五合庵定住

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 出家・帰国 │ 五合庵定住 │ 親しい人々と橘屋の没落 │ 晩年 │

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五合庵での生活
自然や花を愛する・春



清貧に暮らす
托鉢
修行と自省・自戒
自己犠牲の愛-月のうさぎ
命あるものへの慈愛の心
子供たちと遊ぶ
亡くなった幼子たちへの哀傷歌
農民に寄り添う
いにしえを学ぶ

 

五合庵での生活
 寛政9年(1797)良寛40歳の年にはすでに、良寛は五合庵に住んでいました。このことは、原田鵲斎がこの年に、五合庵に良寛を訪ね、その折に賦した漢詩が存在することなどから、明らかになっています。この漢詩が存在することから、従来、おそくとも、寛政9年(1797)までには、良寛は越後に帰国していたと推測されていたのですが、困ったことに、いつの間にか、良寛の帰国は寛政8年、良寛39歳のときだったというような説が多く見られるようになってしまいました。実際の帰国は、寛政4年(1792)良寛35歳の年だったにもかかわらずです。
 また寛政9年(1797)良寛40歳の年は、父以南の三回忌であり、かつ、国仙和尚の七回忌でもありました。おそらくこの年も、良寛は五合庵を留守にして関西方面に旅に出たのではないでしょうか。
 そして、禅僧としての独自の生き方を確立したこと、修行道場としての五合庵を終(つい)の棲家としたことを、倉敷の長連寺にある国仙和尚の墓前に報告したのではないでしょうか。
 この年の関西方面への旅の往路か復路に(おそらく往路に)、22歳の良寛が国仙和尚と共に円通寺に向かう際に、立ち寄った思い出の地である長野の善光寺に再び立ち寄り、そこで題が「再遊善光寺」首句が「曾従先師遊此地」の漢詩を詠んだものと思われます。善光寺でのこの漢詩は帰国の際のものではなく、帰国の際に、善光寺の次に糸魚川に行ったものでもないと思われます。このことについては、『新潟県文人研究第18号』(越佐文人研究会平成27年11月)の拙稿「良寛は還郷の際、なぜ善光寺の次に糸魚川に行ったのか」をご参照いただきたいと思います。
 この年、良寛は以南の三回忌法要を賦した題が「中元歌」の漢詩を作りました。
 また、この年、21歳の妹のみかは浄玄寺の学僧智現と結婚しました。

 五合庵に本格的に住み始めた頃でしょうか。父が亡くなり、越後に帰ってきたばかりで、まだ人が借りてくれた五合庵での、托鉢と坐禅の生活に慣れていない頃に、従兄弟の中川蘭甫(らんぽ…長大夫)との間で、掛け合い問答歌「借宅庵五首」を詠んでいます。

  蘭甫におくる
つくづくと 借宅庵の 秋の雨 宿世(すくせ)のことも 思ひ出づらめ (良寛)
(世宿…前世からの因縁) 
                         
  同じ人のもとより
粥二合 業三合を 混ぜ食はせ 五合庵にぞ 君は住むなり (蘭甫)
(業三合…身口意の三業を米三合に掛けたもの)

  と言ひおこしたる返し
自今以後 納所は君に 任すべし 二合三合 をりのよろしき (良寛)
(納所…寺の会計役)

  また同じ人
君と我 わづかの米で すんだらば 両寛坊(りょうかんぼう) と人はいふらむ (蘭甫)

  と言へるに
いざさらば 我もこれより 乞食(こじき)せん 借宅庵に 君は御座あれ (良寬)

 良寛の暗い雰囲気の歌をみて、蘭甫は俳諧的な掛け合いに良寛を誘い込んで、元気づけているようです。  
 山中草庵独居の場、只管打坐の修行道場としては、国上山中の五合庵は理想的だったのでしょう。簡素な五合庵に、良寛は約20年間住んでいました。

