托鉢僧として生きる

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托鉢僧として生きる │ 生涯続けた修行 │ 求めない生き方 │ 菩薩行 │ 自省 │

江戸時代の仏教界

 良寛は国仙和尚のもと円通寺で長い間修行を続け、仏の道に生きる僧としての自分の生き方を模索しました。そして、そのたどりついた生き方とは、自らは清貧に暮らしつつ、生涯修行を続けるとともに、貧しくさまざまな苦しみをもつ多くの人々を救うことでした。
 ところが江戸時代の仏教界は徳川幕府の寺請制度によって、檀家からのお布施の収入が安定的に保証される一方、宗教本来が持つ民衆の魂の苦しみを救う活動が下火となり、葬式や法事などの儀式に力を入れるようになりました。この本来の姿からかけ離れて、いわば堕落した現状を良寛は嘆いたのです。

僧伽

 良寛は当時の仏教界に批判的な内容の「僧伽(そうぎゃ)」という題の長文の漢詩を作っています。その一部を掲げます。

今釈氏(しゃくし)の子と称(しょう)し 行(ぎょう)も無く亦(ま)た悟(さと)りも無し
徒らに檀越(だんおつ)の施(せ)を費やし 三業(さんごう)相(あい)顧(かえり)みず
首(こうべ)を聚(あつ)めて大話(たいわ)を打(だ)し 因循(いんじゅん)旦莫(たんぼ)を度(わた)る
外面は殊勝を逞(たくま)しうし 他(か)の田野(でんや)の嫗(おうな)を迷わす
謂(い)ふ言(われ)好箇手(こうこしゅ)なりと 吁嗟(ああ)何(いず)れの日にか寤(さ)めん
縦(たと)ひ乳虎(にゅうこ)の隊(むれ)に入(い)るとも 名利(みょうり)の路(みち)を践(ふ)む勿れ(なか)
名利(みょうり)讒(わず)かに心に入(い)らば 海水も亦(ま)た(そそ)ぎ難(がた)し
(訳文)
今、僧たちは仏弟子と称しているが、僧としての行い(衆生済度の行動)もなく、悟りを求めることもない。
ただ檀家から受ける布施を無駄遣いし、身、口、意のすべての行為を顧みることもない
寄り集まると大口をたたき、旧態然のまま日を過ごしている。
寺の外に出ると、悟りきった顔つきで農家の婆さん達をだましている。
そして「私こそ修行を積んだ力量のある僧である」と高言する、ああ、いつになったら眼がさめるのだろう。
例え、子持ちの虎の群に入るような危険に身をさらされようと、決して、名誉や利益への道を歩いてはいけない
名誉や利益の念が少しでも心にきざしたら、海水のような無尽蔵の量を注いだとしても、なおその欲望は満たされない。

 この漢詩は良寛の生き方を考える上で非常に重要なものであるため、良寛をよく理解していた鈴木文台が、良寛の墓碑に刻む漢詩として選んだものです。
 良寛は釈尊が説いた本来の仏教に立ち帰らなければならないと考えていたのでしょう。釈尊は大きな伽藍(がらん)の寺に住むことなく、各地を托鉢しながら、仏法を弘(ひろ)めました。
 良寛も釈尊と同じ生き方を貫こうと考えたのでしょう。寺に住んで、住職になって、檀家からの布施で、檀家以上の生活をするという、当時の一般的な僧侶の生活とは縁を切り、釈尊と同様に托鉢によって生きていく道を選んだのです。
 宗派や寺院という組織から離れ、一人の托鉢僧として生きていくことは、頻繁に災害や飢饉に襲われた江戸時代にあっては、決して生やさしいことではなく、茨(いばら)の道であったと言えるでしょう。
 また托鉢で村々をまわることは、多くの人々と触れ合うことが可能となります。そこで触れ合う人々に良寛はやさしい笑顔(和顔)とやさしい言葉(愛語)で接し、貧しくつらい日々の生活に疲れた人たちをなぐさめ、苦しみをやわらげていました。これが良寛の衆生済度(しゅじょうさいど)の方法だったのです。