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草堂集
良寛には、百首以上の漢詩を集めた「草堂集」という自筆の詩集があり、また、多くの漢詩の遺墨も残されています。生涯で同趣のものを含めると七百首以上の漢詩を残しています。
良寛は感情は和歌で、思想は漢詩で表現することが多く、漢詩を解釈することで、良寛の思想に迫ることができます。
もちろん漢詩の中には感慨を詠んだ漢詩もあります。たとえば、良寛には厳しい冬の草庵での暮らしぶりなどを詠んだ詩がたくさんあります。
寒 夜
草堂深く掩(とざ)す 竹渓の東
千峯万壑(がく) 人蹤(しょう)絶す
遙夜(ようや) 地炉に榾柮(こっとつ)を焼(た)き
閑(すず)ろに聞く 風雪の寒窓を打つを (訳文) 寒い夜
竹に覆(おお)われた谷川の東に、扉を閉ざして草庵に籠(こ)もる。
雪の季節、すべての山や谷間には人が往き来する足跡も絶える。
冬の長い夜、囲炉裏に木の根株を燃やしながら、
風雪が寒い窓を打ちつける音を閑(しず)かに聞き入っている。
(坐禅をしながら悟りの境地で、諸法実相の真実の世界である大自然と自分とが一体となっている。)
わが詩は詩にあらず
漢詩の中でも五言・七言の絶句・律詩は近体詩と呼ばれ、韻(いん)・平仄(ひょうそく)・対句(ついく)などの厳格なルールがあります。良寛の漢詩には、ルールに沿った漢詩もありますが、平仄などのルールを無視したものも少なくありません。
これは良寛は漢詩の中で「我が詩は是(こ)れ詩に非ず」と述べており、自らも認めています。表現の堅苦しいルールに縛られることなく、自分の真情や境涯を表現することを重視した現れであり、形式に適合するものの、中身の薄いいわゆる職業詩人の漢詩を嫌った所以(ゆえん)でしょう。
孰(たれ)か我が詩を詩なりと謂(い)ふ
我が詩は是れ詩に非(あら)ず
我が詩の詩に非ざるを知りて
始めて与(とも)に詩を謂ふ可し
(訳文)
誰が私の詩を(型にはまった)詩だというのだ、
私の詩は(型にはまった)詩ではない。
私の詩が(型にはまった)詩でないことを知って、
はじめて共に(本当の)詩を語ることができる。
心中の物を写した詩
良寛の漢詩が優れている理由は、形式にとらわれずに、自分の真情をそのまま詠っている点にあります。日本の漢詩作者の中では他に例を見ないことです。
良寛は次の漢詩の中で、「心中の物を写さずんば 多しと雖(いえど)も復(ま)た何をか為(な)さん」とも述べていることから、形式よりも「詩は心の声なり」という古今一貫した漢詩の基本理念を重視しました。
憐れむ可(べ)し 好丈夫 間居(かんきょ)して好んで詩を題す
古風は漢魏と凝(さだ)め 近体は唐を師と作(な)す
斐然(ひぜん)として其れ章を莫(はか)り 之(これ)に加ふるに新奇を以(もっ)てす
心中の物を写さずんば 多しと雖(いえど)も 復(ま)た何をか為(な)さん
(訳文)
立派な男児なのに憐れむべきだ、暇をもて余して題を出して詩を作る。
古詩は漢や魏の作品をまね、近体詩は唐の作品を手本とする。
美しく飾り立てた詩句を作り、さらに新奇さを付け加えている。
しかし心の中の物(心が感じた物)を表現しなかったならば、いくらたくさん詩を作っても、何にもならない。
良寛の漢詩のかずかず
良寛の代表作ともいわれる漢詩があります。
生涯身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう)天真に任す
嚢中(のうちゅう)三升の米
炉辺(ろへん)一束(そく)の薪(たきぎ)
誰か問わん迷悟(めいご)の跡(あと)
何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
夜雨草庵(そうあん)の裡(うち)
双脚(そうきゃく)等閑(とうかん)に伸ばす
(訳文)
私の生きざまは、住職になって親孝行しようなどという考えを好ましくないものと思っており、
ゆったりと、自分の心の中にある清らかな仏の心のおもむくままに任せて日々暮らしている。
壁に掛けた頭陀袋(ずたぶくろ)の中には米が三升、
囲炉裏端(いろりばた)には薪(たきぎ)が一束(ひとたば)あり、これで十分だ
迷いだの悟(さと)りだのに誰がとらわれようか、また、
名誉や利益といったこの世の煩(わずら)わしさにどうして関わ ろうか。
雨の降る夜は草庵の囲炉裏端で、(日頃の托鉢で疲れた)両脚を無心にまっすぐに伸ばしている。
その他の良寛の漢詩
今日食(じき)を乞(こ)ふて 驟雨(しゅうう)に逢ひ
暫時(ざんじ)廻避す 古祠(こし)の中(うち)
咲(わら)ふ可し 一嚢(いちのう)と一鉢(いっぱつ)と
生涯蕭灑(しょうさい)たり 破家(はか)の風
(訳文)
今日、托鉢の最中ににわか雨に遭った。
しばらく古い神社の中で雨やどりした。
愉快だなあ、持っているものは一個の頭陀袋と一個の鉢の子だけ。
私の煩悩を滅却した生き方は、無一物でさっぱりしている。
毬子(きゅうし)
袖裏(しゅうり)の毬子 直(あたい)千金
謂(い)ふ 言(われ)は好手にして等匹無しと
可中(かちゅう)の意旨 若(も)し相問はば
一二三四五六七
(訳文)
毬子 袖の中の手毬は千金の値打ちがある。
わたしこそ手毬の名人であって、同じ腕前の人などいない。
手毬の極意(奥深い仏法の極意)を尋ねるならば。
一二三四五六七(普通でありのまま、そして繰り返すもの(自然の摂理)、それが仏法)と答えよう。
春気 稍(やや) 和調し
錫(しゃく)を振りて東城に入(い)る
青青たり 園中の柳
泛泛(はんはん)たり 池上の萍(うきくさ)
鉢は香る 千家の飯(はん)
心は抛(なげう)つ 万乗の栄
古仏の跡を追慕し
次第(しだい)に乞食(こつじき)を行ず
(訳文)
春の天気は少し和(たわ)らぎ、
錫杖を鳴らして東の町に入る。
庭園の柳は青々とし、
池の浮き草は(まるで私の騰騰任運(とうとうにんぬん)の人生のように)ゆったりと漂っている。
鉢には多くの家からの喜捨でいただいた飯があり、
心は兵車万乗を有する天子の栄誉など眼中にない。
いにしえの仏祖の行跡を慕い追い、
一軒づつ順番に乞食行を修める。
草庵雪夜の作
回首す 七十有餘(よ)年
人間(じんかん)の是非 看破(かんぱ)に飽(あ)く
往来の跡(あと)幽(かす)かなり 深夜の雪
一しゅ※(いっしゅ)の線香 古匆(こそう)の下 ※「しゅ」の字は「火へん」に右側が「主」の字 (訳文)
草庵雪夜の作 七十有余年の人生を振り返る。
世の中の是非善悪は十分に見た。
深夜の雪の積もる往来の道には人の足跡もない。(自分の騰騰任運・随縁に生きてきた道にも跡はない。)
古い窓のもと一本の線香を立てて坐禅をする。(線香と同じように自分の命も尽きようとしている)