文政十三年・天保元年

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 良寛さまと貞心尼 │ 出会い(文政十年) │ 文政十一年 │文政十二年 │ 文政十三年・天保元年 │ 遷化(天保二年) │ 貞心尼の後半生 │

文政十三・天保元年(一八三十) 良寛七十三歳、貞心尼三十三歳

  (文政十三年十二月に天保に改元)

遷化の前年

 三月二十日 由之が五泉の小山田の桜見物に出かける際に、由之と良寛さまは歌を詠みあっています。
 五月 前年の五月に吹き荒れた大風の時の長歌を良寛さまは詠んでいます。この年は雨の少ない旱魃(かんばつ)の年でした。この大風の長歌は旱魃に苦しむ農民への応援歌でしょう。
 六月 良寛さまは水無月の雨乞い歌を詠んでいます。

 その後でしょうか、与板の山田家にて、第六回目の相見があったと思われます。この日は山田家の家族も一緒に楽しく過ごしたようです。

  あるとき、お師匠様が与板の里にいらっしゃっていると、友人のもとから知らせてきたので、急いで参上しました。すると明日はもう別の所に行かれるとのことで、人々が別れを惜しんで、お話をしながら、くつろいでいました。その楽しんでいる人たちの中のある人が、良寛さまは日焼けして肌の色が黒く、墨染めの衣も黒いので「これからは烏(からす)とお呼びしましょう」と言ったところ 「なるほど、烏とは私にふさわしい名前ですね」と笑いながら
いづこへも たちてを行かむ 明日よりは                                からすてふ名を 人の付くれば (良寛)

  と歌でおっしゃられたので
山がらす 里にい行かば 子がらすも                                             誘(いざな)ひてゆけ 羽(はね)弱くとも (貞心尼)

  御返歌
誘ひて 行かば行かめど 人の見て                                           怪しめ見らば いかにしてまし (良寛)

  御返歌           
鳶(とび)は鳶 雀は雀 鷺(さぎ)は鷺                                烏(からす)は烏 なにか怪しき(貞心尼)

  日も暮れたのでお師匠様は今夜泊まる宿へ帰り、明日またお訪ねしましょうとおっしゃって
いざさらば 我は帰らむ 君はここに                                           いやすくい寝よ はや明日にせむ (良寛)

 良寛さまは由之の松下庵、貞心尼は山田家に泊まったようです。

  翌日お師匠様は朝早く訪ねていらっしゃったので
歌や詠まむ 手毬(てまり)やつかむ 野にや出む                                     君がまにまに なして遊ばむ (貞心尼)                                        まにまに…心のおもむくままに

  御返歌              
歌も詠まむ 手毬もつかむ 野にも出む                                           心一つを 定めかねつも (良寛)

病臥した良寛と貞心尼の交流

 七月五日、良寛さまは病に臥し、翌日、由之は良寛さまを見舞い、二人で和歌を唱和しました。
 七月十五日、良寛さまは盆踊りで夜を徹して踊られました。
 天保元年(一八三〇)七十三歳の良寛さまは夏頃から下痢の症状に苦しむようになりました。
 八月に寺泊に行く途中、夜通し踊った盆踊りの疲れが出たのか、地蔵堂の中村家で病臥しました。そのとき、秋萩の咲く頃に貞心尼の庵りを訪問すると約束したのに、その約束を果たせなくなったことを詫びる手紙を貞心尼に出しています。その中に良寛さまの次の歌があります。

  秋には必ず私の庵りを訪ねましょうとお約束なさったのに、体調がよくないので、すこしの間静養してからにしますというお手紙をいただいた中に
秋萩の 花の盛りは 過ぎにけり                                           契(ちぎ)りしことも まだとげなくに  (良寛)

 十月、新津の桂家からザクロを七個もらい、十一月にお礼の和歌を詠んで贈りました。

  その後お師匠様の病状ははかばかしくなく、冬になる頃には庵室のにとじ籠(こ)もって、誰とも会わないようにして、内側から戸を閉めて、臥せっていると、木村家の関係の人が話していたので、お師匠様にお手紙を差し上げて
そのままに なほ耐へしのべ いまさらに                                        しばしの夢を いとふなよ君  (貞心尼)

  と詠んでお送りしたところ、その後しばらくは歌のお手紙をいただけなくて
あづさ弓 春になりなば 草の庵を                                          とく出てきませ 逢ひたきものを (良寛)                                あづさ弓…春の枕詞 とく…早く

 良寛さまは貞心尼の顔がぜひ見たいという思いをそのまま詠んだ歌を貞心尼に送ったのです。

貞心尼の看病

  年末になって、良寛さまの病状が重篤になったという知らせが届きました。驚いて急いで訪ねると、良寛さまは、さほど苦しんでいる様子もなく、床の上に座って、私の訪問をうれしいと思われたのか
いついつと 待ちにし人は 来たりけり                                        今は 相見て 何か思はむ (良寛)

武蔵野の 草葉の露の ながらへて                                              ながらへ果つる 身にしあらねば (良寛)

 武蔵野の歌は「人の命は草葉の露のようにはかなく、いつまでも生き永らえて、生き尽くせる身ではない」という意味でしょう。

  昼夜、お側にいて、ご様子を見申し上げましたが、日に日に衰弱してゆかれたのでどうすることもできず、いずれ近いうちにお亡くなりになってしまわれると思うと、たいそう悲しくなって
生き死にの 境(さかい)離れて 住む身にも                                      さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心尼)                                 さらぬ…避けられない

 「生死(しょうじ)の迷いの世界から離れて住んでいるはずの仏に仕える身にも、避けることができない死別という別れのあることが、たまらなく悲しい」という貞心尼の悲痛な思いの伝わってくる歌です。
 この貞心尼の歌を聞いて、良寛さまは次の返しの俳句を口ずさまれました。

  御返歌
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ  (良寛)

 この句は「表と裏をひらひらさせ、よどみなく舞いながら散って落ちていくもみぢの姿から、執着しない、とらわれない、自在で滞(とどこお)らない生き方を学べ」という良寛さまの最後の教えだったのでしょうか。
 もみぢ葉が散ることは死を意味します。あるいは「貞心尼にはおもて(仏道の師匠としての良寛)も、うら(生身の人間としての良寛の真実の姿)もすべて見せました、もう思い残すことは何もありません」という良寛さまの最後の思いも込められているのでしょうか。