全国の良寛ゆかりの地(新潟県除く)

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妙伝寺 大森子陽鬚髪碑
 

 山形県鶴岡市睦町二丁目の妙伝寺に「越後故處士大森子陽先生鬚髪碑」がある。良寛が地蔵堂の三峰館で学んだ師の大森子陽が寛政三年(一七九一)に五十四歳で没した後、寛政七年(一七九五)に門人によって建立された。「北越四大儒」の一人と言われた大森子陽は良寛が玉島に赴く二年前の安永六年(一七七七)に三峰館を閉じて羽州鶴ヶ岡に赴いた。
  庄内日報社1990年3月掲載の記事(筆者秋保 親英 氏)に鬚髪碑の訳文がある。記事は次の通り。
「庶民に学問広めた 偉大な儒学者 大森子陽 (元文3~寛政3年)
 鶴岡市睦町にある明伝寺(真言)の、山門から入って右側、あまり目立たない塀際に「越後故處士大森子陽先生須髪碑」と彫られた古い石碑が南面して立っている。高さが118cm(2段の台石を含めると163cm)もあり、銘が3面にびっしりと合計721文字の漢文で刻まれたこの碑は実に立派である。
 これは鶴岡や近郷の人々に学問を広め、この地で惜しまれながら亡くなった儒学者・大森子陽の遺徳を偲んで、門人・知人らが寛政7(1795)年に建てたもの。碑文を作り、これを書いたのは、子陽が親しく交友した九州島原藩の儒官・盤瀬(いわせ)行言(1731-1809)だった。
 大森子陽は歌人として有名な僧・良寛と同郷、しかも良寛は若いころ子陽に儒学を学んでいる。越後は早くから良寛研究の盛んなところで、たまたま昭和31年ごろに、寺泊町の当新田というところに子陽の墓があることが分かり、そのころから子陽の研究も活発になって貴重な関係史料も見つかっている。
 ところが、子陽の事績をもっとも簡潔に伝えるこの須髪碑(「須」は顔のひげ)の所在地である鶴岡では、ほとんど子陽のことが知られていない。甚だ残念なのでこの際碑文を直訳し、さらに史料によりいささか補筆することによってこの人を紹介することにした。
 大森子陽先生は本名を楽、字(あざな)を子陽といい、越後(新潟県)蒲原郡地蔵堂の人である。しかし、先祖の出身地ははっきりしない。後醍醐天皇の御代、伊予(愛媛県)に大森彦七盛長という人がいて、剛勇で知られたことが歴史書に書いてあるが、先生はその末裔だと伝えられる。盛長の十数代目の子孫を直周といい、直周の子が直好、直好の子が子陽先生である。
 子陽先生は幼いころ僧・大舟(蒲原郡永安寺の学僧1706-1787)のもとで学問を学び詩を作るのが巧みであった。壮年になってから江戸に上り、宇佐美しん水(松江藩儒官、荻生徂徠門人1710-1776)、大内熊耳(ゆうじ、唐津藩儒官、荻生徂徠門人、1697-1779)、松崎観海(丹波篠山藩儒官、太宰春台門人、徂徠学)、渋井太室(たいしつ、佐倉藩儒官、井上蘭台門人、徂徠学、1720-1788)、細井平洲(尾張藩儒官、米沢藩主上杉鷹山の師、折衷学派)と、有名な儒学者らに学んで、遂には長州藩の儒官・滝弥八先生(号は鶴台、服部南部の門人で海内無双の才子と称された。徂徠学、1706-1787)に仕えて門人となり、一途に勉学に励んだ。
 学業を終えて帰郷したのであるが、間もなく父の死に遭い、師とした滝先生も亡くなったので、それから江戸に上ることもなく、時々私(この碑文を書いた盤瀬行言のこと)らと手紙のやり取りをするのみになった。これは思うに、子陽先生が江戸に居たころの風俗一般が軽薄に流れており、文学を嗜む者はうわべだけの文章を書き、あるいは儒者ぶるだけで見かけ倒しだったのを見て、常に心を痛めていたことによるのではなかろうか。
 子陽先生は安永6(1777)年夏のある日、気持ちを取り直して郷里を出発、羽州の象潟や奥州の松島という名勝地を遊覧して大泉(庄内鶴ケ岡)に赴いた。この地で田中朝陽(大山の酒造家、1734-1799)や僧・天真(経歴不詳)に出会い、意気投合して1カ月ほど留まった。鶴ケ岡には柏倉要卿(文人池田玄斎の大叔父、1725-1798)という理解ある藩士がおり、先生の人物を見込んで家を求め、これを提供の上優遇した。そのため先生も義の深さに感謝してここに居を定めたので、土地の多くの子弟は挙げてその教えを受けるようになったのである。
 鶴ケ岡に某という心良からぬ役人がおり、先生はこの人を一見して、必ず失敗するに違いないといっていたのだが、果たしてその言葉通りとなった。私は不才だが、かつて読書を通じ先生と付き合いをした。先生は、分からないことがあればどこまでも訳を調べてはっきりさせ、それは常人の思い及ばぬほどであった。
