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以下の質問への回答は野積良寛研究所所長本間明の個人的な見解です。
Q1 良寛さまは名主の長男なのになぜ出家したのか│
Q2 良寛さまはなぜ越後に戻ったのか│
Q3 良寛さまはなぜ寺にも住まず住職にもならなかったのか│
Q4 良寬さまはどうして子供たちと遊んだのか│
Q5 良寬さまはどうして優れた詩歌や書を作れたのか│
Q6 良寛さまと貞心尼との関係は│
Q1 良寛さまは名主の長男なのになぜ出家したのか
A1 良寛さまは出家した理由については何も語っておらず、正確な理由は不明です。考えられる理由については諸説あります。盗賊の死刑に立ち会って帰宅し直ちに出家したとの鈴木文台(ぶんたい)の説など。
良寛さまは18歳の夏に出奔し、その後時期は不明ですが坐禅修行を始め、22歳の年に正式に得度し僧になりました。出奔の理由はいくつか考えられます。父以南が敦賀屋の若き当主長兵衛(良寛さまが学んだ三峰館の先輩)に難癖をつけた「七夕参賀事件」で父と学塾の先輩の間に立たされ苦悩したこと、父から強制された名主見習役の職務が自分に向いていないことによるストレスの蓄積、もともと親密でなかった父以南とのさまざまな軋轢(妻との離別など)があったことなど。
良寛さまは出奔後に坐禅修行を始めましたが、その動機は、もともと仏教に関心があり、少年時代から出家願望があったものと思われます。良寛さまが出家願望を抱くようになった背景には、信仰心の篤かった母秀の影響や、少年時代に寺子屋に通った光照寺(曹洞宗)の蘭谷万秀(らんこくばんしゅう)の影響、白根(現新潟市南区)茨曾根の永安寺の大舟和尚の下で、仏道修行の経験もある三峰館の師大森子陽の影響などが考えられます。
そしてなによりも、良寛さま本人が、自分とは何者か、人間はどのように生きるべきかといった哲学的な問題に関心があり、坐禅に強い興味を抱いていたこと、及び良寛本人が自らの人間的な弱さを自覚しており、坐禅などの厳しい仏道修行でその弱さを克服し、悟りを得て心の安寧を得たいという願望を抱いていたことが、坐禅修行を始めた動機だったのではないでしょうか。
Q2 良寛さまはなぜ越後に戻ったのか
A2 道元の「莫(まく)帰郷」から、当時の曹洞宗門では、出家者はふるさとに帰ってはならないという厳しいルールがありました。
良寛さまは当時の仏教界は釈尊が始めた仏教本来の姿ではないと考え、曹洞宗教団の一僧侶として、寺の住職に就くという当時の一般的な道を選ばず、静かに教団を離脱していきました。そして山中の草庵に独居し、托鉢僧として生きるという良寛さま独自の仏の道を歩み始めました。教団を離脱した以上、教団のルールである出家者帰郷厳禁の掟には拘束される必要はなく、帰郷という選択肢が見えてきました。
良寛さまは厳しい修行のすえ、悟りの境地に達し、師の国仙和尚から印可の偈を授かりました。仏道とは悟りを得てからも生涯修行を続けなければなりません。悟りを得てからの修行、悟後の修行を聖胎長養(しょうたいちょうよう)と言います。良寛さまは、印可を受けてから円通寺を去り、聖胎長養のために、諸国行脚に出ました。そして、悟境を深め、自分の仏者としての生き方を確立した段階で、定住して民衆とともに生きるという生き方を目指しました。十牛図でいう「入てん※垂手」(にってんすいしゅ)の段階です。
その民衆とともに生きるための定住の地として、良寛さまが選んだ場所が「ふるさと越後」でした。良寛さまが定住の地として越後を選んだ理由はたくさん考えられますが、最大の理由はおそらく「ふるさと越後」への郷愁ではなかったでしょうか。
※「てん」の字は「左側には、まだれの中に、上が田、下が陸の字の右側の部分が入る。右側は、こざと(英字のBに似た字)。」
Q3 良寛さまはなぜ寺にも住まず住職にもならなかったのか
A3 釈尊や道元の忠実な後継者であろうとし、空海や道元に匹敵するほどの深い学識と悟境を持つ宗教者であった良寛さまは、決して、住職になれず、寺に住めなくて、やむを得ずに托鉢により食を得て生きたいわゆる挫折者では決してありません。
