托鉢の地・県央地域

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番号 市町村 名称
1 燕市 長善館史料館
2 燕市 鈴木文台墓碑
3 燕市 願生寺
4 三条市 八幡宮
5 三条市 日吉神社句碑
6 三条市 定明寺三浦屋幸助墓碑
7 三条市 宝塔院
8 三条市 三条市立図書館最古の良寛石碑片
9 三条市 一の木戸神明社良寛詩碑
10 三条市 三条東別院歌碑
11 三条市 海蔵院
12 三条市 今町屋跡
13    三条市 三浦屋跡
14 三条市 団子茶屋跡
15 加茂市 加茂山公園良寬歌碑
16 加茂市 加茂市良寛資料展示室
17 弥彦村 彌彦神社
18 弥彦村 宝光院大愚良寛上人之碑
19 弥彦村 宝光院婆杉脇歌碑
20 弥彦村 法円寺句歌碑

長善館史料館

 長善館史料館は良寛とも親交のあった鈴木文台が創設した私塾長善館の史料を展示。天保四年(1833)より明治四十五年(1912)までの八十年間、四人の先生(文台、惕軒(てきけん)、柿園、彦嶽)が子弟を教育した。門人は千人余で、勤王の志士、学者、文人、政治家、実業家等多くの人材を輩出した。長谷川鉄之進、長谷川泰、大竹貫一、鈴木虎雄(惕軒の五男、文化勲章受章)など。

長善館跡碑
 昭和三十五年建碑、鈴木虎雄博士撰文。燕市の文化財。

 

天上大風碑
 昭和五十八年、吉田町良寛会が建碑。鈴木文台の識語が下にある。
【 碑面通読(識語)】
 良寛上人は道徳の外、詩歌高逸にして、書法絶妙なり。人その半紙隻字(せきじ)を得る者は、珍襲して愛玩す。之に因(よ)って、奸商・黠估(かっこ)は、人の財貨を騙(たばか)り、玉石を混糅(こんじゅう)す。余の上人と交わりの久しきを以て、人の来たって一言を題せんことを乞う者尠(すくな)からず。此は燕駅東樹氏の蔵する所なり。一日、東樹氏来たって、余に告げて曰わく『上人在りし日燕駅に乞食せしとき、小童あり。一紙を持ち来たって曰わく、「願わくばこの紙に書け」と。上人曰わく、「汝将(まさ)に何に用いんとす」と。童曰わく「我れ此を用いて風箏(ふうそう)を作らんと欲す、天上大風の四字を請う」と。上人便ち書して以て焉(こ与れ)にう。僕近ごろ之を得、之を軸にし、之を装して一幀に(いっとう)為さんと欲す。願わくば子その然るところを記せ』と。余展べて之を閲し、その真率・無我の点画の間に現わるるを視、昔年の笑語を想い、慨然として筆を援き、以て識すと爾云(しかい)う。 嘉永六年癸丑(きちゅう)晩春。文台居士。

長楽寺隣の鈴木文台墓碑

 長善館史料館の南隣にある長楽寺に隣接して鈴木文台の墓碑など歴代館主の墓所がある。

願生寺

 浄土真宗願成寺(大正八年願成寺から願生寺に改称)の第九世圓海和尚を訪ねたときに良寛が詠んだ詩の碑がある。

良寛詩碑(法華堂)
 法華堂の西 願成寺
 寺は雲霞水石の間に在り
 幽径 苔深くして人跡絶え
 中庭 池古(ふ)りて魚躍れり
 上に喬松有りて清天に聳(そび)え
 松間 遙かに弥彦の山を見る
 高秋 九月 天気清く
 一鉢泠然として偶(たまたま)門を叩く
 吾は是れ物外(もつげ)無事の僧
 君も亦た昇平の一間人
 終日 相見て他事無し
 酒を把り山に対して笑ひ誾誾(ぎんぎん)たり

