和歌でたどる生涯 出家・帰国

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出家・帰国 │ 五合庵定住 │ 親しい人々と橘屋の没落 │ 晩年 

一部編集中です。

このページの記述は、野積良寬研究所発行のガイドブック『和歌でたどる良寬の生涯』の内容と同一です。

良寛の出家
円通寺での修行
良寛の帰国前の旅
良寛の帰国
越後での不定住時代
五合庵入庵
父の死

良寛の出家

 良寛は家族との絆を大切にしました。弟の由之などの家族を思う和歌をたくさん詠んでいます。これらの和歌を中心に、良寛の生涯をたどって見たいと思います。

 宝暦8年(1758)、良寛は越後出雲崎町の名主を務めていた橘屋の長男として生まれました。父は以南、母は秀子(以南と結婚するまでは おのぶ)
 少年時代は、地蔵堂の親戚中村家に下宿しながら、北越四大儒と呼ばれた大森子陽の学塾・三峰館で、儒学・漢詩文などを学びました
 俳人としても著名であった父以南が、名主の職を榮蔵(良寛の幼名)に譲るために、榮蔵を出雲崎に呼び戻し、妻帯させ、名主見習役に就かせました。しかしながら、名主見習役の適性に欠けていたせいか、さまざまなトラブルを引き起こした榮蔵は、18歳の夏に、妻と離別し、生家橘屋から出奔してしまいました。出奔後はどこで何をしていたかについては、よくわかっていません。この空白の4年間については、「青年良寛の空白の四年間について」(『郷土史燕』第12号2019.3)をご参照いただきたいと思います。
 信仰心の篤かった母秀子(以南と結婚する前はおのぶ)の影響からか、仏教への思いが強かった榮蔵は、その後、坐禅修行を始めたようです。
 22歳の時に、光照寺に来錫していた備中(岡山県)の円通寺の大忍国仙和尚によって、得度して正式な僧となり、良寛という名をもらい、国仙和尚とともに、円通寺に赴きました。旅立ちの丘で良寛を見送った母とは、永遠の別れとなりました。
 良寛が得度したときの22歳という年齢は、良寛晩年の弟子だった證聴が書いた『良寛禅師碑銘並序』に、世寿74、法臘(僧になってからの年数)53とあることから、逆算すると22歳で得度したものと考えられるためです。
 良寛が出家するときの長歌があります。
出家の歌
    うつせみは  常無きものと    むら肝の   心に思(も)ひて      
    家を出で  親族(うから)を離れ   浮雲の   雲のまにまに 
    行く水の   行方も知らず   草枕     旅行く時に          
    たらちねの  母に別れを    告げたれば  今はこの世の        
    名残(なごり)とや  思ひましけむ   涙ぐみ   手に手を取りて
    我が面(おも)を つくづくと見し 面影(おもかげ)は  猶(なお)目の前に
    あるごとし   父に暇(いとま)を  乞ひければ  父が語らく     
    世を捨てし  捨てがひなしと   世の人に   言はるなゆめと   
    言ひしこと  今も聞くごと   思ほえぬ   母が心の      
    睦まじき   その睦まじき   み心を    放(ほう)らすまじと    
    思ひつぞ  常憐れみの    心持(も)し   浮き世の人に    
    向ひつれ  父が言葉の    厳(いつく)くしき  この厳くしき    
    み言葉を  思ひ出でては   束の間も   法(のり)の教へを     
    腐(くた)さじと   朝な夕なに  誡(いま)しめつ  これの二つを   
    父母が  形見(かたみ)となさむ 我が命   この世の中に  あらむ限りは

 良寛が故郷を離れたときの感慨を詠った歌があります。

  近江路をすぎて
ふるさとへ 行く人あらば 言(こお)づてむ 今日近江路を われは越えにきと

円通寺での修行

 良寛が玉島(現倉敷市)の円通寺で厳しい修行をしていた、天明3年(1783)良寛26歳の年に、母秀子は49歳で亡くなりました。
  後年、良寛は次の歌を詠んでいます。

沖つ風 いたくな吹きそ  雲の浦は  わがの 奥つ城(き)どころ
(いたくな吹きそ…ひどく吹かないでおくれ) 
(雲の浦…出雲崎の海岸)    
(たらちね…母)
(奥つ城…墓)

 良寛の師の国仙和尚は和歌にも堪能でした。次の歌があります。
捨てし身は 心も寛(ひろ)し 大空の 雨と風とに 任(まか)せ果(は)ててき
 良寛は国仙和尚の騰騰任運(とうとうにんぬん)の生き方を学びました。後年、次の和歌を尊敬する布袋の画に讃しています。

この僧の 心を問はば 大空の 風の便りに つくと答へよ

 国仙和尚の最後の弟子の義堤尼も和歌をよくしており、良寛も円通寺時代に和歌をある程度学んだのではないかと思われます。
 良寛はひたすら仏道修行に邁進していました。しかしながら、他の修行僧の中には、立派な寺の住職になろうとか、お布施をたくさんいただく信者と、特別に親しくするなどというような者もいました。俗世間の煩わしさをから脱出するために、仏門に入ったものの、僧侶の世界も、また俗世間とおなじだと感じたのか、次の歌があります。
  遁世
波の音 聞かじと山へ 入りぬれば 又色かへて 松風の音

