊塔を建てました。
 さらに、良寛は地震の発生は退廃している世への警鐘と考え、世の中が乱れていることを嘆いた長編の漢詩も作りました。長生きしたばかりに、このような惨状を目の当たりにしなければならなかったことは、慈愛の人良寛にとって、とてもつらいことであったに違いありません。

晩年の由之との交流

 島崎の木村家の庵室に住む晩年の良寛と、与板の松下庵に隠栖していた弟の由之は、塩之入(しおのり)峠をお互いに行き来して、親密に交流しました。
 また、与板には父以南の実家新木家の菩提寺徳昌寺や、良寛と交流のあった豪商大坂屋三輪家、和泉屋山田家もありました。
 いつの年か不明ですが(おそらくは文政10年(1827)か11年(1828)の初冬頃)良寛が与板の由之を訪れた時と思われる歌があります。

  与板の由之と別るるとき
はらからも 残り少なに なりにけり 思へば惜しき けふの別れは
  由之におくる
あまづたふ 日にけに寒く なりにけり 帰りなむいざ さきくませ君
(あまづたふ…日の枕詞)
(日にけに…日増しに)
(さきくませ…無事にいて下さい)
 山里の雪の朝は
さすたけの  君が心の 通へばや 昨日(きそ)の夜(よ)一夜 夢に見えつる
(さすたけの…君の枕詞)

 文政11年(1828)11月12日に三条大地震がありました。
 その翌年の文政12年(1829)早春に、与板の松下庵に住んでいた由之と、そこで正月を過ごした72歳の良寛が唱和した歌七首があります。

ひさかたの 雪解(ゆきげ)の水に 濡れにつつ 春のものとて 摘みてきにけり

春の野の 若菜摘むとて 塩入(しおのり)の 坂の此方に この日暮らしつ

わがためと 君が摘みてし 初若菜 見れば雪間に 春ぞしらるる (由之)

  うぐいすの来(こ)ざりければ
うぐいすの この春ばかり 来(こ)ぬことは 去年(こぞ)の騒ぎに 身罷(みまかり)りぬらし

  御坂(みさか)越えして行く人に詠みて遣(つか)わす
雪解けに 御坂を越さば 心して 夙(つと)に越してよ その山坂を
(夙…朝早く)
                           
梅の花 今盛りなり ひさかたの 今宵の月に 折てかざさむ (由之)
梅の花 老いが心を 慰めよ 昔の友は 今あらなくに
 最後の歌の昔の友は、文政10年(1827)に65歳で亡くなった原田鵲斎のことと思われます。

  天保元年(1830)の年の2月、由之が島崎を訪ねて73歳の良寛と唱和した歌があります。
  いずれの年にかありし、睦月(むつき)の末に禅師の君拝み参らすとて島崎の御室に詣でて、如月(きさらぎ)になりて帰らむとするに、また雪降りて、え帰らず。朝(あした)に茶すすり、物語などせしついでに君、
手を折りて 掻(か)き数(かぞ)うれば あづさゆみ 春はなかばに なりにけらしも (良寛)

あづさゆみ 春はなかばに なりぬれど 越の吹雪に 梅も匂わず (由之)

    この折しも、しきりに吹雪て、北面の窓にははらはらと音せしを詫びしに、
如月(きさらぎ)に 雪の隙(ひま)なく 降ることは たまたま来ます 君遣(や)らじとか (良寛)

我がために 遣(や)らじとて降る 雪ならば 何か厭(いと)はむ 春は過ぐとも (由之)

  同じ日、ある家にて酒飲むときに、君漢詩(からうた)うたひ給ふ。その歌
兄弟 相逢う処
共に是れ白眉垂る
且(しばら)く太平の世を喜び
日々酔うて痴の如し  (良寛)

  同じ心をやまと言葉もて和し奉りし。
白雪を 眉に積むまで 兄弟(はらから)が 飲む美酒(うまさけ)も 御代(みよ)の賜物(たまもの)  (由之)

 良寛は翌月の3月2日付けで、由之に次の歌の手紙を出しています。

風交(ま)ぜに 雪は降りきぬ
雪交ぜに 風は吹ききぬ
埋み火に 足さし伸べて
つれづれと 草の庵に
閉じ籠もり うち数ふれば
如月も 夢のごとくに 過ぎにけらしも
(反歌)
月よめば すでに弥生に なりぬれど 野辺の若菜も 摘まずありけり
  御歌の返し
極楽の 蓮の台(うてな)を 手にとりて 我に贈るは 君が神通