八幡宮

 三条市の八幡宮に良寛がよく訪れていた。

良寛詩碑(十字街頭)
 もともと最古の良寛碑としてあったものであるが、文久元年(1861)の大火で破損した。その後大正13年(1924)、昭和天皇のご成婚を記念して、三条市によって再建された。
【 通読 】 
十字街頭食(じき)を乞い了(お)わり
八幡宮辺方(まさ)に徘徊す
児童相見て共に相語る
去年の癡僧(ちそう)今又来たる

良寛詩碑(今日乞食)

 平成十七年に三条八幡宮再建奉賛会によって、八幡宮の再建を記念して建立された。
【 通読 】
今日食を乞うて驟雨(しゅうう)に逢い
暫時回避す古祠の中
笑うべし一瓶と一鉢と 
生涯瀟灑(しょうさい)たり破家の風

村山半牧頌徳碑

 明治31年(1898)に建立された。篆額の筆者は富岡鉄斎、撰文江間聖欽、碑文の筆者は栗本義喬。
 村山半牧は文政11年(1828)に三条で生まれた南画家で勤王の志士であった。
 17歳のころから京都などで修行し、活躍した後、元治元年(1864)37歳の年、三条に帰郷。
 慶応4年(1868)に征討軍協力者への東北同盟軍の探索が厳しさを増す中、同士の処刑の誤報を聞いて、自殺。
 帰郷後たびたび、阿部家当主の定緝(さだつぐ)と親しく交わり、阿部家の良寛遺墨の中の歌を筆写し、『僧良寛歌集』の原稿をまとめた。『僧良寛歌集』は明治12年、小林二郎によって刊行された。

日吉神社 良寛句碑(たくほどは)

 五合庵の良寛落葉の句碑が建てられた大正七年(1918)頃、五合庵の句碑を模刻したものが作られ、その後三条市の小師壮吉の所蔵となった。
 昭和39年(1964)、小師壮吉から寄進を受けた句碑を日吉神社境内に建立し、除幕式が行われた。 
【 通読 】
たくほどは かぜがも
てくるおちばかな

定明寺 三浦屋幸助墓碑

 定明寺(じょうみょうじ)には良寛と親交のあった三浦屋幸助(本名・遠藤幸助)(1771~1824)の墓碑がある。
 家業は菓子商。「都ようかん」は良寛の好物であったという。三浦屋幸助は家業のかたわら、俳諧をよくし、風流を楽しんだ。良寛の遷化から3年半後の天保5年6月に64歳で亡くなった。

宝塔院

 宝塔院は真言宗智山派の古刹。国上寺で修行し、同い年でもある第十五世住職隆全和尚を良寛はたびたび訪ね、時には数ヶ月も滞在した。
 「禅定窟良寛書 三条宝塔院」と書かれた遺墨があり、良寛の修行道場でもあった。隆全は晩年良寛の和歌百二十七首を収めた稿本『良寛法師歌集』をまとめた。

地震亡霊塔

 文政11年(1828)11月12日朝三条地震が発生し、阿鼻叫喚の地獄絵が現出した。
隆全は住職とその弟子覚明とともに、地震で不慮の死を遂げた無縁仏の骨を拾い、翌12年8月、宝塔院境内で地震亡霊塔を建て、被災者を懇ろに葬った。

三条市立図書館

最古の良寛石碑片

 良寛没後4年の天保6年(1835)、良寛を敬慕した三条の町人達が乞食の詩を刻んだ碑を八幡宮境内に建立した。最古の良寛詩碑である。
 文久元年(1861)4月千六百戸を焼失した上町(本町1)塗師屋火事で詩碑は崩潰してしまい、一枚の拓本を残すのみとなった。
 昭和六十年、築山の一隅に土留めとして使用されていた刻字のある石片が見つかり、最古の良寛詩碑の碑片と判明した。