性格として、うわべだけで物事を受け入れることができず、少しでも不安があれば中途半端な妥協はせず、納得ゆくまで原因、理由を追究した。他人に善行があればいつまでもこれを褒め称えたが、間違いがあれば面と向かってきつくこれを戒め、その後は一切この事に触れなかった。そのために人々は先生を敬愛したが、いたずらに馴れ馴れしくするようなことはなかったのである。
 先生が帰郷するとき、私は次のような序文を作ってこれを贈った。すなわち、あなたは直情径行(自分が正しいと思ったことは、相手の思惑などを考えずにそのまま実行すること)の性格だが、このままでは徳のある人として不適当であろう。しかし、礼儀、作法が正しく守られているならば、直情径行だからといって必ずしも非難するには当たらないかもしれない、と。それ以来先生は深く反省してこれを胸に納め、軽はずみな言動を取るようなこともなく、物事を処理するに当たってはいつも礼儀正しかった。
 先生は学問に励むかたわら医術も心得ていて、頼まれれば薬を調合して与え、たびたび効能を現すことがあった。先生の著作には三峰館集若干巻・孟子逢原一巻・老不知言十二巻があるが、いずれも書き終えていない。
 酒田の竹内伊右衛門という家から妻を迎えて男子一人を挙げ(一説によれば先妻の子ともいう)、名は宗晋(そうしん)、字を悦之といった。先生はのちに妻と別れたのだが、再婚はしていない。このため悦之は乳母の手で育てられ、わずか9歳で経史を暗誦し、詩を上手に作るなど父に似て才能があった。
 そのころ松山大年(大山の医家、1763-1818)という者がおり、この人は子陽先生の門人であった。いつも恩義を感じていたので、悦之を自宅に引き取り、甥や姪と同様に面倒を見て医学を勉強させた。
 子陽先生は元文3(1737)年、越後に生まれ、寛政3(1791)年5月7日、鶴ケ岡で亡くなっている。享年54であった。柏倉要卿は供物を厚くしたうえ、遺骸を郷里越後に送り届け、先祖の墓の傍らに葬った。
 鶴ケ岡の門人らは先生を追慕するあまり、その顔ひげと髪の毛をもらいうけてこれを埋め、墓とは別に石碑を建てることにしたのである。田中朝陽が手紙で私に、碑文を作ってくれと頼んできたので承諾しておいた。たまたま私の郷里島原で国を挙げての事件があって、折から幼い娘を亡くしてしまい、その後藩命を受けて西に赴くということもあったので、約束を果たさぬまま今日に至った。
 先生の墓地に植えた木はひと抱えもあるほどに伸び先生を葬ってから久しく経ってしまっている。本当に悲しいことだ。思えば先生は亡くなる三日前、自ら遺書を認(したた)めて、遺子(悦之))と遺著を自分に託して言うには、『悦之にもし素質があると思われるならば教育して欲しい。著述のうち役に立つものがあったら残し、不用なものは捨て、焚いた方がよいと思うものは焚いてもらいたい』と。
 間もなく病気が重くなって亡くなられたのであるが、先生のありのままで飾り気がないことは以上の通りであり、その日常の生活態度を知ることができる。それで、この碑の末尾には次のようにまとめて書くことにしよう。先生は皆のお手本となる人であった。このように大成させたのは誰か、それは滝鶴台先生である。特に親しく交わったのは誰か、それは鶴ケ岡の心ある人々である。その優れた人徳を見出したのは誰か、それは田中朝陽である。死後に子息の悦之を教育してくれたのは誰か、それは松山大年である。この石に碑文を書いたのは誰か、それは私、盤瀬行言である。
 寛政7年春正月
 以上のような大森子陽の須髪碑の碑文を書いた盤瀬行言(号は華沼)は、室鳩巣の流れをくむ朱子学者で書家としても知られる。子陽は荻生徂徠の学風に傾倒していたが、各学派の人々とも交友を深め、幅広く儒学を修めていた。庄内における子陽の動静を詳しく伝えているのは、江戸後期の文人・池田玄斎(1775-1852)の著述である。玄斎は子陽より37歳も年下で面識はなかったが、子陽の面倒をみた柏倉要卿の近縁に当たることから、子陽に関する克明な聞き書きや、その小伝をもまとめている。これらの史料によると、子陽に入門したのは主として給人(きゅうにん=下級の士)や町人・農民といったいわゆる庶民であり、歴史上に残る人も多い。一方では、白井矢太夫・和田伴兵衛など庄内藩きっての儒学者とも交わって、家老の水野内蔵丞も、子陽の教育法には感心していたとの記述も残っている。また、子陽は当時流行していた俳諧にも巧みで、茶・香・華道の嗜みもあったといい、当時この地方では、広く信望を集めていたことが裏付けられる。
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