 厳しい修行を続けた良寛は、寛政2年(1790)良寛33歳の年の冬に、修行が進み一定の境地に達した証しとして、国仙和尚から印可の偈を授かりました。いわば修了証書を授与されたのです。

良寛の帰国前の旅
 翌年の3月に、国仙和尚が69歳で示寂しました。秋に、円通寺を立去った良寛は、寛政3年(1791)良寛34歳の年の秋から、寛政4年(1792)の春の国仙和尚の一周忌に参加するまでの間、良寛は瀬戸内海に沿って東に向かい、京都、高野山、吉野などを旅したものと思われます。その旅の目的は、国仙から和歌の指導を受けていたことから、西行などの歌枕を訪ねる旅であり、また兄弟子を訪ねて国仙和尚の教えを確認する旅でなかったでしょうか。
 塩浦林也氏の『良寛の探究』の中では、次の旅があったのではないかと述べられています。兄弟子参見の修行と西行巡遊を中心とした作歌の旅(国仙一周忌までの約五ヶ月間)

玉島→赤穂→韓津(現福泊)→明石→箕面の勝尾寺→京都→立田山→弘川寺→高野→和歌浦→熊野本宮・新宮→吉野→初瀬→伊勢→松坂・津・関・鈴鹿峠→草津→京都→能勢妙見参拝→津の国の高野(高代寺)→有馬→須磨紀行(寛政4年(1792)良寛35歳)1月24日→玉島

 赤穂では、次の歌を詠んでいます。なお、あこうは英賀保との説もあります。赤穂城塩屋門の所に歌碑があります。  あこうといふところにて 天神の森に宿りぬ 小夜(さよ)ふけ方 嵐のいと寒う吹きたりければ
山おろしよ いたくな吹きそ 妙白(しろたえ)の 衣片敷(かたし)き 旅寝せし夜は
(妙白(しろたえ)の…枕言葉 )
(片敷(かたし)き…片袖を敷いて)
                             
  翌日は韓津(現福泊)で、次の歌を詠んでいます。

  次の日は 韓津てふ処に到りぬ 今宵宿の無ければ
思ひきや 道の芝草 打ち敷きて 今宵も同じ 仮寝せむとは

  明石では、次の歌を詠んでいます。

浜風よ 心して吹け ちはやぶる 神の社(やしろ)に 宿りせし夜は

神の社とは明石市人丸町にある柿本(かきのもと)神社ではないかと言われています。

 箕面の勝尾寺では、次の歌を詠んでいます。

幾たびか まゐる心は 勝尾寺 ほとけの誓い 頼もしきかな

 勝尾寺には窮民を救い良寛が心酔した光明皇后直筆の法華経があります。

 京都では、二回通っています。二回とも弟(三男)の香と会っていると思われます。そして次の二つの歌を詠んでいます。

  はこの松は常住寺の庭にあり。常住寺は大師の建立なり。大伴家持の歌に
けふははや たづのなくねも 春めきて 霞に見ゆる はこの嶋松

皇(すめらぎ)の 千代万代の 御代(みよ)なれば 華の都に 言の葉もなし

  はこの松は加古の松との説があります。

 立田山では、次の歌を詠んでいます。

立田山 紅葉の秋に あらねども よそに勝れて あはれなりけり

  弘川寺(ひろかわでら)(大坂)では、次の歌を詠んでいます。

  西行法師の墓を詣でて花を手(た)向けて詠める
手(た)折りこし 花の色香は 薄くとも あはれみ給え 心ばかりは

 弘川寺に西行の墓があることを江戸時代に発見した似雲(じうん)法師は、ここで庵を結んで住み、西行堂を建立し、そして没しました。

 高野山では、次の高野紀行を詠んでいます。奥の院の豊臣家墓所の隣に、高野紀行碑があります。

 高野道中に衣を買うは銭に直(あたい)するや
一瓶一鉢 遠きを辞せず
裙子褊衫 破れて春の如し
又た知る 嚢中無一物なるを
総て風光の為に 此の身を誤る

  さみづ坂といふところに里の童の青竹の杖をきりて売りいたりければ
こがねもて いざ杖かわん さみづさか

(詩の訳)
高野山に参拝するために、(多くの人々は衣を買って身なりを整えるが、はたして)新しい衣は銭を出してまで買う価値があるのだろうか (ほかに買うべきものがあるのだ(現世利益を願うよりも仏法の会得を目指すべきだ)) 
  (仏道を極めるためには)一個の水入れと鉢だけを携えての遠い道のりは苦にしない
 腰衣と上衣はボロボロにすり切れて春霞のようだ
 仮に衣を買おうと思っても、頭陀袋の中は空っぽだ
 これは美しい風景を見ようと旅をした誤った行為の結果だろうか、(いや、自然法爾の悟りを得 た人の風情光儀を身に付けると、どういうわけか、思いがけなく、このような一文無しの姿になる のだ)
※ 従来この漢詩の「直銭」の句は(無)の脱字とされ、衣服を買う金がないと解釈されてきたが、銭に値いしないという意味との説もある。