 良寛が45~46歳の頃、一時五合庵を離れ、長岡市寺泊の照明寺密蔵院(しょうみょうじみつぞういん)、西生寺(さいしょうじ)などで仮住まいしました。五合庵は国上寺の隠居した住職のための住居だったのです。その頃住職の義苗(ぎみょう)が隠居して、五合庵に移ったため、良寛は立ち退いたのです。その後義苗が示寂すると、良寛はまた五合庵に入ったのでした。
 良寛が五合庵に10年ほど住んだ頃の長歌があります。

あしびきの 国上の山に いへ居して い行き帰らひ
山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も豊けし 
春べには 花咲きををり 秋されば もみぢを手折り
ひさかたの 月にかざして あらたまの 年は十年(ととせ)は 過ぎにけらしも
(いへ居して…家を造って住み)
(見が欲し…みたいと思うほど(美しい))
(ををり…枝がたわみ)
(ひさかたの…枕詞)
(あらたまの…枕詞)

自然や花を愛する・春
 国上山の草庵時代に、四季折々の自然や花を詠んだ良寛の歌がたくさんあります。

賤(しず)が家(や)の 垣根に春の 立ちしより 若菜摘まむと しめぬ日はなし
(賤が家…身分が低い人の家)
(しめぬ…心にかけない)

若菜摘む 賤(しず)が門田の 田の崩岸(あぜ)に ちきり鳴くなり 春にはなりぬ              (ちきり…鳧(ケリ)) 

この園の 柳のもとに 円居(まろい)して 遊ぶ春日は 楽しきをづめ
(をづめ…男女が野で歌舞して遊ぶ集まり)

梅の花 折りてかざして いそのかみ 古りにしことを しぬびつるかも
(かざして…髪飾りにして)
(いそのかみ…枕言葉)

ひさかたの 天ぎる雪と 見るまでに 降るは桜の 花にぞありける
(ひさかたの…枕言葉)
(天ぎる…曇り空の)

むらぎもの 心は なぎぬ 永き日に これのみ園(その)の 林を見れば
(むらぎもの…心の枕詞)


青山の 木ぬれたちくき ほととぎす 鳴く声聞けば 春は過ぎけり
(木ぬれたちくき…木の枝の先をくぐって)

ほととぎす 汝(な)が鳴く声を なつかしみ この日暮らしつ その山の辺に

世の中を 憂(う)しと思へばか ほととぎす 木の間がくれに 鳴き渡るなり
わくらばに 人も通わぬ 山ざとは こずゑに蝉の 声ばかりして
(わくらばに…たまにしか)

この宮の み坂に見れば 藤波の 花の盛りに 咲きにけるかも


水(や)汲まむ 薪や伐(こ)らむ 菜や摘まむ 朝の時雨(しぐれ)の 降らぬいとまに

月夜よみ 門田の田居に 出で見れば とほ山もとに 霧立ちわたる
(月夜よみ…月の光がよいので)
(田居…田んぼ)      

わが待ちし 秋は来ぬらし このゆふべ 草むらごとに 虫の声する

ひさかたの たなばたつ女(め)は いまもかも 天の河原に 出で立つすらし 
(ひさかたの…枕言葉)
(たなばたつ女(め)…彦星を待つ棚機姫)
(出で立つすらし…立っているだろう)

渡し守(もり) はや船出せよ ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 川の瀬ごとに
(ぬばたまの…枕言葉)

ひさかたの  天の河原の  渡し守(もり) 川波たかし 心して越せ
(ひさかたの…枕言葉)

ぬばたまの 夜はふけぬらし 虫の音も わが衣手も うたて露けき 
(ぬばたまの…枕言葉)
(うたて…ひどく)

いまよりは つぎて夜寒むに なりぬらし 綴(つづ)れ刺(さ)せてふ 虫の声する
(つぎて…続いて)
(綴(つづ)れ刺(さ)せ…着物の破れをつくろえ)  
                                        