当時の僧侶の多くは江戸幕府の寺請制度にまもられて、檀家からの義務的な布施で農民よりもぜいたくに生活し、人々の魂の救済という本来の活動には消極的でした。この当時の堕落した仏教界に背を向けた良寛さまは、仏教本来の生き方として、釈尊が歩んだ道と同じ道を歩もうとし、お寺の大きな伽藍に住むことなく、お寺の住職にもならずに、清貧に生き、生涯托鉢行脚を続けるという厳しい生き方を選んだのです。
また、托鉢は多くの人たちとふれあいことができます。良寛さまは托鉢に出て、やさしい笑顔(和顔)とやさしい言葉(愛語)で人々と接し、慈愛の心で人々に寄りそい、人々の苦しみを和らげたのです。托鉢に出かけ、病人がいれば看病し、農作業で疲れた人がいれば按摩やお灸をしてやり、親の命日と聞けば読経もしました。良寛さまにとって、托鉢とは衆生済度の菩薩行でもあったのです。
Q4 良寛さまはどうして子供たちと遊んだのか
A4 良寛さまは、純真な子供たちをこよなく愛し、よく一緒になって、かくれんぼ・毬つき・おはじきなどで遊んだり、字を教えたりしました。良寛さまの生きた江戸時代は、子供は子供同士で遊び、大人が子供と一緒に遊ぶということは考えられない時代でした。ある人が良寛さんに、なぜ子供と一緒になって遊ぶほど子供が好きなのかと尋ねると、良寛さまは「子供は純真で、うそ偽りがないから」と答えたのです。
良寛さまは厳しい仏道修行を続けるうちに、あらゆる欲望・煩悩を捨て、無欲・無心の境地になりました。求める心・こだわる心・意図的な作為・はからい・分別心さえも捨て去り、人間が生まれながら持っている清浄心、すなわち仏の心のおもむくままに、生きるようになったのです。良寛さまの言葉で言えば「騰騰任天真」です。まさに子供の純真な心と同じ心です。同じ心を持った者が一緒に遊ぶのは自然の成り行きでしょう。良寛さまは子供たちと遊んでやっているのではなく、自分がすなわち子供そのものだったので、子供たちと一緒になって遊んだのです。
なお、子供たちと一緒に遊ぶということは、農作業で忙しい親に代わって、子供の面倒を見ていたことにもなります。これは、「利行(りぎょう)」といい、菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)という菩薩が行う衆生済度の4つの方法の一つで、菩薩行でもあったのです。
また、水害の年になると年貢を納められないため、関東の宿場などに飯盛り女として売られていく女の子もたくさんいた過酷な時代でした。良寛さまは子供たちと一緒に遊ぶことで、子供たちに楽しい思い出をたくさん作ってやっていたのです。
Q5 良寬さまはどうして優れた詩歌や書を作れたのか
A5 江戸時代の僧侶は教養として、漢詩、和歌、俳句、書、茶などを学び、身につけていました。良寛は出家する前に、三峰館で大森子陽から、論語などの儒教の他に漢詩文や仏教、さらには老荘思想も学びました。また、父以南は「北越蕉風中興の棟梁」と言われたくらいの俳人でした。そのため実家の橘屋には、俳句の句集をはじめとして、中国や日本のさまざまな古典があり、良寛さまは幼少の頃から、読んでいたことでしょう。円通寺時代には、師の国仙和尚は和歌に秀でていましたので、和歌も学んでいるはずです。そうした、各分野の基礎的な知識をしっかりと身につけていたのです。
そのうえ、五合庵時代以降も、古典を徹底的に学んで、それぞれの分野で一流の域に達したのです。和歌においては万葉集を徹底的に研究し、自家薬籠中のものとし、良寛さまの和歌は万葉調と言われ、さらに万葉調をも超えた良寛調とまでいわれるほど高く評価されています。書も中国や日本の古典といわれる法帖を、徹底的に練習して、その骨法を会得しています。良寛さまの草書は独自の書体のようですが、その裏には古典を完全にマスターした基本があるので、書としても優れたものになっているのです。
良寛さまの書は、現代では日本の頂点にあるのではないかとの評価もあるくらい高く評価されています。良寛さまの書が美しいのは、古典の基本を踏まえているうえに、無欲・無心の境地で書いているため、超俗の書と言われ、神品とまで言われます。心の伴わない技術だけの書を売ったり教えたりして稼ぐ書家を良寛さまは嫌っていました。
さらに、良寛さまは基本的に自分が詠んだ和歌や漢詩を書にしています。現代の書家のように、中国の漢詩や日本の古典を書いているのではないのです。良寛さまの詩歌そのものが極めて優れたものであるため、良寛さまの書もまた優れているのです。書の文字が美しいだけでなく、書かれた詩歌の内容が芸術性・思想性に優れたものであるため、書が一層すばらしいものになっているのです。
