かくれんぼ│カレイの逸話│灯籠の下で読書│代官と漁民の不和に油を注ぐ│ドロボウに疑われた逸話(円通寺時代)│ドロボウに疑われた逸話(郷本の空庵時代)│すり鉢│渡し船から落とされる│ 打たれても怒らない│子供に言われて小川に落ちる│一切経の虫干し│良寛様がいるだけで和やか│タケノコ│動物に慕われる│寝返りでドロボウに布団│子供たちと遊んだ良寛さま│良寛さまは雑炊宗│書をしつこくせがまれた│ワラジと涙
かくれんぼ
あるとき、子供たちと一緒にかくれんぼをして、良寛が積み重ねたワラの中に隠れていると、子供たちは、良寛をそのままにして、みんなで家に帰ってしまいました。
良寛は子供たちが黙って帰ったことを、うすうす感づいていたに違いありませんが、疑わないふりをして、そのまま隠れ続けているうちに、寝てしまいました。朝になって、村人が「良寛さま、何していなさるんだね」と問いかけると、良寛は「しっ、大きな声をだすと、子供たちに見つかってしまうじゃないか」と答えたそうです。
この逸話は、子供たちに人を信じることの大切さを自らの行動で教えていたものなのです。
栄蔵が八・九歳の頃、朝寝坊して父親に叱られました。そのとき栄蔵は、上目で父親を見上げてしまったのです。その栄蔵に父親は言いました「親を睨(にら)む者は鰈(カレイ)になるのだ」と。栄蔵はこれを聞いて外出しました。外出したまま,
日暮れになっても家に帰ってきませんでした。心配した家族が栄蔵をあちこち探しました。海浜のとある岩石上に悄然(しょうぜん)として立ちつくしている栄蔵を発見しました。こんなところで何をしているんですかと尋ねると、栄蔵は答えました「私はまだ鰈(カレイ)になっていませんか」と。家族は栄蔵を伴って家に帰りました。
灯籠の下で読書
論語に夢中になっていた頃であろうか。いつも本ばかり読んでいる栄蔵を心配した母が、気分転換にと、祭りの日に、たまには祭りの踊りの輪に加わったらどうかと勧めた。栄蔵は家を出て行ったので、母は栄蔵は祭りの踊りに行ったと思っていた。しかし、日が暮れると、庭の灯籠の前に人のいる気配がした。すわ泥棒かと母は思い、薙刀(なぎなた)を持って外に出て、何ものかと誰何(すいか)すると、何とそこには栄蔵がいて「母上お許し下さい、栄蔵です。」との声がしたという。
代官と漁民の不和に油を注ぐ
栄蔵は十八歳の時、名主見習役になったが、あるとき出雲崎代官と漁民との間にトラブルが起こり確執が解けなかった。
名主は両者を調停する立場にあったので、栄蔵は仲裁しようとして、代官に対しては漁民の悪口・雑言をそのままに上申し、漁民に向かっては代官の怒りののしる言葉を飾りなく伝えた。その結果、両者の怨恨は深まるばかりだった。
代官は栄蔵の愚直な行動を叱責した。栄蔵は言った「人は正直に生きなければならないと学んだ。この教えを破って生きることは幸い免れた。今の世は乱れ、うそ・偽りがまかり通っている。そんな世間とは決別しなければならない」。そうして栄蔵は出家した。
ドロボウに疑われた逸話(円通寺時代)
良寛が備中玉島の円通寺で修行していた頃、ある村に盗難があり、役人はあの乞食坊主の仕業(しわざ)に違いないと、良寛を捕らえて尋問しましたが、良寛は何も返答しませんでした。役人は良寛が犯人であると思い、土中に生き埋めにしようとしました。
そのときある農民が、「何も応えないのは凡人ではない。近頃、円通寺に一人の雲水がいて、すこぶる凡俗の姿で、しかも内心は悟道に通じ、この地域に来ることもあるという。」と告げました。
そこで、再度尋問したところ、その人物であることがわかったのです。そして良寛は言いました。「一旦疑いを受けた以上はいくら弁解しても、それは申し訳に過ぎない。これも前世の罪業(ざいごう)のためと諦め、どのような罪苦を受けても苦しくない。これが申し訳をしなかった理由である」。役人はついに自分の非を認め、謝罪して良寛を放免したいいます。
ドロボウに疑われた逸話(郷本の空庵時代)
越後に帰郷したばかりの良寛は、寺泊の郷本の空庵を借りて住んでいました。ある時浜辺の塩焚(た)き小屋が火事になり、犯人に疑われた良寛は、村民に生き埋めにされそうになりました。そこへ通りかかった夏戸の医者小越仲民(おごしちゅうみん)のとりなしで、良寛は命を救われました。
良寛を連れ帰った仲民は、生き埋めにされそうになっても弁解もせず恬淡(てんたん)としている良寛に「なぜ、されるがままに黙っているのか」と問いました。