いそのかみ 古川の辺(べ)の 萩の花 今宵の雨に うつろいぬらむ
(いそのかみ…枕言葉)
(うつろいぬ…色がさめてしまった)                                                 

さびしさに 草のいほりを 出て見れば 稲葉押しなみ 秋風ぞ吹く
(押しなみ…押しなびかせて) 
               
わが宿を 訪ねて来ませ あしびきの 山のもみぢを 手折(たお)りがてらに
(あしびきの…枕言葉)
(手折(たお)りがてらに…折り取るついでに) 
             
秋山を わが越えくれば たまぼこの 道も照るまで もみぢしにけり
(たまぼこの…枕言葉)

このごろの 寝ざめに聞けば 高砂(たかさご)の 尾の上に響く 小牡鹿(さおしか)の声
(高砂の…枕言葉)
(尾の上…山の頂まで)     

山里は うら寂しくぞ なりにける 木々(きぎの)のこずゑの 散り行く見れば    

もみぢ葉は 散りはするとも 谷川に 影だに残せ 秋の形見(かたみ)に
(影だに…映る姿だけでも)
                                             
たまぼこの 路(みち)惑ふまで 秋萩は 咲きにけるかも 見る人なしに
(たまぼこの…路の枕詞)

秋の日に 光り輝く すすきの穂 これの高屋に 登りて見れば
(これの高屋…阿部家の高い建物)


夜もすがら 草のいほりに 我をれば 杉の葉しぬぎ 霰(あられ)降るなり
(夜もすがら…一晩中)
(しぬぎ…押し分ける)

夜(よ)を寒(さむ)み 門田の畔(くろ)に ゐる鴨の 寝(い)ねがてにする ころにぞありける
(畔…あぜ)
(がてに…できなくて)

わが宿は 越(こし)の白山(しらやま) 冬ごもり 行き来の人の 跡かたもなし

清貧に暮らす
 良寛が暮らした五合庵には家具はほとんどなく、最低限、必要な鍋や寝具ぐらいのものでした。実に簡素な草庵だったようです。そこで清貧に暮らし、坐禅修行と、村々への托鉢の生活を続けました。

吾が宿は 竹の柱に 菰(こも)すだれ 強(し)いて食(を)しませ 一杯(ひとつき)の酒

 この歌から、柱は竹で、竹の柱と柱の間には菰が吊るされていたようです。
 また、戸は柴で作った粗末なものであったことを示す歌もあります。

こと足(た)らぬ 身とは思はじ 柴の戸に 月もありけり 花もありけり 

 こうした草庵に暮らす中、あまりの寒さに耐えきれなくなった思いも歌にしています。

埋(うず)み火に 足さしくべて 臥(ふ)せれども こたびの寒さ 腹にとおりぬ

 良寛はお金やモノといった財産を所有しない生活を心掛けていたのです。
 また、お金だけでなく、地位、権力、名誉も一切求めない生活でした。
 しかし、世間の多くの人は、愛欲、煩悩のために、快楽、金、財産、地位、権力、名誉などを求めるばかりであると嘆く漢詩を多く詠んでいます。
 名こそ惜しけれという名誉を重んじる価値観が重要視された時代風潮の中で、良寛にとっては名誉を求める心も、捨て去るべき煩悩・欲望の一つだったのです。人に知られることなく生きていくということを、詠った歌があります。