良寛禅師像

 三条市出身の彫塑家桝沢清の良寛禅師像が玄関前にある。
 桝沢清は5年の歳月をかけて昭和2年(1927)に良寛禅師像の原像(高さ19センチ)を完成させた。平成元年(1989)像高105センチの青銅製の尊像に復元し、三条市に寄贈され、市立図書館前に建立された。この像高105センチの青銅製の良寛禅師の尊像は良寛堂、国上寺、海蔵院(三条市)、円通寺公園、出雲崎町役場にもある。

一の木戸神明社 良寛詩碑(放毬)

 一の木戸神明宮には良寛放毬の詩碑がある。昭和四十一年三条良寛思慕会が建碑。
【 通読 】 
裙子(くんす)は短く褊衫(へんさん)は長し
騰騰兀兀(とうとうごつごつ)只麼(しも)に過ぐ
陌上(はくじょう)の児童忽(たちま)ち我を見
手を拍(う)って斉しく唱う抛毬歌(ほうきゅうか)

三条東別院 良寛歌碑(ふかしぎの)

 三条の本願寺東別院には良寛歌碑がある。平成五年建碑。
【 通読 】
不可思議の 弥陀の誓いの なかりせば 
何をこの世の 思い出にせむ

海蔵院

 桝沢清の実家の菩提寺、良寛像がある。

今町屋跡

 煮売り商を業とした今町屋のおばあさんは良寛と親しく、いつも親切に洗濯などの面倒をみてやりました。「この浴衣洗っておくれ褌(ふんどし)も」という置き手紙を添えて、良寛が洗濯物の風呂敷包みを預けたという逸話がある。

三浦屋跡
 菓子商を営むかたわら俳諧をよくし、風流を楽しんだ三浦屋幸助は良寛と親交があった。三浦屋の「都羊かん」は良寛の好物だった。幸助が国上の乙子神社草庵を訪ねた折に良寛が詠んだ歌がある。
 たどたどと 山路の雪を 踏み分けて 草の庵を 訪ひし君はも

団子茶屋跡

 団子(だんご)茶屋の利右衛門とその妻は良寛を心から崇敬していた。良寛が団子茶屋の前に来ると、妻が「良寛さま、衣が汚れていますよ。洗いましょう。」と親切に世話したという逸話がある。

加茂山公園

良寛歌碑(加茂の社の)

 青海神社のある加茂山公園に良寛歌碑がある。平成4年加茂市建立。
 加茂の社の 杉さへ見れば
 過ぎし昔が思はるゝ
 托鉢に加茂を訪れた良寛が文政10年(1827)に加茂で亡くなった親友原田鵲斎を偲んだ歌といわれる。

良寛資料展示室

 加茂市役所隣接の文化会館の一階に良寛資料展示室があり、昭和55年に寄贈された良寛の遺墨23点(加茂市文化財)が展示されている。
(無料、火曜日休館)

彌彦神社

 

良寛歌木額碑

絵馬殿にある。
【碑面】             【通読】
以也悲許尓末宇天ゝ       伊夜比古(いやひこ)にまうでてて
裳ゝ川堂不以也非己也末遠以    百(もも)伝ふ 伊夜比古山を い  
弥乃保理能保里天見礼者 や登り  登りて見れば      
當可祢耳者 也久毛堂奈非    高嶺(たかね)には 八雲(やくも)たなび
幾 布毛東耳者 己堂知可    き 麓(ふもと)には 木立(こだち)神
美散非 於知堂幾川 美遠東左  さび 落ちたぎつ み音さ
也計之 許之知尓者 也萬遠安  やけし 越路(こしぢ)には 山はあ
礼騰毛 己之知尓者 美川者阿  れども 越路には 水はあ
礼止毛 己ゝ遠志毛 宇弊之美也 れども ここをしも うべし宮
爲堂 左當女計良之毛  良寛書 居と 定めけらしも  良寛書

