青年時代

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名主見習役
 十七歳の頃、栄蔵は名主見習役となるため、「三峰館」を退学して出雲崎に戻りました。
 そして、この頃に一度結婚しましたが、半年あまりで離婚したとの説があり、近年は良寛に妻がいたことを裏づける資料もあるとの論文も出されています。
 名主見習役に就任してから、栄蔵はさまざまなトラブルを引き起こしました。名主として必要な調整力や政治力はあまりなく、名主という職務の適性がないことを自覚していたのかもしれません。

出奔
 三峰館の先輩であり、町年寄に就任したばかりの敦賀屋長兵衛を父の以南が詰問した事件などもあり、十八歳の夏、名主見習役だった栄蔵は橘屋を突然出奔(しゅっぽん)しました。
 父の以南が栄蔵を捜し出して橘屋に戻るよう説得するためか、代官所に五、六日の他出願いを出した記録が残っています。
 出奔・出家の原因については諸説あります。
 三峰館の頃から仏の道に生きることが素願であったという説もあります。
 また、私塾長善館を創設した鈴木文台(ぶんたい)は、「栄蔵はいったん家督を相続したが、出雲崎で盗賊の死刑に役目として立ち会い、帰宅してすぐに出家した」という記録を残しています。
 出奔後の栄蔵の行動は詳しくはわかっていません。
 出奔後すぐに光照寺に入山したという説や、各地を放浪したという説、いったん三峰館に復学したのち光照寺に入山したなどの説があります。
 いずれにしても出奔後に栄蔵は坐禅修行を始めたようです。

得度
 二十二歳の時、越後に巡錫してきた大忍国仙和尚により光照寺で得度し、正式に僧となりました。
 そして大愚良寛という名をもらい、国仙和尚とともに備中玉島の円通寺に赴きました。
 橘屋は弟の由之(ゆうし)が名主見習役を継ぎました。

良寛「出家の歌」
うつせみは     常無きものと      むら肝(きも)の  心に思(も)ひて
家を出で      親族(うから)を離れ  浮雲の       雲のまにまに 
行く水の      行方も知らず      草枕        旅行く時に
たらちねの     母に別れを       告げたれば     今はこの世の 
名残(なごり)とや 思ひましけむ      涙ぐみ       手に手を取りて 
我が面(おも)を   つくづくと見し     面影(おもかげ)は 猶(なほ)目の前に 
あるごとし     父に暇(いとま)を   乞ひければ     父が語らく 
世を捨てし     捨てがひなしと     世の人に      言はるなゆめと 
言ひしこと     今も聞くごと      思ほえぬ      母が心の 
睦まじき      その睦まじき      み心を       放(はふ)らすまじと
思ひつぞ      常憐れみの       心持(も)し    浮き世の人に
向ひつれ      父が言葉の       厳(いつく)くしき この厳くしき 
み言葉を      思ひ出でては      束の間も      法(のり)の教へを 
腐(くた)さじと  朝な夕なに       誡(いまし)しめつ これの二つを
父母(ちちはは)が 形見(かたみ)となさむ 我が命        この世の中に 
あらむ限りは