 和歌浦では次の歌を詠んでいます。

ながむれば 名も面白し 和歌の浦 心なぎさの 春に遊ばむ

ひさかたの 春日に芽出る 藻塩草 かきぞ集(あつむ)る 和歌の浦わは

 熊野本宮・新宮では、熊野詣を行ったのでしょう。

 吉野では、次の吉野紀行を書いています。 蔵王堂の近くに吉野紀行碑があります。

 里へ下れば、日は西の山に入りぬ。あやしの軒に立ちて一夜の宿りを乞ふ。その夜は板敷の上に「ぬま」てふものを敷きて臥す。夜の物さへなければいとやすくねず、宵の間は翁の松を灯してその火影にいと小さきかたみ組む。何ぞと問へば、これなん吉野の里の花筐(はながたみ)といふ。蔵王権現の桜の散るを惜しみて、拾ひて盛りたまふ。そのいはれには、今も吉野の里には、いやしきものの家の業(わざ)となす。あるはわらわのもて遊びとなし、また物種入れて蒔きそむれば、秋よく実る。これもてる者は万(よろず)の災ひをまぬがると語る。あはれにもやさしくもおぼえければ、
つとにせむ よしのの里の 花がたみ

 初瀬寺(長谷寺)は、末弟(四男)の宥澄が修行した場所です。

  伊勢では、次の歌を詠みました。

伊勢の海 波静かなる 春にきて 昔のことを 聞かましものを

    題が「伊勢道中苦雨の作」の漢詩もあります。

 松坂・津・関・鈴鹿峠  を通って

 草津・米原(中山道近江路)では、琵琶湖を見て次の歌を詠みました。

仁保の海 照る月影の 隈なくば 八つの名所 一目にも見む

 京都  には二回通っています。

 高代寺(標高489mの山頂にある)では次の歌を詠んでいます。

  高野のみ寺に宿りて
津の国の 高野の奥の 古寺に 杉のしずくを 聞きあかしつつ

 津の国の高野については、紀の国の高野山ではとの説もありましたが、岡本勝美氏は『良寛争香』の中で、摂津の国の高代寺とされました。高代寺にはこの歌の歌碑があります。
 この歌の「杉」=「過ぎ」で、来し方行く末を一晩中考えていたのでしょうか。この頃には帰国の考えが固まっていたのかもしれません。

 能勢妙見に参詣したようです。

 有馬では、次の歌を詠んでいます。

  有馬の何てふ村に宿りて
笹の葉に ふるや霰の ふる里の 宿にも今宵 月を見るらむ

 須磨では、須磨紀行を書いています。良寛の須磨紀行を刻んだ碑が須磨寺正覚院前にあります。

「須磨寺の 昔を問へば 山桜」
あなたこなたとするうちに、日暮ければ、宿を求むれども、独者にたやすく貸すべきにしもあらねば、「よしや寝む 須磨の浦わの 波枕」とすさみて、綱敷天神の森を尋ねて宿る。里を去ること一丁ばかり、松の林の中にあり。「春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見へね」おりおりは、夜の嵐にさそわれて、墨の衣にうつるまで匂ふ。石灯籠の火はほのよりきらめき、うち寄する波の声も常よりは静かに聞こゆ。板敷の上に衣かたしきて、しばしまどろむかとすれば、雲の上人とおぼしきが、薄衣に濃き指貫して、紅梅の一枝を持ちて、いづこともなく来たりたまふ。今宵は夜もよし。静かに物語りせんとてうち寄りたまふ。夜のことなれば、気配も更に見へねども、久しく契りし人の如くに思ひ、昔今、心のくまぐまを語り明かすかとすれば、夢はさめぬ。有明の月に浦風の蕭蕭たるをきくのみ。手を折てうち数ふれば、睦月二十四の夜にてなんありける。

 この中の雲の上人とおぼしき人とは、国仙和尚でしょうか。

 須磨を経て、国仙和尚の一周忌のために、玉島の円通寺まで戻ったものと思われます。
 この旅の途中で詠んだ歌でしょうか。次の歌があります。

  故郷を思ふて
草枕 夜ごとに 変わる宿りにも 結ぶは同じ ふるさとの夢

良寛の帰国
 寛政4年(1792)の春、三十五歳の良寛は国仙和尚の一周忌(寛政年閏2月28日と仮定)に参加し、その後いったん越後に還郷しました。
 玉島 → 京都 → 東海道 →飛騨 → 越中 → 糸魚川 → 郷本 
 還郷の目的は前年に54歳で亡くなった大森子陽の墓参だったのではないでしょうか。そのうえ、寛政元年(1789)に73歳で示寂した大而宗龍の墓参のために、飛騨高山の大隆寺も訪れたかもしれません。糸魚川で病気で寝込んでしまったのは、飛騨から越中まで雪深い山越えを強行したためであった可能性もあります。

 還郷した良寛は出雲崎を通っても、生家橘屋には立ち寄りませんでした。橘屋はすでに父以南が隠居し、弟の由之が出雲崎町の名主となっていました。出家した長男の良寛が生家橘屋に立ち寄れば、家督相続の問題に一石を投じて、波風を生じさせるおそれを家族や使用人に与えることを、良寛は避けたのではないでしょうか。父以南は後に、自分が自殺する前に、「朝霧に一段低し合歓の花」という俳句を書いた書を良寛に与えています。この俳句には、出家して家を出た以上、たとえ長男であっても、当主となった次男由之の顔を立ててほしいという父以南の願いが込められていたのであるかもしれません。
 出雲崎の実家橘屋に立ち寄らなかったとしても、次の目的地は、寺泊の当新田の万福寺の裏山にある大森子陽の墓であり、出雲崎で泊まったのではないでしょうか。おそらく、円明院にいた弟の宥澄を頼って泊まったものと思います。そこで、大森子陽の墓参の後は、地蔵堂の中村家に泊めてもらうにしても、その前にもう一泊した方がよいので、宥澄から、上桐の小黒家を紹介してもらったのではないかと思います。そのうえ、当面、仮住まいする場所としては、寺泊の郷本に、手頃な塩炊き小屋があるという話も聞いたのではないでしょうか。