良寛は「どうしよば、皆がそう思いこんだのだから、それでいいではないか」と答えたのです。
すり鉢
相馬御風の『大愚良寛』に次の逸話があります。
「季節はいつ頃かわからぬが、何でも月のいい晩景を選んで、亀田鵬斎(ぼうさい)が五合庵に良寛を訪ねたことがあった。折から良寛は夕食を済ましたところらしかったが、鵬斎の顔を見るや否や、かたへにあったすり鉢を持ち出しそれに水を注いで洗足をすゝめた。鵬斎は驚いて「これはすり鉢ではないか」と云った。良寛はそれに答へて「いかにも摺(す)り鉢だ、しかし味噌をすることができると同時に足を洗ふこともできるのではないか」と云った。それには鵬斎も返すべき言葉が無く、すゝめられるまゝにその妙な洗足器で足を洗って、上へあがった。」
渡し船から落とされる
地蔵堂(旧分水町、現燕市)の西川の渡(わたし)のことでした。意地悪な船頭がいて、良寛が温和で忤(さから)わない性格であると聞いていたが、本当かどうか試そうとしました。良寛を舟に乗せ、岸を離れたころ、わざと舟を揺らしました。そうしたところ、良寛は川の中に落ちてしまい、溺れそうになりました。
船頭は驚いて良寛さんを救いあげたところ、良寛さんは揺らされて川に落とされたことを恨んで怒るどころか、川の中からすくい上げて助けてくれたことに対し、ひたすら船頭に感謝しました。
打たれても怒らない
良寛さまはかつて、田植えの頃に、私(解良栄重)の家に宿泊された。智海(ちかい)という名のお坊さんがいて、慢心し驕(おご)り高ぶって常日頃言っていた。「私は衆生のために一宗をひらく」と。自分を昔の高僧と同じだと考え、今の世の僧侶たちを皆子供扱いしていた。そして常に、良寛さまを多くの人々が尊敬していることに嫉妬していた。 この日、智海は酒に大酔して、田植えをしたといって、全身泥まみれになって、私の家にやってきた。良寛さまを見ると、怒りを爆発させ、敢えて一言も言わず、濡れた帯で、不意に良寛さまを打とうとした。良寛さまは理由もわからなかったが、身を避けようともしなかった。傍らに居た人が驚いて、智海を抑え留め、良寛さまを別の部屋に入れ、智海を退去させた。
夕方になって、雨がしきりに降り始めてきた。良寛さまは部屋を出て、従容(しょよう)として尋ねた。「あの僧は雨具を持っていただろうか」と。
子供に言われて小川に落ちる
あるとき良寛が、小川の橋を渡ろうとしました。すると子供たちが、「渡ってはだめだ」と言います。引き返そうとすると、「もどってはだめだ」と子供たちが言います。「じゃあ、どうすればいいのか」と良寛が尋ねると、「川へ落ちればよい」と言います。そこで良寛は言われたとおり、川に落ちました。
はじめ子供たちは、しかられたら悪態をついて逃げていこうと思っていたでしょう。しかし、良寛は素直に受け入れてしまったので、子供は意地になって、次々と要求してきました。それをみな良寛は受け入れて、冷たい川の中に落ちて入ったままでいました。
子供たちは意外に思ったに違いありません。このままでは大きな迷惑を与え、結果的に自分たちがひどい目に遭ってしまうと思うようになったでしょう。そして、どんな人にでも無理な要求をするべきではないと覚ったことでしょう。良寛は言葉ではなく、その行いで相手に大切なことを教えたのです。
一切経の虫干し
ある年の暑い盛りの土用の頃、良寛が「今年は五合庵で『一切経(いっさいきょう)』の虫干しをするから、見に来なさい」と村の人々に知らせました。
一切経とはあらゆる経文をまとめたもので、この「一切経」の虫干しの風にあたると、その年の一年間は病気や災難にかからないと信じられていました。
そこで、村人達は、よろこんで五合庵に出かけていきました。しかし、一巻のお経さえも見えません。「良寛さま、一切経はどうしました」と声を掛けると、裸で横たわっていた良寛は、「ほれ、ここにあるよ」と言って、自分の腹を指さしました。見ると、だぶだぶした腹に、「一切経」と大きく墨で書いてありました。村の人たちはあっけにとられ、狐につつまれたような思いで、山を下っていきました。
良寛さまがいるだけで和やか
良寛さまが私(解良栄重)の家に二晩泊まられた。その間、家の人々は上下とも自然と和(なご)やかな気分になり、穏やかな雰囲気が家の中に充ち満ちた。良寛さまが帰られた後も、数日の間は家人たちはおのず仲良くなった。
良寛さまと一晩会話するだけで、胸の中がすがすがしくなることを覚えた。良寛さまはことさらに経文を説いたり、善行を勧めたりはしない。台所で火を焼(た)いたり、奥座敷で坐禅したりするだけである。