あらがねの 土の中なる 埋もれ木の 人にも知らで くち果つるかも

托鉢
 良寛は托鉢(たくはつ)を行うことで布施(ふせ)を行いました。
 托鉢とは財施(ざいせ)と法施(ほうせ)などが同時に行われることです。人々からお米やお金などの財の布施をいただくと同時に、良寛は人々に様々なものを施しました。法施、無畏施(むいせ)、和顔施(わげんせ)、愛語施、仏徳施などです。
 法施とは、托鉢の時に経文を唱えたり、仏の教えを話したりする布施です。
 無畏施とは、仏法の真理を知ることで、不安や恐怖がなくなるということを説いて安心させることです。
 和顔施とは、やさしい慈愛に満ちた表情で相手と接することです。
 愛語施とは、やさしい言葉を相手にかけることです。
 仏徳施とは、厳しい修行を積み、高い悟境に達した良寛の清らかな心、慈愛に満ちた仏の徳を体現した人格に接した人々が自然に感化を受けることです。
 良寛の托鉢での布施は、法施、無畏施より、和顔施、愛語施、仏徳施が中心でした。
  また、托鉢以外でも、和歌を詠みかわすことや、良寛の心を詠った詩歌を書いた書を無償で与えることも、布施でした。
 子ども達に行動で教えを諭すことも、布施でした。
  愉快な行動で笑いを与えることも、布施でした。笑いは健康になる効果があり、人を幸せにします。

 春や秋に托鉢に出た良寛は、野の花を摘むのに夢中になって、しばし鉢の子(お布施の米などを受け取る鉢)を忘れたこともありました。托鉢の歌があります。

飯乞(いいこ)ふと 里にも出(い)でず このごろは 時雨(しぐれ)の雨の 間なくし降れば 

飯乞ふと 里にも出でず なりにけり きのふもけふも 雪の降れれば

飯乞ふと わが来(こ)しかども 春の野に 菫(すみれ)摘(つ)みつつ 時を経(へ)にけり

道の辺(べ)に 菫摘みつつ 鉢(はち)の子を 我(わ)が忘れてぞ来し 憐れ鉢の子

鉢の子に 菫たむぽぽ こき混ぜて 三世(みよ)のほとけに 奉(たてまつ)りてな                (こき…接頭語)
(三世…過去、現在、未来)

修行と自省・自戒
 良寛は無欲の心、慈愛の心を持ち続けるために、常に我が身を振り返り、自分の言動が適切であったか否かの自省を行うという努力を怠りませんでした。その自省の心を歌った歌があります。

あしひきの 山田の案山子 汝(なれ)さへも 穂拾ふ鳥を 守るてふものを

いかにして 誠の道に かなひなむ 千とせのうちに ひと日なりとも
(いかにして…何とかして)
(誠の道…仏法の正しい道)
(かなひなむ…ふさわしい行いをしたいものだ)

何故に 家を出でしと 折りふしは 心に愧(は)ぢよ 墨染(すみぞめ)の袖

身をすてて 世をすくふ人も 在(ま)すものを 草の庵に ひまもとむとは

人の善悪(さが) 聞けばわが身を 咎(とが)めばや 人はわが身の 鏡なりけり

 良寛は次の言葉を、座右の銘としました。 
「一生成香」 (一生香(こう)を成(な)せ
「生涯いい香りを発しながら生きよ」という、ある意味では、自分に対するきびしい戒めのことばです。この座右の銘によって、良寛は常に自分の心を奮い立たせていたのでしょう。一生努力して、清く正しく美しく生き、万人に慕われる人格者となった良寛はまさに「香を成した」のです。
 良寛は使ってはならない言葉を戒語(いましめことば)として、常に頭の中に箇条書きで整理して、記憶していました。もちろん、時々は思い出して復唱していたでしょう。だから、親しい人に、それらの箇条書きを思い出して、書いて与えたのです。 
 良寛は多くの戒語を残しています。