上杉神社

 米沢市の米沢城跡に上杉神社がある。良寛には「米沢道中」と題した漢詩と「宿玉川駅」と題した漢詩があり、米沢に行ったことは確実でしょう。                                      

 米沢道中     米沢道中
幾行鴻鴈鳴南去  幾行の鴻鴈(こうがん) 鳴いて南に去る
回首不耐秋蒼茫  回首すれば秋の蒼茫たるに耐へず
千峰葉落風雨後  千峰葉落す風雨の後
一郡寒村帯夕陽  一郡の寒村夕陽を帯ぶ

 米沢道中の時期は良寛三十七歳の年ではなかったかと私は推測しています。天明の飢饉の時にも餓死者が極めて少なかった米沢藩の名君上杉鷹山公の治世を、是非一度この目で確かめてみようと、良寛は米沢を目指したのではないでしょう。上杉鷹山公はケネディ大統領が最も尊敬する日本人として挙げた人物です。鷹山公が次の藩主に家督を譲る際に示した藩主の心構えが「伝国の辞」です。鷹山公は、大森子陽の師でもあった細井平洲を師として、その教えを守り、善政を行ったのです。
「伝国の辞」とは、次の三箇条です。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にて君のために立たる国家人民にはこれなく候
 鷹山公には次の歌もあります。受けつぎて 国の司の 身となれば 忘るまじきは 民の父母

玉川

 米沢道中の途中(復路?)に玉川の宿に泊まっています。「宿玉川駅」と題した漢詩があります。       

 宿玉川駅     玉川駅に宿す
風雨蕭蕭秋将莫  風雨蕭蕭(しょうしょう)として秋将(まさ)に莫(く)れんとす
游子関心行路難  游子心に関はる行路の難
永夜幾驚枕上夢  永夜幾たびか驚(さ)む枕上の夢                               

 玉川の場所については、二説あり、山形県小国町の荒川の支流の玉川(源流は飯豊連峰)に近い十二峠街道の宿との説と、羽黒山の近くの玉川寺(ぎょくせんじ)との説があります。漢詩の中で水の流れる音が大きくて雨と勘違いしたという記述があり、前者との説が有力ではないかと思います。

玉川寺

 鶴岡市羽黒町の玉川寺の庭園は国指定の文化財(名勝)であり、池泉廻遊式蓬莱庭園の名園です。玉川寺は九輪草の純群落など様々な花が咲くことから「花の寺」と呼ばれています。開山は鎌倉時代ですが、1453 年に村上の耕雲寺の住職・南英謙宗禅師が再興しました。南英謙宗は曹洞宗の越後四大修行道場の一つ種月寺の住職も務めた名僧で、次の偈があります。
 昨夜窓前風雨急和根推し倒す海棠(かいどう)の花
意味は、悟りを得るまでは煩悩が激しかったが、悟ってみれば迷いは花のように散ってしまった、というのでしょう。

