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木村家庵室への移住
良寛は六十九歳の時、国上山を離れ、長岡市(旧和島村)島崎の木村家の広い屋敷の裏庭にあった小屋に移り住みました。
弟子の遍澄(へんちょう)が地蔵堂(燕市)の願王閣の閣主に迎えられることになったため、老齢の良寛が病臥したときのことを考えて、遍澄が実家の近所である木村家にお世話していただくよう計らったようです。
良寛の住み慣れた国上山を離れるときの寂しさ・惜別の情は強く、その思いを詠った歌集『くがみ』を書いています。その中に「籠に飼ひし鳥を見て詠める」と詞書きのある歌があります。
あしびき(の) み山の茂み 恋ひつらむ 我もむかしの 思ほゆらくに
蜜蔵院の夏籠もり
長年、自然の豊かな国上山で暮らした良寛にとって、賑やかな島崎の町中での暮らしはなじめなかったのか、移住した翌年の夏の間、海と佐渡の見える寺泊の照明寺(しょうみょうじ)密蔵院で過ごしました。
三条地震
文政十一年(一八二八)良寛七十一歳の十一月十二日、三条町を中心に大地震が発生しました。見附、今町、与板、長岡など被害は方十里に及び、倒壊家屋は二万一千軒、死者千五百人余に達するという大惨事となりました。朝の時間帯だったため、火災も多く発生しました。 良寛は友人の安否を気づかう手紙など、地震に関する手紙を何通か出しています。与板に住む友人の山田杜皐(とこう)に次の書簡を出しています。
地しんは信(まこと)に大変に候 野僧草庵は何事もなく 親類中死人もなくめで度(たく)存候
うちつけに 死なば死なずに 永らへて かかる憂き目を 見るがわびしき
しかし、災難に遭う時節には 災難に遭うがよく候、死ぬ時節には 死ぬがよく候 是はこれ 災難をのがるる妙法にて候
災難に遭う時節以下の言葉は、自然随順の死生観を持ち、騰騰任運(というとうにんぬん)、随縁に徹した良寛の悟達の境地を示すものとして、良寛の中では最も有名な言葉です。
弟由之との交流
島崎の木村家の庵室に住む晩年の良寛と、与板の松下庵に隠栖していた弟の由之は、塩之入峠をお互いに行き来して、親密に交流しました。
また、与板には父以南の実家新木家の菩提寺徳昌寺や、良寛と交流のあった豪商大坂屋三輪家、和泉屋山田家もありました。
良寛七十二歳の正月に与板の由之の庵で二人が唱和した歌があります。
ひさかたの 雪解(ゆきげ)の水に 濡れにつつ 春のものとて 摘みてきにけり (良寛)
春の野の 若菜摘むとて 塩入(しほのり)の 坂の此方に この日暮らしつ (良寛)
わがためと 君が摘みてし 初若菜 見れば雪間に 春ぞしらるる (由之)
盆踊り
良寛は七十三歳の年のお盆に、盆踊りを夜通し踊り明かしました。すでに良寛の体には病気でむくみがきていたのかもしれません。その盆踊りを詠んだ歌があります。
風は清し 月はさやけし 終夜(よもすがら) 踊り明かさむ 老いの名残(なごり)に
月はよし 風は清けし いざ共に 踊り明かさむ 老いの思(も)ひ出に
いざ歌え 我立ち舞はむ ひさかたの 今宵の月に 寝(い)ねらるべしや ひさかたの…月の枕詞
もろともに 踊り明かしぬ 秋の夜を 身に病(いたづ)きの 居るも知らずて
痢病
良寛は七十三歳の夏頃より、痢病で苦しむようになりました。その良寛を、長岡の福島の閻魔堂に住む貞心尼や与板に隠栖していた弟の由之は、たびたび訪ねて見舞っています。良寛の病気は直腸がんではなかったかと言われています。
遷化
天保二年(一八三一)正月六日、良寛は木村家で、木村家の家族、弟由之、貞心尼、遍澄らに看取られ、遷化(せんげ)しました。享年七十四歳でした。同じ年に由之の長男の馬之助も亡くなったため、良寛の墓碑は三回忌の時に隆泉寺の隣りの木村家墓地に建立されました。