 翌日、寺泊の郷本に行き、塩炊き小屋を実際に見た上で、郷本川沿いに上桐まで向かい、小黒家に泊めてもらったのでしょう。小黒家で詠んだ歌があります。

  黒坂山のふもとにに宿りて
あしひきの 黒坂山の 木の間より 洩(も)りくる月の 影のさやけさ

 この歌を詠んだ背景には、越後に帰国し、ゆくゆくは定住して、良寛独自の僧としての生き方、すなわち托鉢僧として生きるという覚悟が定まり、晴れ晴れとした心境にあったことが考えられます。

 翌朝、小黒家を出て、寺泊駅に近い当新田の万福寺の裏山にある大森子陽の墓を訪ねたのでしょう。「弔子陽先生墓」と題した長い漢詩があり、最後の句が「徘徊して去るに忍びず 涕涙 一に裳(もすそ)を沾(うるお)す」となっています。良寛に大きな影響を与えた恩師大森子陽の墓の前で、号泣した良寛の姿が想像されます。

 寺泊の後、越後に帰国したあいさつをするために、越後一の宮の彌彦(やひこ)神社に参拝したのではないかと思います。その時の歌かどうかはわかりませんが、良寛に彌彦神社の神木の椎の木を称える長歌があります。

弥彦(いやひこ)の 神のみ前の
椎の木は 幾代経ぬらむ 
神代より かくしあるらし
上(ほ)つ枝(え)は 照る日を隠し 
中つ枝(え)は 雲をさへぎり 
下枝(しずえ)は いらかにかかり 
ひさかたの 霜は置けども 
とこしへに 風は吹けども 
神のみ代より かくしこそ ありにけらしも 
弥彦(いやひこ)の 神のみ前に  立てる椎の木

 橘屋が滅亡した後、橘屋の一族の鎮魂のために、良寛が作った自選歌集『布留散東(ふるさと)』の中には、良寛が愛する人への想いを歌ったと思われる歌が多くあります。特に注目すべきは、ほぼ同趣の歌が2つ入っているものがあることです。
 6番目の次の和歌と、