いざさらば 蓮(はちす)の上に うち乗らむ よしや蛙(かわづ)と 人は言うとも

 この歌の「御歌の返し」とある2首は、由之から贈られた蓮の花模様の座布団とそれに添えられた歌に対する返歌です。 
 これは貞心尼の『はちすの露』にも次のように収められています。

  御兄弟(はらから)なる由之翁のもとより褥(しとね)奉るとて
極楽の 蓮(はちす)の花の 花弁(はなびら)に 比(よそ)へて見ませ 麻手小衾(あさでこぶすま)  (由之)
(麻手小衾…座布団)
                                      
  御返し
極楽の 蓮(はちす)の花の 花弁(はなびら)を 我に供養(くよう)す 君が神通 (良寛)

いざさらば 蓮の上に うち乗らむ よしや蛙(かわづ)と 人は見るとも (良寛)

 同じ3月の18日に、松下庵に来ていた良寛と由之に、次の唱和の歌があります。由之が小山田の桜見物に出かける二日前でした。由之の日記『山つと』にあります。桜見物といっても、新津の桂家など、たくさんの知人を訪ねながらの、数ヶ月にもわたる長旅でした。

   小山田(おやまだ)の桜多しと聞きて、年の端(は)に如何(いか)でと思いわたらしかど、芦分(あしわけ)小舟障(さわ)りのみありて果たさざりしを、今年強(あなが)ちに思ひ立ち、弥生(やよい)の二十日(はつか)の日、船よ出(い)で立たむとすとて、十八日の日
枝(し)折りして 行くとはすれど 老いの身は これや限りの 門出(かどで)にもあらん (由之)

  と書きて机に置きしを、禅師見給ひて、その端つ方に、
我はもよ 斎(いわ)ひて待たむ 平らけく 山田の桜 見て帰りませ (良寛)
(斎ひて…身を清めて)
(平らけく…無事に)
                 
小山田の 山田の桜 見む日には 一枝(ひとえ)を送れ 風の便りに  (良寛)

  天保元年(1830)73歳の良寛は7月に病状が悪化しました。7月5日、良寛の病状重しの報に、弟の由之が駆けつけました。翌6日、兄弟で次の歌を唱和しました。

海人(あま)の汲む 塩入(しおのり)坂を 打ち越えて 今日の暑さに 来ます君はも (良寛)

塩入の 坂の暑さも 思ほえず 君を恋ひつつ 朝立ちて来(こ)し (由之)

 翌7日、次の歌を唱和しました。そして翌8日に由之は与板に帰りました。

  同じ日も照りまさりつつ、いといたう暑かり、けれど、侘び給ひて
いとどしく 老いにけらしも この夏は 我が身一つの 寄せどころなき (良寛)

  と宣(のたま)へるを見奉るに、身の苦しさはさて置きて、
暑き日を 難(なづ)みに難(なづ)む 君がため 雨の夕立 今も降らぬか (由之)

 この年は旱魃で、良寛は日照りに苦しむ農民をいたく心配していました。それを由之は知っていてこの歌を詠んだのです。

 この年と思われますが、由之と病床の良寛との贈答歌があります。由之の『八重菊日記』にあります。

  禅師の君の御心地、なほ、怠りまさずと聞けど、己(おの)が足にて塩入坂越ゆべうもあらねば、文のみ奉るとて、
雪降れば 道さへ消ゆる  塩入(しほのり)の 御坂造りし 神し恨めし (由之)
丈夫(ますらお)と 思ひし我も 塩入の 小坂一つに 障(さ)へられにけり   
塩入の 坂も恨みじ 老いらくの 身に迫らずば  坂も恨みじ   
    かれより賜へりし、
塩入の 坂も恨めし このたびは 近きわたりを 隔(へだ)つと思へば  (良寛)