自己犠牲の愛-月のうさぎ
 良寛は愛とは自己犠牲を伴う献身的な愛を至高のものと考えていました。その思いを歌ったものとして、仏教説話を題材にした次の長歌があります。   
 月のうさぎをよめる
天雲の    向(むか)伏すきはみ  きはみ…果て
谷蟇(たにぐく)の   さ渡る底ひ        谷蟇…ひきがえる
国はしも   さはにあれども       さはに…多く
人はしも   あまたあれども
御ほとけの 生(あ)れます国の
開(あ)き方(かた)の   そのいにしへの     開き方…開きはじめの時
ことなりし  猿(まし)とをさぎと      をさぎ…うさぎ
狐(きつに)とが   言(こと)を交(か)はして
朝(あした)には    野山に遊び   
ゆふべには 林に帰り
かくしつつ  年の経(へ)ぬれば
ひさかたの  天(あめ)の命(みこと)の         ひさかたの…天の枕詞
聞こしめし  偽(いつわ)り真(まこと)    
知らさむと   旅人(たびと)となりて
あしびきの  山行(ゆ)き野行き     あしびきの…山の枕詞
なづみ行き 食(を)し物あらば         なづみ…難渋して
賜(たま)へとて   尾花折り伏せ  
憩ひしに    猿は林の
上枝(ほつえ)より   木の実を摘みて 
参らせり  狐はやなの             やな…簗場
あたりより  魚(いを)をくはへて  
来りたり   をさぎは野べを          
走れども   何も得ずして  
ありければ  汝(いまし)は心
もとなしと  戒(いまし)めければ     もとなし…十分でない
はかなしや  をさぎうからを        うから…仲間
たまくらく  猿は柴を         たまくらく…手招いて言う
刈りて来よ  狐はそれを
焼(た)きてたべ まけのまにまに    たべ…ください まけ…命令
なしつれば 炎に投げて
あたら身を  旅人の贄(にえ)と      あたら…惜しい  贄…捧げ物
なしにけり  旅人はそれを
見るからに しなひうらぶれ       しなひ…萎(しお)れ
こひまろび  天を仰ぎて           こひまろび…転げ回り
よよとなき   土に倒れて   
ややありて  土うちたたき  
申すらく   汝(いまし)三人(みたり)の   
友だちに   勝り劣りを  
言はねども 我れはをさぎを 
めぐしとて   もとの姿に          めぐし…愛しい
身をなして 骸(から)をかかへて      骸…なきがら
ひさかたの  天つみ空を  
かき分けて 月の宮にぞ   
葬(ほう)りける  しかしよりして  
栂(つが)の木の  いやつぎつぎに    栂の木の…つぎの枕詞
語りつぎ  言ひつぎ来り  
ひさかたの  月のをさぎと  
言ふことは それがもとにて   
ありけりと   聞く我さへに  
白栲(しろたえ)の   衣の袖は       白栲の…衣の枕詞
とほりてぬれぬ

命あるものへの慈愛の心
 良寛の慈愛に満ちたやさしい心は、人間はもちろん動物や虫、植物といった小さな命までも大切にしました。

我宿の 草木にかくる 蜘蛛(くも)(くも)の糸 払わんとして かつはやめける
(かつは…すぐに)
                                           
 木村家の娘「かの」が嫁ぐにあたって、嫁の心得を書いてほしいと頼まれて良寛が書いた戒語の中に、次の一条があります。
 「上をうやまい 下をあはれみ  しょう(生)あるものとりけだものにいたるまで 情けをかくべき事

