貞心尼との交流

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貞心尼
 貞心尼は寛政十年(一七九八)長岡藩士の娘奧村マスとして生まれました。文学好きな少女だったようです。
 十七歳の時、小出の医師関長温に嫁ぎましたが、子供ができなかったこともあってか、二十二歳の時に離婚しました。
 二十三歳の時、柏崎の閻王寺(えんおうじ)で、剃髪し、心竜尼・眠竜尼(しんりょうに・みんりょうに)の弟子となり、尼としての修行を始めました。
 托鉢の折々に、和歌や書にたけた徳の高い僧侶という良寛さまの噂を聞いたのでしょうか、是非ともお会いして、仏道のことや和歌のことを学びたいと思うようになったのでしょう。
 その機会を得るためにでしょうか、文政十年(一八二七)貞心尼三十歳の年の春、七十歳の良寛さまのいる島崎に近い長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂(えんまどう)に移り住みました。

最初の訪問
 その年の四月十五日頃、良寛さまがいつも子供たちと手毬をついているということを聞いた貞心尼は、手まりを持って島崎の木村家庵室の良寛さまを訪ねました。
 しかしながら、良寛さまは寺泊の照明寺密蔵院に出かけており、不在だったのです。そこで貞心尼は次の和歌を木村家に託して良寛さまに渡してもらうことにしたのです。                        これぞこの 仏の道に 遊びつつ                                    つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ  (貞心尼)

 六月に貞心尼からの手まりと和歌を受け取った良寛は貞心尼に次の歌を返しました。                     つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九の十(ここのとを)                 十とおさめて またはじまるを  (良寛)

 この歌の「つきてみよ」には手まりをついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。
 それから秋になって、貞心尼は初めて良寛さまに逢うことができました。その時の唱和の歌です。                         

君にかく あい見ることの 嬉しさも                                           まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ (貞心尼)

夢の世に かつまどろみて 夢をまた                                     語るも夢も それがまにまに (良寛)                                 まにまに…なりゆきにまかせよう

 その日貞心尼は熱心に良寛さまの仏道のお話しを聞いていましたが、夜が更けてきたので、良寛さまは次の歌を詠みました。                                             白妙(しろたえ)の 衣手寒し 秋の夜の                                   月なか空に 澄みわたるかも (良寛)

 この歌の月は仏法の象徴であり、月が澄みわたっているということは、仏法の真理は明白だということでしょう。あわせて、月が空高く昇り、夜も更けたことから、今日はこれくらいにしましょうという意味を込めた歌でしょうか。
 夜が更けても、まだまだお話しを聞きたいと思った貞心尼は次の歌を返しました。             向かひゐて 千代も八千代も 見てしがな                                空ゆく月の こと問はずとも (貞心尼)

 「仏法の象徴である月をいつまでも見ていたい、仏道の話をもっと聞いていたいのです。空行く月は言葉(仏法の真理)を言わないとしても、良寛さまから仏道の話を聞き続けたいのです。」というような歌意でしょうか。
 一方で、「良寛さまと向かい合っていつまでも良寛さまを見ていたい。空行く月は何も言わないように、良寛さまが私に何も話をしなくとも」というような意味にもとることができるかもしれません。この歌に対して、良寛さまは次の歌を返しました。                                       心さへ 変はらざりせば 這(は)ふ蔦(つた)の                            絶えず向かはむ 千代も八千代も (良寛)

 仏道を極めようという心さえ変わらなければ、蔦がどこまでも伸びていくように、いつまでも向かい合って、お話しをしましょうという意味でしょう。この歌を聞いて、貞心尼は次の歌を返しました。                             立ち帰り またも訪ひ来む たまぼこの                                  道の芝草 たどりたどりに (貞心尼)                                 たまぼこの…枕言葉

 さらに良寛さまは貞心尼に次の歌を返します。                             またも来よ 柴の庵(いほり)を 嫌(いと)はずば                           すすき尾花の 露を分けわけ (良寛)

 こうして二人が初めて出逢った日から、貞心尼は良寛さまの仏道の弟子となり、手紙のやりとりや貞心尼の良寛さまへの訪問が続きました。
 やがて、お互いの心がかよいあい、良寛さまが遷化するまで二人の心温まる交流が続きました。

病臥した良寛と貞心尼の交流
 文政十三年(天保元年・一八三〇)七十三歳の良寛さまは夏頃から下痢の症状に苦しむようになりました。
 八月に寺泊に行く途中、地蔵堂の中村家で病臥したとき、秋萩の咲く頃に貞心尼の庵を訪問すると約束したのに、その約束を果たせなくなったことを詫びる手紙を貞心尼に出しています。その中に良寛の次の歌があります。

秋萩の 花の盛りは 過ぎにけり                                    契りしことも まだとげなくに (良寛)

 その後、良寛さまの病状ははかばかしくなく、冬になる頃には庵に籠もって、人とも会わないようにしていると、聞いた貞心尼は、次の歌を書いた手紙を出しました。                         そのままに なほ耐へしのべ いまさらに                                 しばしの夢を いとふなよ君 (貞心尼)

 それに対して良寛さまは次の真情のこもった歌を貞心尼に返しました。                       あづさ弓 春になりなば 草の庵を                                   とく出てきませ 逢ひたきものを (良寛)                                あづさ弓…春の枕詞  とく…早く

 年末になって、貞心尼のもとに良寛さまの病状が重篤になったという知らせが届きました。貞心尼が驚いて急いで訪ねると、良寛さまは、さほど苦しんでいる様子もなく、貞心尼の訪問をうれしく思い次の歌を詠みました。 

いついつと 待ちにし人は 来たりけり                                 今は相見て 何か思はむ (良寛)

 さらに次の歌も詠みました。                                     武蔵野の 草葉の露の ながらへて                                   ながらへ果つる 身にしあらねば (良寛)

 人の命は草葉の露のようにはかなく、いつまでも生き永らえて、生き尽くせる身ではないという意味でしょう。
 昼夜、一睡もせずに看病する貞心尼の目に、日に日に衰弱してゆく良寛さまの姿が見えました。貞心尼は悲しくなって次の歌を詠みました。                                                        生き死にの 境(さかい)離れて 住む身にも                                          さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心尼)                                さらぬ…避けられない

 生死(しょうじ)の迷いの世界から離れて住んでいるはずの仏に仕える身にも、避けることができない死別のあることが、たまらなく悲しい、という貞心尼の悲痛な思いの伝わってくる歌です。
 この貞心尼の歌を聞いて、良寛さまは次の返しの俳句を口ずさまれました。                うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ(良寛)

 この句は、表と裏をひらひらさせ、よどみなく舞いながら散って落ちていく紅葉の姿から、執着しない、とらわれない、自在で滞らない生き方を学べという良寛さまの最後の教えだったのでしょうか。
 もみぢ葉が散ることは死を意味します。
 あるいは、貞心尼にはおもて(仏道の師匠としての良寛)も、うら(生身の人間としての良寛の真実の姿)もすべて見せました、もう思い残すことは何もありません、という良寛さまの最後の思いも込められているのでしょうか。