法華経と浄土思想

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法華讃・法華転

 良寛は禅僧として厳しい修行を続け、煩悩などから解放される解脱・悟りの境地を目指しました。
 その一方で、貧苦にあえぎながら生きている庶民の苦しみを救おうと考え、行動しました。
 小乗仏教は自己の解脱を求めますが、大乗仏教は煩悩に苦しむ衆生の済度(救済)も求めます。この大乗仏教の最も重要な経典が法華経です。良寛は法華経を厚く信奉しました。何も所有しなかった良寛ですが、法華経の経文だけは一生持ち歩いていました。
 良寛は法華経を讃える偈頌(げじゅ)(仏教的漢詩)を作りました。「法華転」と「法華讃」です。その内容は法華経の二十八品の宗意を良寛なりに禅の視点も加えて心読し、讃えたものです。語句には法華経の経文や偈文を数多く引用したり要約しているほか、中国や日本の禅僧の古則からの引用も多くあります。解釈は容易ではなく、法華経と禅の十分な理解が必要となります。良寛の宗教思想を示す詩偈の白眉であり、日本の禅文学の至宝とも評価されています。
 常不軽(じょうふぎょう)菩薩とは、法華経常不軽品に出てくる菩薩の名前です。一切の衆生は皆やがて成仏することを尊んで、誰に対してでも「我、あえて汝等を軽しめず、汝等は皆まさに菩薩の道を行じて、仏になるべきが故に」と言って礼拝しました。
 誰に対してでも礼拝してこの語を発したため、軽蔑されたり、石もて追い払われるなどの迫害も受けたといいます。
 良寛はこの常不軽菩薩を非常に尊敬しました。良寛の法華讃には百三十一首の詩偈が含まれますが、そのうち常不軽菩薩品には次の詩をはじめ六首もあります。

朝に礼拝を行じ 暮にも礼拝
但(た)だ礼拝を行じて 此の身を送る
南無帰命(きみょう) 常不軽
天上天下(てんげ) 唯だ一人(いちにん)

原坦山が認めた良寛の仏教学の学識

 近世禅門における機略の名匠原坦山(たんざん)は、初めての良寛詩集である『良寛道人(どうにん)遺稿』を刊行した蔵雲(ぞううん)和尚の法弟でした。蔵雲和尚から頼まれて『良寛道人遺稿』の校評や略伝の草稿を書いたほどであり、良寛のことはよく知っていました。
 原坦山は、文政二年(一八一九)に生まれ、儒学の昌平校を卒業した後、仏門に入りました。風外本高に参究した後、心性寺、最乗寺に住し、東京帝国大学に明治十二年(一八七九)印度哲学科が創設されたときの初代講師に招聘(しょうへい)されました。その後、学士会員、曹洞宗大学林総監等を歴任し、明治の碩学(せきがく)、真の禅僧といわれた人物です。明治二十五年(一八九二)年示寂、享年七十四歳。
 その原坦山は良寛を「永平高祖(道元禅師)以来の巨匠なり」と称えたといわれています。
 玉木礼吉氏の『良寛全集』に次の逸話があります。
「原坦山、常に禅師を敬慕して措かず、其の法華品に題する「如是高著眼、千百経巻在者裏」の詩を読むに至り、瞿然(くぜん)として曰(い)わく、我朝仏学の蘊奥(うんのう)を究(きわ)めし者、空海以来唯此人あるのみと」

浄土思想への傾倒

 良寛は自力本願の禅の修行を行いましたが、晩年に近づくにしたがって、他力本願の浄土思想に傾倒したかのように、阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰的な歌を多く歌っています。
 背景には、越後、特に平野部には浄土真宗の信者が多いこと、晩年に身を寄せていた木村家が熱心な浄土真宗の信仰の篤い信者であったことも影響しているでしょう。

かにかくに ものな思いそ 弥陀仏(みだぶつ)の                                  本の誓いの あるにまかせて                                           本の誓い…衆生をお救いくださると誓われたこと

我ながら うれしくもあるか 御ほとけの                                         います御国(みくに)に 行(ゆ)くと思へば

 愚かなる 身こそなかなか うれしけれ                                 弥陀の誓いに 会ふと思えば                                      なかなか…かえって

待たれにし 身にしありせば いまよりは                                     かにもかくにも 弥陀のまにまに                                        待たれにし…命の終わりを待っている まにまに…心のままにまかせよう

極楽に 我が父母は おはすらむ                                       今日膝もとへ 行くと思へば     

草の庵(いほ)に 寝ても覚めても 申すこと                                       南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 庶民の魂を救済する方法としては、仏の教えを説いて、煩悩を捨てさせ、悟りを得させることが、本来の方法でしょう。しかし、貧しく、日々の過酷な労働に追われている庶民に対して、この方法は現実的ではありません。悟りの境地に至るには、出家して、長く厳しい修行が必要ですが、江戸時代の農民に出家することは許されていなかったのです。
 良寛は、貧しい農民が真に救われるためには、菩提薩た※四摂法(ぼだいさったししょうぼう)では限界があり、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え、一心に阿弥陀仏を信じる教えは尊いものと考え、他力本願的な魂の救済という方法に徐々に傾倒していった可能性もあります。阿弥陀仏にすがることで、救われ、来世は極楽に行くことができるという教えの方が、庶民に安心を与え、庶民の魂を救済する方法としては、より現実的と考えるようになったのかもしれません。 
 また、老境になるにつれ、良寛自身が阿弥陀仏の本願に一切の身を任せようと考えるようになったのということも考えられます。※「た」の字は「土へん」の右側が「垂」の字

宗派にこだわらない生き方

 仏教とはもともと一つであり、釈尊の時代には宗派などはありませんでした。そして道元も曹洞宗という宗派の創設者では決してなく、唯一の正しい仏法を受け継いでいるのは自分であるという自負を持っていました。
 しかしながら、江戸時代の仏教界には、多くの宗派が存在していました。禅宗では、曹洞宗のほかに、臨済宗や黄檗宗(おうばくしゅう)があり、禅宗以外でも真言宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など多くの宗派があって、互いに他の宗派を批判・攻撃していました。そのうえ、当時の曹洞宗は宗派内での派閥抗争もありました
 良寛にとっては、仏の教えとは宗派を超えた唯一ものであり、特定の宗派に属するという意識は道元同様にありませんでした。仏教界が多くの宗派に分かれていること自体、良寛にとっては、本来のあるべき姿ではないと感じられたことでしょう。
 もともと、良寛の生家である橘屋山本家の菩提寺である円明院(えんみょういん)や五合庵が属した国上寺(こくじょうじ)は真言宗でした。大忍国仙の会下(えか)に入門して修行した円通寺は曹洞宗でした。
 晩年に身を寄せた木村家と、その菩提寺である隆泉寺(りゅうせんじ)は浄土真宗でした。そして、浄土思想に傾倒した歌を良寛は詠んだのです。