  岩室を過ぎて
岩室の 田中の松を けふ見れば 時雨(しぐれ)の雨に 濡(ぬ)れつつ立てり

 57番目の次の旋頭歌です。

岩室の 野中に立てる 一つ松の木
けふ見れば 時雨の雨に 濡れつつ立てり

 短歌と旋頭歌という違いはあるものの、ほぼ同じ内容です。同趣の歌が二つ入っているものはこれだけです。ということは、この歌は良寛にとって非常に重要な意味をもつものであることを物語っているのではないでしょうか。
 おそらく、松の木は擬人化したもので、ある人物を念頭に置いているに違いありません。そして時雨に濡れて立つ姿とは、茫然と悲しみの涙を流して立ちすくんでいる姿ではないでしょうか。そのある人とは誰か。私は名主見習役時代に結婚し、半年後に良寛が実家を出奔する際に、やむなく離別せざるを得なかった妻ではなかったかと思います。
 仲睦まじく暮らしていた愛する新妻と、父以南が妻の実家への借金を返済しないことや、自分が出奔することから、離別せざるを得なくなったのです。ある秋の日の朝、別れの悲しみの涙を流して立っていた妻の姿が、良寛の脳裏に焼き付いて生涯忘れることはできなかったのでしょう。
 『布留散東(ふるさと)』の6番目の歌は、5番目までの帰国途中の歌と、7番目以降の国上山での生活の歌の間にあることから、帰国まもなくの頃の歌でしょう。そして岩室とは、妻の実家関根小左衛門家がある白根の茨曽根(いばらそね)に比較的近い場所なのです。
 帰国して、彌彦神社を参拝した後、良寛は実家に戻り一人寂しく暮らしている離別した妻が住む茨曾根を目指したのではないでしょうか。離別した妻と逢うことはかなわなくても、住んでいる家の周りを歩いてみたいとでも、思ったのかもしれません。
 茨曾根を目指して、岩室を歩いていると、田の中の一つ松の木が濡れて立っている姿が目に入ったのでしょう。そのとたん、離別した妻が別れの朝、「いつまでもお待ちしております」と言って涙を流して立っていた姿がフラッシュバックして強烈に甦ったのではないでしょうか。自分のせいで妻と離別することになり、心ならずも離別させられた妻への懺悔(さんげ)の思いを生涯抱き続けた良寛は、朝に濡れて立っているものを見ると、秋の別れの日の朝に、涙に濡れて立っていたかつての妻の姿を、必ず思い出してしまうのではないでしょうか。
 この岩室の田中の松の歌は、『布留散東(ふるさと)』に収められていることを考えると、複層的に解釈できる味わい深い歌であると思います。
 第一層の解釈としては、松を単に人に見立てたもので、良寛は松にも慈愛の心を注いだという解釈です。
 第二層の解釈とは、お杉とお松の伊勢参りの伝説を踏まえた解釈です。芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の川」の句が佐渡に流された多くの貴人たちがいたことを踏まえた句であるのと同様に、松の精が伊勢参りを願ったという伝説があったことを踏まえた解釈です。
 ちなみにお杉とお松の伊勢参りの伝説とは、次の内容です。谷川敏朗氏の「良寛の詩歌…その地名と背景 石瀬(いしぜ)」(新潟良寛研究会会報『轉萬理』第45号 平成10年)を引用させていただきます。
 「ある年、伊勢の国宇治の町の宿屋に、二人の娘が泊まった。十九か二十歳で、天性の美しい容姿は人の目をひきつけた。宿の者が名前と生国とを尋ねると、「わたしたちは名前をお松、お杉と言い、越後の国石瀬から伊勢参宮にまいりました」と答えた。
 翌朝宿料を払おうとしたところ、お松が顔を赤らめ、「まことに申しわけありませんが、二百文足りません。遠からず御主人は越後へ来られますから、その時に必ずお返ししますので、それまで待っていてください」と言う。宿の主人は、「どうして越後へ行く用があろうか」と思ったが、そのいじらしい姿に宿料を二百文ひいてやった。
 翌年思いがけない用ができ、宿の主人は越後へくだった。金を返してもらうつもりは少しもなかったが、石瀬を通った時に土地の人々に、二人のことを尋ねたが、誰も知らない様子であった。村を離れると、一本の老松があった。何げなくその木の下に腰をおろしたところ、枝にひもを通した銭が掛けてあった。数えてみると二百文あった。不思議に思ってあたりを見回したところ、二百メートルほど離れて、一本の老杉が目に入った。「さては」と思って、田を耕す人に話すと、その人は、「そういえば、去年二本とも枯れそうに弱っていたことがありました」と言う。さらにその人は、「どうかその二百文を受け取って、二本の木の精を安心させてやってください」と頼んだ。そこで宿の主人は、「まことに不思議なことだ」と思って、ありがたく銭をもらって国へ帰ったという。」
 谷川氏はさらに次のように述べています。
 「その大杉は今もなお道のかたわらにそびえているが、松は切られてなくなり、その下にあった「岩室の 田中の松は 待ちぬらし わを待ちぬらし 田中の松は」の良寛の歌を刻んだ石碑も、三代目や四代目の松とともに移転し、今は種月寺にある。」
 また良寛には、岩室の松を詠んだ長歌がありますが、その最初の「岩室」を「石瀬なる」とする良寛歌集もある。その終わりは「笠貸さましを、蓑着せましを、ひとつ松あはれ」となっている。
 良寛は、お松、お杉の伝説をふまえて、石瀬や岩室の一本松をいとおしみながら歌に詠んだのかもしれない。愛情あふれる歌である。」
 ちなみに、この石瀬の敵見の松の歌碑は、もともと石瀬の田んぼの中にありましたが、矢川放水路の工事の関係で長らく種月寺に移転していました。しかし最近、また元の場所に移転されました。場所は岩室リハビリテーション病院とその西側にある「だいろの湯」の間の県道の弥彦山側(海側)に「石瀬の一本杉」がありますが、その県道の反対側つまり平野側に「お杉バラ園」があり、その西側の田んぼの中の農道の脇です。
 第三層の解釈としては、良寛の自選歌集『布留散東(ふるさと)』の中に入っていることを考えた場合の解釈です。この歌集の目的が没落した橘屋への鎮魂、残された弟や妹たちを慰めることであったとするならば、時雨(しぐれ)の雨に濡れつつ立っている松の姿は、敗訴による橘屋の没落や、由之の妻安(やす)や妹たかの死を悲しみ、茫然と立ちつくす由之の姿であり、突然の悲劇に言葉もなく涙を浮かべた妹たちの姿ということになるでしょう。特に由之の妻安と、由之の右腕であった町年寄高島伊八郎に嫁いだ妹たかは、橘屋の消滅に至る騒動に巻き込まれ、その心痛のあまり、あたかも橘屋に殉じたかのごとく、橘屋が滅亡する前後に没しているのです。このように重要な意味を持つことから、岩室の田中の松の歌だけが、『布留散東(ふるさと)』の中に二首も入っているのではないでしょうか。
 第四層の解釈としては、時雨の雨に濡れつつ立っている田中の松は、良寛の離別した妻の姿という解釈です。
 さらに、第五層の解釈としては、時雨の雨に濡れつつ立っている田中の松は、幾多の悲しみや多くの人々の苦しみに涙を流している良寛自身の姿であり、それでもなお、時雨の中で毅然として屹立(きつりつ)している松の木を見て、自分もしっかりと自らの使命(生涯美しい心で生きるとともに、衆生済度の菩薩行を続けること)を果たしていかなければならないと、あらためて心に誓ったのではないかという解釈です。

越後での不定住時代
 寛政4年(1792)良寛35歳の年の春、還郷して寺泊の当新田にある大森子陽の墓を目指す途中、良寛は寺泊の郷本(ごうもと)という海岸で塩炊き小屋の空き家があることを見かけており、大森子陽の墓参の後に、そこで仮住まいを始めたものと思われます。
 郷本の空庵での生活は、橘崑崙(こんろん)の『北越奇談』にくわしく記述されています。近隣を托鉢し、いただいた食料がその日食べる分より多いときは、貧しい人や鳥獣に分け与えていたといいます。そして、冬までの半年ほど郷本の空庵で過ごしたようです。ある日、橘屋の家人(おそらく弟の由之)が来て、良寛を伴って帰ろうとしましたが、良寛は従いませんでした。ですが、寛政5年3月20日付けで以南が由之に出した書簡の内容から考えて、以南は良寛と再会したのではないかと思われます。
 なお、半年近くが過ぎ、日に日に寒くなる中、次の歌を詠んだのはこの頃ではなかったかと思います。