 良寛の逸話があります。在る家で宿を借りたその晩に、向かいの家で派手な夫婦喧嘩があり、良寛が気をもんでいたところ、やがて騒ぎがおさまった。翌朝、その家の主人がやって来て、昨夜のことなど知らぬ顔で良寛に書を求めた。そこで良寛は、この南英謙宗禅師の偈を書いてやった。もらった当人は満足気に、その語の意味を尋ねた。良寛は「なあに、お前さんのゆうべのことだよ」と言って笑った。相手は頭をかいて恐縮したそうです。

香聚閣圓蔵寺

 福島県会津柳津町に福満虚空蔵尊圓蔵寺がある。大同二年(八〇七)法相宗の徳一(とくいつ)大師により開創されたと伝わる。良寛はここで宿泊して詩を賦している。時期は諸説ある。地元では六十歳頃と推定しているが、三十代の青年時代だったとの説もある。

 圓蔵寺境内に「良寛和尚行脚之地碑があり、「良寛和尚の柳津圓蔵寺詣で」の説明板もある。平成十四年四月柳津町教育委員会・福満虚空蔵尊圓蔵寺建碑。

 月見が丘町民センターの敷地内に「良寛像」と「詩碑」がある。良寛像は隆泉寺境内にある滝川美一作の良寛像とよく似ている。詩碑は題が「宿也奈伊津乃香聚閣早興眺望」首句は「向夕投香聚」。香聚閣とは圓蔵寺の虚空蔵堂。
 次の良寛尊者詩集にある詩と同趣の詩が刻されている。
 秋夜宿香聚閣早倚檻眺      秋夜香聚閣(こうじゅかく)に宿し、早(つと)に檻に倚(よ)りて眺む
日夕投精舎 盥嗽拝青蓮    日夕精舎に投じ 盥嗽(かんそう)して青蓮を拝す
一灯照幽室 万像倶寂然    一灯幽室を照し 万像倶(ともに)に寂然たり
鐘声五夜後 梵音動林泉    鐘声五夜の後 梵音林泉を動かす
東方漸已白 泬寥雨後天    東方漸(ようや)く已に白く 泬寥(けつりょう)たり雨後の天
涼秋八九月 爽気磨山川    涼秋八九月 爽気山川を磨(ま)す
宿露凝陰壑 初日登層巒    宿露陰壑(いんがく)に凝(こ)り 初日層巒(そうらん)に登る
宝塔虚空生 金閣樹杪懸    宝塔虚空に生じ 金閣樹杪(じゅびょう)に懸る
絶巘灑飛流 積波接遙天    絶巘(ぜっけん)飛流に灑(そそ)ぎ 積波遙天に接す
杳杳問津客 汎汎兢渡船    杳杳(ようよう)たり津(しん)を問ふ客 汎汎(はんぱん)渡を兢(きそ)ふ船
洲渚何微茫 杉檜翠可餐    洲渚(しゅうしょ)何ぞ微茫たる 杉檜(さんかい)翠(すい)餐(くら)ふ可(べ)し
伊昔貴遐異 足跡殆将遍 伊(こ)れ昔 遐異(かい)を貴び  足跡 殆(ほとん)ど将に遍(あまね)らんとす
如今遊此地 佳妙信難宣    如今 此地に遊び 佳妙 信(まこと)に宣(の)べ難し
孰取香聚界 置之予目前    孰(たれ)か香聚界を取りて 之(これ)を予が目前に置く
俯仰一世表  孤詠聊成編    一世の表(ほか)に俯仰し 孤詠して聊(いささ)か編を成す
帰期無奈何 長途忽心関    帰期奈何(いかん)とする無く 長途忽(たちま)ち心に関はる
人間有虧盈 再来定何年    人間虧盈(きえい)有り 再来何れ年とか定めん
欲去且彷徨 卓錫思茫然    去らんと欲っして且(しばら)く彷徨し 錫を卓(た)てて思い茫然たり