弥彦神社ご神木の椎の木

 良寛はご神木の椎の木も長歌でたたえている。
弥彦(いやひこ)の  神のみ前の
椎の木は       幾代経ぬらむ 
神代より       かくしあるらし
上(ほ)つ枝(え)は 照る日を隠し 
中つ枝(え)は    雲をさへぎり 
下枝(しずえ)は   いらかにかかり 
ひさかたの      霜は置けども 
とこしへに      風は吹けども 
神のみ代より     かくしこそ  
ありにけらしも    弥彦(いやひこ)の                               神のみ前に       立てる椎の木

宝光院

  

大愚良寛上人之碑
 宝光院の境内には大内青巒(せいらん)撰文の「太愚良寛上人(しょうにん)之碑」が建っている。明治二十八年建碑。
【碑面】
大愚良寛上人之碑
大愚良寛上人碑銘 従一位勲一等 久我建通 篆額
近古以来緇風頽廃僧悉紫緋?亦不過空文?儀若夫頭陀抖?行解相應者殆無聞之當是時有稀世正師其諱曰良寛號大愚小字栄蔵山本氏越後出雲崎土豪左門諱泰雄長子也左門又称伊織薙髪號以南頗有学殖嘗到京師慨皇室式微著天真録終悲憤入水死 (中略) 明治二十八年十一月
東京 青巒居士大内退撰並書 高島維巖刻
【通読】
 近古以来緇風(しふう)頽廃し、僧は悉(ことごと)く紫緋(しひ)となり、法もまた空文虚儀に過ぎず。若(も)し夫(そ)れ頭陀(ずだ)抖擻(とそう)、行解(ぎょうげ)相応ずる者は殆ど之を聞くこと無し。是(こ)の時に當(あ)たり稀世の正師有り。其(そ)の諱(いみな)を良寛と曰(い)ひ、號(ごう)は大愚、小字は栄蔵、山本氏、越後出雲崎の土豪左門、諱は泰雄の長子也(なり)。左門又伊織と称す薙髪(ちはつ)して以南と號す。頗(すこぶ)る学殖を有す。嘗(かつ)て京師に到り、皇室の式微を慨(なげ)き、天真録を著(あら)わし、終(つい)に悲憤して入水して死す。
 師幼にして頴異(えいい)、長じて寡欲なり。年甫(はじ)めて十八、家を弟由之に附し、自ら尼瀬光照寺の玄乗和尚に投じて得度す。幾ばくもなくして遊び、方(まさ)に備中玉島円通寺の国仙禅師の室に入る。針芬相投じ参究年あり、其の印証を得たり。これより瓶錫(びょうしゃく)飄然として草を撥(はら)
ひ風を瞻(み)、多く年所を経たり。既にして郷に還り、杖を国上山に卓(た)つ。詩あり曰わく「索索たる五合庵、 室は懸磬(けんけい)の如く然り、戸外杉千株、壁上偈(げ)数編、釜中時に塵有り。甑裏 (そうり)更に烟無し。唯有り東村の叟、時に敲(たた)く月下の門」。のちに移りて山下の乙子祠畔に
処(お)る。夏冬は安居(あんご)し、春秋は分衛す。衣を荷うて
松食し、纔(わず)かに以て身を支ふ。坐禅経行(きんひん)専ら永平の家訓に遵ふ。人、衣服金銭等を施せば、辞せずして之を受け、旋(めぐ)りて之を貧人に与ふ。一日某里に托鉢するに、会(たまた)ま物を失う者あり、師を認めて盗となし、之を縛して土中に埋めんと欲す。師黙然としてその為す所に任す。人あり、之を救ひて曰く「何ぞその冤(えん)を弁ぜざる」と。曰く「宿業の感ずる所は、弁ずといへども免かるべからず」と。その道を信ずるの篤きこと概(おおむ)ねこの類なり。
 師は詩歌筆翰を善くす。亀田鵬斎曾て人に語りて曰く「吾、北遊して寛師に逢ひて草書の妙を悟り、我が書これより一格を長ず」と。ある人曰く「師は詩に於いては三隠の韻致あり、その書に張懐の逸体あり、その詩歌に万葉の遺響あり。かの道徳深遠のごときは則ち我が徒の敢えて窺(うかが)ふ所にあらざるなり」と。
 晩年島崎村の木村某、その別業を修めて師を迎へて供養す。天保二年辛卯正月六日淹(えん)然として示寂す。世寿七十四。邑の隆泉寺に葬る。師、常に児童を愛し、到る処相群し、手?を打ち草を闘わし、欣欣として以て楽しむ。人その書を求むれども得ず。児童をして之を乞はしむれば則ち書す。
 嘗て笋(たけのこ)あり牀下に生ず。師、床を撤し、屋を毀(こぼ)ちて之を養ひて竹を成す。ここに於いてか、世人往往目して以て奇人となす。然りと雖も古来の高僧、此等の行事比比としてこれ有り。何ぞ独り師に異らんや。而るに吾が以て希世の正師と為すものは、方(まさ)にこのためのみ。頃者(このごろ)、道を慕うの人胥謀(あいはか)り、其の徳を勒(ろく)して以て後昆(こうこん)に告げんと欲し、文を吾に嘱す。
 吾もまた師を欽すること久し。乃ち欣然として之を為(つく)る。銘に曰わく、皮膚脱し尽くし、道骨独り全し、雲心水迹、正偏に堕せず、回互宛転、高く獅絃を弄す。千載諦聴く、頼(さいわい)に遺編あり。
明治二十八年十一月 東京 青巒居士大内退撰並書 高島維巖刻 篆額は従一位勲一等 久我建通
頭陀抖?…厳粛な修行生活で煩悩や悪をふるいはらうこと
行解…修行と知解