良寛さまの話は、むずかしい詩文のことや、人としての生き方などという教訓じみた話ではなく、日常生活に伴う平凡な話題でしかない。
良寛さまは優游としているだけで、特別な言葉で言い表さなければならないということではない。ただ、良寛さまに具(そな)わっている人徳が接する人々に好ましい影響を与え、感化するだけなのです。
タケノコ
良寛さまが国上山の草庵におられたとき、便所の庇(ひさし)の下からタケノコが生えてきました。
良寛さまはタケノコの頭が庇につかえないように、ロウソクの炎で庇に穴をあけようとしました。しかしながら、庇だけでなく便所そのものが燃えてしまったのです。
動物に慕われる
良寛が動物を愛しただけでなく、動物たちも良寛を慕ってまとわりついたといいます。
良寛が地蔵堂の町へ来ると、何処からともなく白い犬が現れ、いかにもうれしそうに尾をふって彼の後になり先になりしてまつわり、田んぼの畔(あぜ)ばたで、彼がこの白犬を相手にして楽しそうにして遊んでいることもあって、この辺の人達が「おお、又黒(彼が黒染めの衣を着ているので)と白が仲よく遊んで御座る」と指していうのが常であったといいます。
また、良寛が托鉢の途次、木の下に休んでいると、彼の持っている鉢に雀が寄り集まって来て、その中の米をついばみ、はては彼の笠の上や肩の上にまでとまったとも伝えられています。
寝返りでドロボウに布団
あるとき良寛さまの住む国上山の草庵に ドロボウが忍びこみました。良寛さまの庵(いおり)には何も盗むべき家財がありませんでした。
どろぼうは良寛さまが寝ている布団を盗もうとして、こっそりと引っ張り始めました。良寛さまは気づかないふりをして、わざとどろぼうに布団を盗まさせるため、寝返りを打って布団から抜け出しました。
子供たちと遊んだ良寛さま
良寛さまは、手まりをついたり、おはじきをしたり、若菜を摘んだりして、里の子供たちと一緒になって遊びました。
良寛さまが地蔵堂の街を通り過ぎようとすると、子供たちが追いかけてきて、「良寛さま一貫」と声をかけると、良寛さまは驚いて体を後ろに反らします。また「ニ貫」と言えば、さらに体を後ろに反らします。二貫、三貫とその数を増やして言うと、良寛さまはだんだんと後ろに反り返って、倒れそうになります。子供たちはこれを見て喜び笑います。
地蔵堂の大庄屋の富取倉太が、私(解良栄重(よししげ))が幼年の頃私の家を訪れました。良寛さまも一緒に泊まっており、富取倉太に言いました。「この里の子ども達はいたずらでこまる。こんなことをこれからはやらないようにしてもらいたい。年を取ったので体が難儀でかなわない」
私はこの話を聞いて言った。「良寛さまはどうしてそんなつらい思いを我慢してその遊びをするのですか。自分からやらなければ良いのではないですか」すると良寛さまは言いました。「してきたことはやめられぬ」
(註) これはある年、競り売りのようすを良寛さまが立ち寄って見た。声を高くしてて、一貫、二貫、三貫とその値を言う。良寛さまはそれに驚いて反り返る。それを見ていた子ども達がこの遊びをするようになったという。
良寛さまは雑炊宗
床屋の長蔵は、ある時良寛をからかって、「お前さまはどの宗派の家へも行ってお経をあげなさるから、雑炊(ぞうすい)宗だ」といった。
書をしつこくせがまれた
新潟町の飴屋万蔵という者が、良寛さまの書を信奉し、店の看板にするための書をぜひ書いてもらいたいと願っていた。あるとき良寛さまが新潟の街にやってきた。万蔵は紙筆を携ヘ、良寛さまを追いかけながら書いてくれるようにお願いした。何回も何回もお願いして、ようやく地藏堂のとある家で良寛さまに看板の文字を書いてもらった。良寛さまはその日、ある人に語って言った。「私は今日、災厄に遭った」と。
ワラジと涙
良寛の甥(弟の由之の長男)馬之助が放蕩のうわさが高くなり、心配した母親が馬之助に説教してくれるよう良寛に頼んだ。良寛は生家橘屋に出かけた。しかし、いざ何か言おうと思うと、どうしても言葉がでない。そのまま3日が過ぎ、良寛は暇を告げ、ワラジを履(は)こうとした。その時良寛は馬之助を呼び、ワラジの紐(ヒモ)を結んでくれるように頼んだ。馬之助は言われたとおりにワラジの紐を結び始めた。そのとき馬之助の首筋に良寛の涙が一滴落ちた。馬之助ははっとして見上げた。良寛は頬に涙を伝わらせながら、だまったままじっと甥の顔を見守った。良寛は無言のまま立ち去ったが、それ以来馬之助の生活は急に改められた。