我が命 幸(さき)くてあれば 春の日は 若菜摘む摘む 行きて逢ひみむ 

山田家との交流
 良寛のハトコである山田杜皐(とこう)(与板の豪商和泉屋山田家の第九代当主山田重翰(しげもと))の妻よせを良寛は「およしさ」と呼んでいまし。
 山田杜皐(1773?~1844年、良寛より約15歳ほど年下)は、俳句、絵画にすぐれており、良寛の親友でした。 
 およしは、夕方になると決まって訪ねてくる良寛を、『ホタル』だと冗談を言いながら、お酒を振る舞いました。良寛は大好きなおよしさんに酒をおねだりする歌をいくつか詠んでいます。

寒くなりぬ 今は蛍も 光なし 黄金(こがめ)の水を 誰か賜わむ

草の上に 蛍となりて 千年をもまたむ 妹(いも)が手ゆ 黄金の水を 賜ふといはば

草むらの 蛍とならば 宵々(よいよい)に 黄金の水を 妹(いも)賜ふてよ

身が焼けて 夜は蛍と 熱(ほと)れども 昼は何とも ないとこそすれ

 また次の唱和の歌もあります。

  与板山田の内室
烏めが 生麩(しょうふ)の桶へ 飛び込んで 足の白さよ 足の白さよ
  かへし     
雀子が 人の軒端(のきば)に 住みなれて 囀(さえ)づる声の その喧(かしま)しさ

喧(かしま)しと 面伏(おもてぶ)せには 言ひしかど このごろ見ねば 恋しかりけり
(面伏せには…面目を失うように)
      
 山田杜皐との唱和の歌もあります。

初獲(はつと)れの 鰯(いわし)のやうな 良法師 やれ来たといふ 子等(こら)が声々(こえごえ) (杜皐)

大飯を 食うて眠りし 報いにや 鰯の身とぞ なりにけるかも (良寛)

 文政13年(1830、12月10日に天保に改元)の夏、与板の山田家で、良寛と貞心尼の「からすとからす」の唱和連作歌があります。山田家のおよしが良寛をからすとあだ名をつけたことから始まった楽しい唱和の歌です。
  あるとき与板の里へ渡らせ給ふとて、友どちのもとより知らせたりければ、急ぎ参でけるに、明日ははや異方(ことかた)へ渡り給ふよし、人々なごり惜しみて物語り聞こえ交はしつ。打ち解けて遊びけるが中に、「君は色黒く衣も黒ければ、今より烏とこそ申さめ」と言ひければ、「実(げ)によく我には相応(ふさ)ひたる名にこそ」とうち笑い給ひながら、
いづこへも 立ちてを行かむ 明日よりは 烏(からす)てふ名を 人の付くれば(良寛)
  と宣ひければ
山がらす 里にい行かば 子がらすも 誘(いざな)ひてゆけ 羽(はね)弱くとも (貞心尼)
  御返し
誘ひて 行かば行かめど 人の見て 怪しめれらば いかにしてまし (良寛)
  御返し        
鳶(とび)は鳶 雀は雀 鷺(さぎ)は鷺 烏(からす)は烏 なにか怪しき (貞心尼)
  日も暮れぬれば、宿りに帰り、「また明日こそ訪(と)はめ」とて、
いざさらば 我は帰らむ 君はここに 寝(い)やすく寝ねよ はや明日にせむ(良寛)
  翌日(あくるひ)は疾(と)く訪ひ来(き)給ひければ
歌や詠まむ 手毬やつかむ 野にや出む 君がまにまに なして遊ばむ(貞心)
  御返し
歌も詠まむ 手毬もつかむ 野にも出む 心一つを 定めかねつも (良寛)

盆踊り
 文政13年(1830、12月10日に天保に改元)のお盆に、73歳の良寛は、盆踊りを夜通し踊り明かしました。すでに良寛の体には病気でむくみがきていたのかもしれません。
 手拭いで女装したところ、どこの娘さんだろうかと声をかけられたと、良寛が自慢したという逸話があります。
 その盆踊りを詠んだ歌があります。

風は清し 月はさやけし 終夜(よもすがら) 踊り明かさむ 老いの名残りに

月はよし 風は清けし いざ共に 踊り明かさむ 老いの思(も)ひ出に

いざ歌へ われ立ち舞はむ ひさかたの こよひの月に い寝らるべしや
(ひさかたの…月の枕詞)

もろともに 踊り明かしぬ 秋の夜を 身に病(いたづ)きの いるもしらずて

 良寛は体調の変化を自覚しており、最後の盆踊りとの思いがあったのかもしれません。