越(こし)に来て まだ越し馴(な)れぬ 我なれや うたて寒さの 肌に切(せち)なる

 この歌は、十数年ぶりに戻ったふるさと越後の寒さにまだ馴れないというだけでなく、托鉢で村々を回っても、人々との暖かい心の交流が感じられず、まだ寒々とした思いでいるということを、詠ったものであるかもしれません。
 私は良寛が郷本空庵を半年で出た理由は、強風が襲う海岸の塩炊小屋では冬が越せないこともさることながら、直接のきっかけは、小越家に寄寓したことではないかと思います。
 あるとき、一軒の塩炊き小屋が火事になりました。良寛は塩炊き小屋を焼いた犯人と間違われて、村人から穴に埋められそうになりましたが、通りかかった夏戸の医者小越仲珉(おごしちゅうみん)に助けられ、二年程、小越家に寄寓したという出所もはっきりしている逸話が、宮栄二『文人書譜6良寛』に紹介されています。
 ですが、良寛は山中草庵独居、只管打坐(しかんたざ)、托鉢行脚という良寛独自の僧としての生き方を確立したが故に、還郷したのですから、小越家に2年も寄寓していたとは到底考えられません。おそらく一月ほどは世話になり、子供に読み書きを教えたかもしれませんが、すぐに別の場所に移り、冬を越したのではないでしょうか。
 私は、良寛は翌年の寛政5年(1793)良寛36歳の春には、国仙の三回忌のために、備中に向けて旅立つので、それまでの間、冬の雪寒をしのげる場所を探し、三峰館時代の学友であった解良叔問(けらしゅくもん)、原田鵲斎(じゃくさい)らに相談したのではないかと思います。
 そして、乙子神社の草庵(社務所)を解良叔問が、国上村の庄屋涌井家に話をつけて、春までの約束で手配してくれたのではないかと推測しています。ただし、このことを示すような資料は何もありません。あくまでも私の推測にすぎません。
 おそらく、五合庵は国上寺の普賢院のあった場所に、国上寺中興の祖である万元(ばんげん)上人の隠居所として建てられた由緒ある建物であり、歴代住職の隠居後の住居でもあるので、たとえ良寛が気に入ったとしても、おいそれとは住めるところではなかったのではないでしょうか。
 36歳の良寛は寛政5年(1793)の春には、乙子神社草庵を出て、国仙和尚の三回忌に出席するため、備中円通寺に向かい、その後約二年間にわたり四国を皮切りに諸国を行脚していたのではないでしょうか。(第二次諸国行脚)
 おそらく、良寛は円通寺を離れた34歳から、五合庵に完全に定住するまでの間に、全国各地を行脚しているはずです(第二次諸国行脚)。帰国の旅や、父以南や国仙和尚の一周忌、三回忌、七回忌といった法要のための上京の旅の際に、ついでにそこから足を伸ばして出かけた旅が多かったに違いありません。
 良寛には、現在知られているだけでも、須磨紀行、京都紀行、高野紀行、吉野紀行などの旅日記がありますが、実は吉田町(現燕市)の溝の庄屋笹川家には、その他に膨大な量の旅日記があったといいます。あるとき、笹川家の当主の幼い子供が習字の練習に使って、墨で真っ黒にしてしまい、廃棄処分にされてしまったといいます。
 良寛の和歌から、木曽、更科(さらしな)、隅田川などをも訪れた可能性がうかがえます。次の歌があります。

  木曽路にて
この暮れの もの悲しきに 若草の 妻呼び立てて 小牡鹿(さおしか)鳴くも

つれづれに 月をも知らで 更科や 姨捨(うばすて)山も よそに眺めて

富士も見え 筑波も見えて 隅田川 瀬々の言の葉 尋ねてもみむ

都鳥 すみ田川原に なれすみて をちこち人に 名や問はるらむ

 全国各地の行脚の目的は、敬慕する西行や芭蕉の足跡をたどる歌枕の旅という面もあったでしょうが、国仙の弟子(良寛にとっての兄弟子)に参見する修行の旅や、托鉢行脚という仏道修行でもあったはずです。
 また、自分独自の僧としての生きる方向は定めたものの、実際、寺に住まず、住職にもならないで、托鉢だけで生きていけるかどうかという現実的な問題にも直面しており、この点を深く思索する時間でもあったかと思います。
 そして何よりも、禅僧として、道元の教えや唐代の祖師の生き方を、完全に自分のものとするため、聖胎長養(しょうたいちょうよう…悟後の修行)の最後の諸国行脚の旅であったのではないでしょうか。