宝光院 婆杉脇 良寛歌碑(水鳥の)
 

 「婆杉」の右手に良寛歌碑がある。大正14年新潟市の藤田四郎建碑。
【 碑面 】 【 通読 】
美津東里能 可裳乃   水鳥の 鴨の
波能易呂能 安遠也   羽の色の 青や
萬能 己奴憐散羅    まの 木ぬれ去ら
春天 奈久報東々    ずて 鳴くほとと
幾須          ぎす
   ※「水鳥の鴨の羽の色の」までが序詞。
【 碑陰碑面 】
相見石心猶有情 無端欲説一家
平 青山何意杜鵑叫 
将去徘徊
不忍行 思龍拝草
【 碑陰通読 】
相見て石心 猶ほ情有るがごとし 端(はし)なくも説かんと欲す 一家の
平 青山何の意ありてか 杜鵑(とけん)叫ぶ 将(まさ)に去らんとして 徘徊
行(さ)るに忍びず 思龍拝草

法円寺

 弥彦から吉田方面に国道を進み、矢作(やはぎ)駅前を過ぎると道路を跨ぐ大鳥居がある。良寛は托鉢で矢作にもきたことであろう。大鳥居のすぐ先の左側に浄土真宗法円寺がある。

 

良寛句碑(たくほどは)
 法円寺の本堂に向かう参道の右側に良寛句碑がある。字は五合庵句碑と同じである。平成十年弥彦良寛会創立記念で建碑。
【 碑面 】 【 通読 】
堂久保登盤     たくほどは 
閑勢閑毛天久留   風が持てくる
於知者可難 良寛書 落ち葉かな 良寛書

良寛歌碑(世の中を)
句碑の右側に良寛歌碑がある。平成十年建碑。
句碑と歌碑の間には読み仮名の碑がある。
【 碑面 】
餘能那閑遠 奈尓耳當東部(へ)牟 以也悲己尓
堂由多布久裳能 風能末尓/\
【 通読 】
世の中を なにに譬(たと)へむ 弥彦(いやひこ)に 
たゆたふ雲の 風のまにまに