 雨に濡れている松の木を人に見立てて詠った和歌があります。

岩室の 田中に立てる 一つ松の木 
今日見れば 時雨の雨に 濡れつつ立てり

一つ松 人にありせば 笠貸さましを 蓑着せましを 一つ松あはれ

 夏の夜に借り物の蚊帳(かや)を吊っても、良寛は毎晩片足だけは蚊帳の外に出して寝たという逸話があります。

子供たちと遊ぶ
 良寛は嘘偽りのない純真な子供たちが大好きでした。良寛そのものが子供のような純真な心だったのです。子供たちと一緒に遊んだ良寛は、子供たちと遊んでやったのではなく、良寛そのものが子供だったのです。
 「かくれんぼ」、「毬つき」などで子供たちとよく一緒に遊びました。このことは一面では、水と闘っていた時代の農民の親に代わって子供たちの面倒を見ていたのです。
 女の子の中には水害の年になると、上州の木崎宿などに、飯盛り女として売られていく子もいました。そんな過酷な運命が待っている子供たちと一緒に遊び、楽しい思い出を作ってあげていたのです。
あづさ弓     春さり来れば  
飯乞(いいこ)ふと 里にい行(ゆ)けば
里子ども     道のちまたに  
手まりつく    我も交じりぬ
そが中に     一二三四五六七(ひふみよいむな) 
汝(な)がつけば  我(わ)は歌ひ
我が歌へば    汝はつきて   
つきて歌ひて   霞(かすみ)立つ
永き春日(はるひ)を 暮らしつるかも   (長歌)

霞立つ 永き春日を 子どもらと 手まりつきつつ この日暮らしつ

この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし

この宮の 森の木下(こした)に  子どもらと 遊ぶ春日に なりにけらしも

子どもらよ いざ出でいなむ 弥彦(いやひこ)の 岡のすみれの 花にほひ見に
(にほひ…美しさ)

むらぎもの 心楽しも 春の日に 鳥のむれつつ 遊ぶを見れば
(むらぎもの…枕詞)

亡くなった幼子たちへの哀傷歌
 文化元年(1804)に疱瘡(ほうそう)(天然痘)が流行し、親友の原田有則が二人の幼子を亡くしたのをはじめとして、多くの子供たちが亡くなりました。

煙(けぶり)だに 天(あま)つ御空(みそら)に 消え果てて 面影のみぞ 形見ならまし

嘆くとも 返らぬものを 現(うつ)し身は 常なきものと 思ほせよ君

御仏の 信(まこと)誓(ちかい)の ごとあらば 仮の憂き世を 何願ふらむ

  その夜は法華経を読誦(どくじゅ)して有縁無縁の童に廻向(えこう)すとて誘引(ゆういん)
知る知らぬ 誘(いざな)ひ給え 御(み)ほとけの 法(のり)の蓮(はちす)の 花の台(うてな)に
(読誦…声を出して経文を読むこと)
(廻向…冥福を祈ること)
(誘引…仏の世界に導くこと)
(蓮の花の台…極楽にある死者の座る場所)                                             
 翌年、良寛は子を亡くしたすべての親に代わって哀傷の歌を多く詠みました。

あづさゆみ 春を春とも 思ほえず 過ぎにし子らが ことを思へば
(あづさゆみ…春の枕詞)

春されば 木々の梢に 花は咲けども もみぢ葉の 過ぎにし子らは 帰らざりけり

人の子の 遊ぶを見れば にはたずみ 流るる涙 とどめかねつも
(にはたずみ…流れるの枕詞)
                     
もの思ひ 術(すべ)なき時は うち出(い)でて 古野に生ふる 薺(なずな)をぞ摘む

いつまでか 何嘆くらむ 嘆けども 尽きせぬものを 心惑ひに

子を思ひ 思ふ心の ままならば その子に何の 罪を負わせむ

子を思ひ 術(すべ)なき時は 己が身を 抓みて懲らせど なほ止まずけり

あらたまの 年は経(ふ)るども 面影の なほ目の前に 見ゆる心か

今よりは 思ふまじとは 思へども 思い出(い)だして かこちぬるかな

思ふまじ 思ふまじとは 思へども 思い出だして 袖しぼるなり

農民に寄り添う
 良寛は人が人を差別することが、もっとも悲しいことであると考えていました。特に江戸時代の徳川幕藩体制下の武士が、農民、町人、非人を差別し、搾取していたことに対して、強い憤りを感じ、差別されていた貧しい農民に対して、深い慈愛の心を注ぎ続けました。
 托鉢に出かけると、和顔と愛語で子供たちや村人と接し、疲れた農民には按摩を、病人には看病をしたりしました。時には親しい農夫と酒を酌み交わしたりしました。
 こうして、良寛はたびたび見舞われる水害に苦しむ農民たちに寄り添って生きたのです。慈愛の心で水害に苦しむ衆生を済度する菩薩行の生涯に徹したのです。
 良寛に、旱魃(かんばつ)や長雨・洪水などの自然災害や、火災に苦しむ庶民を気遣って心配する歌があります。