 寛政5年(1793)良寛36歳年の春になってから、乙子神社草庵を出て、3月に国仙和尚の三回忌に参列し、その後に四国へ行き、国仙和尚の菩提を弔うために八十八箇所の霊場を巡拝したのではないでしょうか。
 そして、高知城下で荘子を読むなど、自分の生きる道を模索しながら、修行を続けていたときに、近藤万丈と出会ったのではないでしょうか。その歳の冬は、温暖な四国で冬を越した可能性もあるでしょう。あるいは、四国へ行く前に中国や九州へも行ったかもしれません。
 帰国後に四国を目指した理由について、塩浦林也氏の『良寛の探究』の中に、概ね次の内容の記述があります。「国仙和尚の遺風を求めての四国にいる兄弟子への参見とともに、帰国後に乞食行を始めたが、乞食行によって僧である自分と、一般の人々との間に生まれるべき仏教上の心の通じ合いが生じないことに悩んだ良寛は、四国巡礼には巡礼者の宗教的思いと、「お接待」によってそれを支える庶民の宗教的思いの融合があり、その「お接待」の場所には一つの安心境が成立していることを聞いていたことから、四国巡礼をしてみて「お接待」の場所での経験、そこでの見聞を生かそうと考え四国に行った」
 寛政6年(1794)良寛37歳の年の春になってから、良寛は四国を立ち、関東へ向かったのではないでしょうか。関東では国仙和尚に学んだ兄弟子に会い、参見を行ったのでしょう。その後は、米沢のほかに、西行のみちのくの旅や、芭蕉の奥の細道の旅をたどる歌枕の旅も目指したものの、関東に長くいたせいか、白川の関から、会津柳津の圓蔵寺虚空蔵尊まで足を伸ばしたときは、すでに秋になっていたのではないでしょうか。秋の柳津圓蔵寺での漢詩があります。
 それでもなんとか上杉鷹山公の治世をこの目で確かめようと、米沢に向かったのでしょう。だが、米沢にはたどり着いたものの、秋が一層深まり、米沢から北の出羽三山や鶴ヶ岡などへ向かうことは諦めて、いったん春までに越後へ帰国する途を選んだのではないでしょうか。その米沢へ行くまでのの道中、あるいは米沢から越後に向かう米沢道中でしょうか、「米沢道中」と題する漢詩や、米坂線沿いの小国の玉川の宿でしょうか、「宿玉川駅」と題する漢詩があります。
 良寛が米沢を目指した理由は何だったのでしょうか。天明の飢饉の時にも餓死者が極めて少なかった米沢藩の名君上杉鷹山公の治世を、是非一度この目で確かめてみようと、良寛ははるばる米沢を目指したのではないでしょうか。上杉鷹山公はケネディ大統領が最も尊敬する日本人として挙げた人物です。鷹山公が次の藩主に家督を譲る際に示した藩主の心構えが「伝国の辞」です。鷹山公は、大森子陽の師でもあった細井平洲を師として、その教えを守り、善政を行ったのです。
  「伝国の辞」とは、次の三箇条です。
 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
 一、国家人民のために立たる君にて君のために立たる国家人民にはこれなく候
 鷹山公には次の歌もあります。
受けつぎて 国の司の 身となれば 忘るまじきは 民の父母
 こうしてほぼ二年間の旅を終えて、翌年寛政7年(1795)良寛38歳の年の初春に、乙子神社草庵に、いったん戻ったのではないでしょうか。東北行脚は、この約二年間の旅の中で行われたものではなかったかと私は推測しています。

五合庵入庵
 寛政7年(1795)初春、越後に戻った 38歳の良寛は乙子神社草庵に、いったん戻りましたが、かなり荒れてしまっていたのではないでしょうか。次の歌はその時の歌ではないかと考えています。

  国上にて詠める
来てみれば わがふるさとは 荒れにけり庭も籬(まがき)も 落ち葉のみして

 そこで、前年に真言宗円明院の住職(十世)になった弟の宥澄(ゆうちょう)(26歳)を訪ねて、いろいろと話をしたにちがいないと思います。
 その話の中で良寛は、同じ真言宗の国上寺に五合庵という理想的な草庵があり、国上寺の住職が隠居したら自分はよそに出るが、それまでの間は五合庵に住みたいという話をしたのではないでしょうか。
 その話を受けて、宥澄は国上寺に掛け合い、解良叔問や原田鵲斎の後押しもあって、良寛(38歳)は寛政7年(1795)から五合庵に入庵して、住むようになったのではないでしょうか。
 この年の夏に、父以南は桂川で入水自殺しました。良寛は京都で行われた四十九日の法要には出席していませんが、出雲崎の円明院で、弟の快慶とともに、四十九日の法要を営んでおり、この年は越後にずっと住んでいたと思われます。
 また、鶴岡の明伝寺にある大森子陽の鬚髪碑は、子陽五回忌であるこの年に建立されているので、そのことを知った良寛は、鶴岡に行き、大森子陽の鬚髪碑を訪ねた可能性があります。高橋庄次氏は『良寛伝記考説』の中で、題が「客中聞杜鵑」首句「春帰未得帰」の漢詩は鶴岡で詠まれたものであり、故郷に生きて帰れなかった大森子陽に代わって、良寛が詠じた詩ではなかったろうかと述べています。
 国上寺の五合庵に住むようになり、良寛は国上寺に入庵の挨拶として、次の長歌反歌を詠んでいます。その時期は、この年か、又は再び五合庵に戻って、本格的に定住を始めた寛政9年(1797)良寛40歳の年でしょう。