大通寺 飯盛女慰霊碑

 上州木崎宿(現群馬県太田市)の大通寺に「飯盛女慰霊碑」がある。平成十五年飯盛女供養塔を建てる会建立。「飯盛女供養塔建立の碑」もあり、碑文は次のとおり
「江戸時代の木崎は、日光例幣使道の宿場として、問屋・本陣などが設けられました。例幣使や旅行者の荷物などの搬送に駆り出された、助郷三十六ヶ村の若者などの泊まる旅籠屋が、沢山あり繁栄していました。
 この繁栄を陰でささえたのが、旅籠屋で働く飯盛女達でした。前借り制の年季奉公で、越後などからきた若者の子女でした。彼女たちの実態は、夜ごと、客を相手に若い命をすり減らしたのです。そして苦界の我が身を歎き、救いを色地蔵様に願ったり、故郷を偲んで広大寺節を唄ったのが木崎節となり、八木節の元唄となりました。
 しかし、過酷な生活が災いし多くが若くして病死し、年季中に無くなった女たちが寺の過去帳に記されております。また、良寛と遊んだと伝える墓もあります。これら望郷の願いもむなしくこの地に果てた、彼女たちを忘れてはならないのです。
 ここに町民有志が集い広く浄財を募ったところ、新田町観光協会の多大なる助成をはじめ、町民多数の寄進によって、彼女たちの例を供養し、ここに「飯盛女供養塔」を建立したのです。」

 大通寺に近い長命寺の前に「木崎宿色地蔵」もある。木崎宿の飯盛女の墓については、水上勉『良寛を歩く』に詳しい。飯盛女の墓は良寛が生きた時代の越後の出雲崎・寺泊・地蔵堂出身者が多いという。数年に一度の水害の年になると、年貢を納められない百姓の娘が売られていったという。

慶福寺 詩碑、大忍魯仙墓碑
 深谷市矢嶋の慶福寺に慶福寺十五世大忍魯仙の墓と詩碑がある。
 大忍魯仙は良寛の漢詩が形式にとらわれていなくても素晴らしい内容であると擁護した。良寛の知音(よき理解者)であった。文化八年(一八一一)示寂、享年三十一歳。

良寛詩碑
 詩碑は昭和二十一年大寄村教育委員会建碑。詩碑の筆者は相馬御風。
碑面】               【通読】
大忍俊利人 屢話僧舎中  大忍は俊利の人 屢(しばしば)話(かた)僧舎の中(うち)
自一別京洛 消息杳不通  一たび京洛に別れて自(よ)り 消息 杳(よう)として通ぜず

廣見寺 石経蔵

 埼玉県秩父市の廣見寺に良寛に大きな影響を与えた大而宗龍が造った石経蔵がある。明和七年(一七七〇)
宗龍五十四歳の年に大般若石経書写事業大願成就。昭和二年、埼玉県指定文化財(史跡)。

善光寺 良寬詩碑

 善光寺の仁王門の左下に詩碑がある。平成三年、長野良寛会・大本山善光寺大本願 建立。 
【碑面】      【通読】
 再遊善光寺      再び善光寺に遊ぶ
曾従先師遊此地     曾(かつ)て先師に従ひて 此の地に遊ぶ
回首悠悠二十年     首(こうべ)を回(めぐら)せば 悠悠二十年
門前流水屋後嶺     門前の流水 屋後の嶺
風光猶似旧時妍     風光 猶(な)ほ 旧時の妍(けん)に似たり
【訳】
むかし、遷化した本師国仙和尚に従って、善光寺のある信濃の地を訪れた
振り返って見るともう二十年にもなるだろうか
善光寺の山門の前の流れや伽藍の後ろの嶺も
その景観の美しさは昔見たときと同じだなあ

南木曽町 良寬歌碑

大隆寺 宗龍墓碑

 岐阜県高山市の大隆寺に大而宗龍(だいにそうりゅう)禅師の墓碑がある。安永五年(一七七六)大而宗龍が飛騨大隆寺を転派再建、開山は悦巖、宗龍は二世となる。安永八年(一七七九)入仏供養を執り行ったのち、大隆寺三世竺翁慧林の晋山式を行い、隠居し越後に帰国、寛政元年(一七八九)示寂、享年七十三歳。墓は大隆寺にある。