我さへも 心にもなし 小山田(をやまだ)の 山田の苗の しをるる見れば
(しをるる…日照りのためにしおれているのを)
                              
あしびきの 山田の小父(をぢ)が ひねもすに い行(ゆ)きかへらひ 水運ぶ見ゆ
(あしびきの…山にかかる枕詞)
(小父…年寄り)
(ひねもす…一日中)
(い行(ゆ)きかへらひ…行ったり来たりして)
                
秋の雨の 日に日に降るに あしびきの 山田の小父(をぢ)は 奥手(おくて)刈るらむ
(あしびきの…山の枕詞)
(小父…老農夫)
(奥手刈るらむ…晩稲を刈り取っているのだろう)
                                    
奥手刈る 山田の小父(をぢ)は  いかならむ ひと日(ひ)も雨の  降らぬ日はなし

遠方(おちかた)ゆ しきりに貝の 音すなり 今宵の雨に 堰(せき)崩(く)えなむか
(遠方ゆ…遠方から)
(貝…ホラ貝(危険を知らせるときに吹く))
(堰崩えなむか…堤防が決壊したのだろうか)
                          
小夜中(さよなか)に 法螺(ほら)吹く音の 聞こゆるは 遠方(おちかた)里に 火(ほ)やのぼるらし
(小夜中…夜中)
(遠方…遠方の)
                        
 良寛に差別を憎む歌があります。

如何なるが 苦しきものと 問ふならば 人をへだつる 心と答へよ
(へだつる…差別する)
                                 
 良寛に世間の貧しい人々を救いたいという思いを述べた歌があります。

墨染の わが衣手の ゆたならば うき世の民を 覆(お)はましものを
(ゆた…広くゆったりしている)
(覆はましものを…覆うように救うことができるのだが)
                          
わが袖は しとどにぬれぬ うつせみの 憂き世の中の ことを思ふに

わが袖は 涙に朽ちぬ 小夜(さよ)更(ふ)けて うき世の中の 人を思ふに
(朽ちぬ…濡れて弱くなった)
            
世の中の 憂(う)さを思へば 空蝉(うつせみ)の わが身の上の 憂さはものかは
(憂さ…生きていくつらさ)
(空蝉の…身の枕詞)
(ものかは…取り立てて言うほどのものではない)

