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良寛の生涯 良寛の清貧の
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良寛の宗教・思想 良寛の芸術
和歌・俳句 │漢詩 │ 

書の古典の学習

 良寛の書は、少年の頃には三峰館の師大森子陽の書から、名主見習役時代は役所に提出する文書に使う御家流の書から、円通寺時代は師の国仙和尚の書から、それぞれ一定の影響を受けたものと考えられます。
 その後、五合庵時代から、良寛は本格的に書の古典の法帖から学ぶようになりました。良寛が学んだ書の古典の法帖は次のものなどがあります。
 草書は懐素(かいそ)の『自叙帖』など。
 仮名は小野道風の『秋萩帖』など。
 楷書は陶弘景(とうこうけい)の『えい※鶴銘(えいかくめい)』など                  ※「えい」の字は「病だれの中に、上は(十の下側の左右に人)、下は(今の上の字の下に土)」

空中習字

 良寛は書の古典の法帖から学びましたが、徹底的に練習して学びました。毎朝、空中に字を書いたり、紙の代わりに土や砂に書いたりもしました。貴重な紙で練習するときは、紙が漆のように真っ黒になるまで練習しました。

高い評価

 良寛は書の古典をマスターして基礎がしっかりできたため、美しい書を書くことができました。
 良寛は、清貧の心、慈愛の心をそのまま詩歌に詠みました。そしてその詩歌を無心で書いて美しい書にしました。
 良寛の書は良寛の生前から評価され、多くの人が良寛から書を書いてもらおうとしました。そのことを示す逸話がたくさん伝わっています。
 現代では、良寛の脱俗の高い境地で書かれた書は神品とも言われ、高く評価され、日本の書の最高峰ともいわれています。

夏目漱石の評価

 夏目漱石は良寛の書を高く評価し、手に入れようと強く望みました。
 大正三年一月に東京朝日新聞に連載した「素人(しろうと)と黒人(くろうと)」の四回目に次のように記しました。
 「良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えてゐた。詩人の詩、書家の書といへば本職という意味から見て是程立派なものはない筈である。それを嫌う上人の見地は黒人(くろうと)の臭を悪(にく)む純粋でナイーブな素人の品格から出てゐる。心の純なところ、気の精なるあたり、そこに摺(す)れ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。」
 漱石は大正五年十一月に亡くなりますがその一ヶ月ほど前(明治末年や大正三年との説もある)、上野帝室博物館で開催されていた良寛展を津田青楓と連れだって見に出かけました。このとき漱石は、良寛の六曲屏風一双の書を見るなり「ああ。」と感嘆の一言を発し、「これなら頭が下がる」と評したといいます。

北大路魯山人の評価

 北大路魯山人(ろさんじん)は、昭和十三年六月「魅力と親しみと美に優れた良寛の書」(『良寛遺墨』所蔵)の中で、                                              「良寛様の書は質からいっても、外貌からいっても、実に希(まれ)にみるすばらしい良能の美書であって、珍しくも、正しい嘘(うそ)のない姿である。いわゆる真善美を兼ね備えたものというべきであろう。かような良能の美書の生まれたのは、良寛様その人の人格が勝れて立派であったからである。書には必ず人格が反映しているもので、人格が反映していない人格以上の書の生まれ出ることなど、まずもってあり得ない。」と良寛の書と人格との関わりについて鋭く指摘しています。

良寛の遺墨  

 良寛のすばらしい書は現在も「良寛のふるさと」の各地に遺墨として多く伝わっています。その良寛遺墨は、燕市分水良寛史料館、良寛の里美術館、良寛記念館などで展示されており、良寛の心と芸術にふれることができます。
 そして、新潟県の内外に良寛の詩歌の美しい書が刻まれた詩歌碑が多数建立され、良寛が住んだ五合庵等の史跡・詩歌碑のある「良寛ゆかりの地」・良寛の遺墨は地域の文化の宝ものとして、今も人々に大切に保存され愛され続けています。