国上の   大殿の前の   一つ松     幾世経ぬらむ  
ちはやぶる 神さび立てり  朝(あした)には い行きもとほり
ゆふべには そこにいで立ち 立ちて居て   見れども飽かぬ 一つ松はや 
山かげの  荒磯(ありそ)の波の 立ち返り 見れども飽かぬ 一つ松の木 
(もとほり…まわって)
(立ち返り…繰り返し寄せるように何回も) 

 連作「ふるさと5首」があります。この歌は五合庵入庵当初又は、再び五合庵に戻って、本格的に定住を始めた寛政9年(1797)良寛40歳の年に、詠んだものではないでしょうか。

  国上にて詠める
来てみれば わがふるさとは 荒れにけり 庭も籬(まがき)も 落ち葉のみして

いにしへを 思へば夢か うつつかも 夜は時雨(しぐれ)の 雨を聞きつつ

山かげの 岩間を伝ふ 苔水(こけみず)の かすかに我は すみ渡るかも

山里の あはれを誰に 語らまし 稀にも人の 来ても訪はねば

もみぢ葉の 降りに降りしく 宿なれば 訪ひ来む人も 道紛(まが)ふらし

 「来てみれば」と「いにしへを」の歌は、自選歌集『布留散東(ふるさと)』にあり、その次の歌がこの歌です。

あしびきの 山べに住めば すべをなみ 樒(しきみ)摘みつつ この日くらしつ
(すべをなみ…どうしようもないので)                      

 同じ頃の作と思われますが、阿部家の良寛遺墨に見える連作歌「山陰5首」があります。

山かげの 岩根もり来る 苔水の あるかなきかに 世をわたるかも

世の中に おなじ心の 人もがな 草のいほりに 一夜語らむ

この岡に つま木こりてむ ひさかたの しぐれの雨の 降らぬ間切れに
(つま木…小枝)           

秋もやや 残り少なに なりぬれば ほとほと恋ひし 小男鹿(さおしか)の声

おく山の 草木のむたに 朽ちぬとも 捨てしこの身を またや腐(くた)さむ
(むたに…ともに)
      
父の死
 政7年(1795)良寛38歳の年の7月、以南は京都桂川に入水して自殺しました。享年59歳。原因はよくわかっていませんが、京都では脚気(かっけ)にかかっており、生きがいであった旅ができなくなったことなどが影響したのかもしれません。
 弟香(29歳)は、父の自殺を止められなかったことから、悲嘆のあまり、自身も桂川に投身しましたが未遂でした。香は当時の状況を日記『美遠都久志(みおつくし)』を記述していました。
9月、38歳の良寛は以南の四十九日の法要を円明院にて、弟の快慶とともに営みました。
  父以南の辞世(遺書)があります。

蘇迷盧(そめいろ)の 山をかたみ(形見)に たてぬれば わがなきあとは いつらむかしぞ

 蘇迷盧(そめいろ)の山とは立派に成長した良寛のことであり、「立派になった良寛を自分の形見に残したので、その良寛がいずれ世間に出て認められるだろう」との意と思われます。
 由之が驚いて馬で京都に駆けつけた時に、由之と香が詠み交わした歌があります。

捨てし身の 再びかへる 浮かむ瀬は 今日や千年(ちとせ)の 初めなるらん (由之)

沈みては またもこの世に 浮かぶ瀬の 逢瀬嬉しみ 千世ふべき君に (香)

  入水する前に以南が良寛に与えた句があります。

朝霧に 一段ひくし 合歓(ねむ)の花   

  この句に次の良寛の添え書きがあります

水茎(みずくき)の あとも涙に かすみけり ありし昔の ことをおもひて

  良寛が持っていた以南の句があります。

夜のしも 身のなるはてや つたよりも

 「つたよりも」とは、高橋庄次氏の『良寛伝記考説』によれば、ずたずたになって海岸に打ち寄せられた海藻であるといいます。
  四十九日の時の良寛の句があります。当時、雁は死者の魂を運ぶと考えられていました。

蘇迷盧(そめいろ)の 音信(おとづれ)告げよ 夜の雁

われ喚びて 故郷へ行くや 夜の雁

 寛政8年(1796)良寛39歳の年の4月には、良寛が円通寺にいたことを示す資料があります。円通寺の『戎会決算帳』に「大愚維那」として、仙桂和尚とともに記録されているといいます。国仙和尚の墓参と、翌年が国仙七回忌なのでその準備などのため、おそらく以南の一周忌の前に円通寺を訪ねたのでしょう。
 この年、良寛は国仙和尚の墓参と父以南の一周忌を兼ねて、五合庵を一時留守にして、関西方面に旅に出たものと思われます。
 良寛は京都での父以南の一周忌の際に、そこで会った弟(三男)の香から、以南の入水当時の様子をいろいろと聞き、別れる際に次の歌を詠みました。

  世の中心憂くや思ひけむ 庵求めにとて  嵯峨へ往ぬる人に詠みて贈る
ことさらに 深くな入りそ 嵯峨の山 尋ねて往なむ 道のしれなく

 「庵求めにとて 嵯峨へ往ぬる人」とは、以南の菩提を弔うための庵を桂川の上流の嵯峨へ探しに行こうとしていた香のことであり、「往なむ」は「以南」、「道」は墓穴へ通じる「隧(みち)」をかけています。
 良寛と別れた後、香は寛政8年(1796)中には身辺を整理して、かつて応制の詩を賦した思い出の東福寺に入り、出家しました。