憂(う)きことは なほこの上に 積もれかし 世を捨てし身に 試してや見む

  長岡市寺泊に、円上寺潟という島崎川の水が淀んでできた大きな潟がありました。今の大河津分水のあたりで、国上山の麓、真木山、大森子陽の墓のある当新田の万福寺周辺などに囲まれたていました。洪水の時期には氾濫して周辺に大きな被害を及ぼしました。
 原田仁一郎氏の『円上寺潟の干拓』(私家版 平成三年)によると、面積は推定で五百数十町歩(一町歩=十反=三千坪=約一万㎡=約1ヘクタールですから、五百数十ヘクタール)であったといいます。ちなみに東京ドームのグランドの広さは1.3ヘクタールなので、東京ドームのグランドがだいたい四百個くらいとなる広さでした。
 そこで、この円上寺潟の干拓事業が計画されました。潟の北側の山にトンネルを掘り、日本海に排水するという計画です。この山にトンネルを掘って排水する須走(すばしり)間歩(まぶ)川の工事は、寛政12年(1800)に起工し、文化12年(1915)に完成しました。
 円上寺潟の干拓は困難を極めた事業でした。まず、野積には塩浜・塩田がありましたが、そこに排水するので、塩田が全滅します。そこで、被害が出たら、毎年金や米を払って補償するという約束を取り交わさなければなりませんでした。ところが野積は松平氏の白川藩領であったため、まず、村上藩を説得し、村上藩から松平藩に働きかけてもらわなければならませんでした。役人との困難な交渉は村上藩だけでなく、松平藩の役人とも行わなくてはならず、交渉に苦労してようやく同意を取り付けました。
 工事も素人ではトンネルは掘れません。プロの技術者をどこから連れて来るかという問題もありました。また、大量の人夫が必要であり、その確保と賃金の財源をどうするかという大問題もありました。
 干拓工事の過程で多くの反対者もおり、訴訟も起きました。阿部定珍などは訴訟対応で江戸に出かけたりしたのです。
  こうした困難な課題を多く抱えた干拓事業は、長い年月と、莫大な費用と、多くの労力を要して、ようやく完成したのです。
 この干拓事業のまとめ役は、村上藩の三条役所配下の地蔵堂組の大庄屋だった富取家で、真木山の良寛の親友原田鵲斎の兄、原田要右衛門が第一線に立ち、牧ヶ花村の解良叔問、渡部村の阿部定珍といった、円上寺潟周辺の庄屋たちがみんな必死になって協力して、ようやく実現したのです。そうした活動に全力を傾けていた彼ら東村の叟たちがまた、良寛を中心としたグループの一員でもありました。
 東村の叟達が取り組んだ円上寺潟の干拓事業の遂行に際して、良寛の果たした役割がありました。平成18年9月14日の信濃川自由大学第11回講座「良寛と信濃川~自然を愛し民衆を愛した良寛和尚」で井上慶隆氏は次のように述べています。
 「(前略)もう、大変苦労をしていたはずなのです。阿部定珍や解良叔問が良寛と親しくしていたのは、ちょうどその頃なのです。阿部家や解良家に、良寛の詩や歌や書簡がいっぱいあります。あれは隠居のひまに、わけのわからんのを見て楽しむというふうなのではなくて、彼らはもっと切実に良寛さまと接していた。もちろん良寛に「この図面を見てくれ」と言ったって、分かるはずはないのだけれど、「全く困りましたわ」くらいの相談事は始終していたと思います。良寛はそういう意味で、地元と密着していたと思います。(中略)おそらく解良叔問や阿部定珍たちは、もっと切実に、なんと言ったらいいでしょうか、相談役あるいは苦情の捨て所みたいな形で、良寛さまに親しんでいたのじゃないか。(後略)」
 須走間歩川の完成を喜ぶ良寛と阿部定珍の歌があります。

  円上湖とて大いなる潟なんありける 思へば二十歳(はたとせ)余りにもなりぬらむ 片方(かたえ)の山を穿(うがち)ちてその水を  須走(すばしり)てふ浦に落としたりけり さてこの所に幾千(いくち)まちの苗を植えたりければ この秋は八束(やつか)穂垂(ほた)りてこころよし 青人草手を打ちて謳い舞う やつがれかくなむ
秋の田の 穂にでて今ぞ 知られける かたへに余る 君がかたへを  (良寛)
(円上湖…円上寺潟)
(幾千まち…たくさんの田の区画)                                      
(八束穂垂りて…豊かにみのった)
(青人草…たくさんの人々)
(やつがれ…わたしめ)
(かたへ…片方)
(かたへ…恩恵)

あしびきの 山下うがち ゆく水の 流れはつきじ 千代も八千代も  (定珍)

 良寛の歌の「君」は阿部定珍などの東村の叟たちのことと思われます。良寛は農民とともに、東村の叟たちとともに完成の喜びを共感しました。

いにしえを学ぶ     
 良寛は和歌は万葉集に熱心に学んだほか、日本書紀、古事記などの古代日本の文化・国学にも、強い関心を持って学びました。
 古代の素朴で人間性のあふれた直き心を愛した良寛は、記紀万葉の世界のすばらしさを、理解する人が少ないことを嘆く歌を詠んでいます。

いにしへの 人の踏みけむ 古道は 荒れにけるかも 行く人なしに