良寛さまの詩歌がすばらしい理由は、古典をしっかりと学んでいる面もありますが、その詩歌には良寛さまの純粋な心や、深い仏教思想・高い悟境が、反映されているからでしょう。厳しい修行を続け、本当の仏道とは何かを真摯に求め続けた良寛さまは、無欲・無心の境地に至り、清浄心すなわち仏の心になりきっているのです。そのため、その美しい心で感じた思いを和歌にし、禅の悟境を漢詩にしたのです。だから良寛さまの詩歌はすばらしいのです。
美しい心で詠んだ美しい詩歌を美しい書にした良寛さまこそ、天才的な総合芸術家といえるのではないでしょうか。美しい心で詠んだ美しい詩歌を美しい書にして、人々に無償で分け与えたのは、良寛さまの布施であり、良寛さまの仏法の布教でもあったのです。
Q6 良寛さまと貞心尼との関係は
A6 70歳の良寛さまを30歳の尼僧貞心尼が訪れました。貞心尼は仏の道に生きるに当たっての悩みがあったようです。武家の娘として育てられ、幼き頃から文学を志向し、和歌もできて書も達筆な貞心尼は当時の女性としては珍しいほどの教養溢れる才媛でした。そのため、与板の和泉屋山田家や島崎の木村家などの有力者とはすでに親しくしていたのではないかと思います。そうした有力者の中では、良寛さまは既に徳の高い僧侶でかつ、和歌や書の優れた人物として知られています。貞心尼はそんな良寛さまの噂を聞き、仏の道を導いてくれる師匠として、是非とも弟子入りしたいと思っていたのでしょう。さらに和歌についても指導してほしいという思いもあったかもしれません。
そうした時に、良寛さまが国上山を下りて島崎の木村家に移ったということを耳にした貞心尼は、絶好のチャンスとばかり、島崎に近い場所への移転を考えました。そうしてなんとか住むことができたのが長岡の福島(ふくじま)の閻魔堂だったのです。
山田家や木村家を通じて、良寛さまを訪問する段取りをつけ、てまりと自分が詠んだ入門を望む内容の和歌を用意して、貞心尼は四月に良寛さまを訪問しました。そのときはちょうど良寛さまが寺泊の照明寺密蔵院に逗留のために出かけたばかりで、逢えませんでしたが、手まりと和歌を木村家に託してました。
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ (貞心尼) 御法…仏法
六月に貞心尼からの手まりと和歌を受け取った良寛さまは貞心尼に次の歌を返しました。
つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九の(ここ)十(とを) 十とおさめて またはじまるを (良寛)
この歌の「つきてみよ」には手まりをついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。良寛さまは貞心尼の弟子入りを認めたのです。
その後、貞心尼はたびたび島崎の木村家に良寛を訪ねたり、手紙のやりとりを重ねてゆきます。良寛さまと対面したときには、仏法の話を夜遅くまでしたり、手紙の中に仏法についての理解などに関する和歌を入れたり、二人の師匠と弟子は、親密な交流をつづけました。
翌年の春に、貞心尼は良寛さまから教えを受けた仏法の真理を体得し、良寛さまもそれを認め、次の歌のやりとりをしました。良寛さまはさらに仏道修行に励むように語りかけ、貞心尼はその実行を誓ったのです。
霊山(りょうぜん)の 釈迦のみ前に 契りてし ことな忘れそ 世はへだつとも (良寛)
霊山の 釈迦のみ前に 契りてし ことは忘れじ 世はへだつとも (貞心尼)
霊鷲山で弟子や信者達に法華経を説法したお釈迦様の言葉「法華経を説き弘めよ。そうすれば世をこえて諸仏に守護され、いつか未来に誰もが仏道を成就できる」に、釈迦のみ前にいた弟子や信者達はみなその道を行くことを誓いました。現在僧や尼になって仏法と縁が結ばれているのは、過去の世に釈迦のみ前で仏道に精進することを誓ったからだといいます。この歌の「契り」について、男女の密接な関係と理解する向きもあるようですが、良寛さまは自分の和歌の中で「契り」を約束の意味でのみ使用しています。
その後も二人の純真で清らかな師匠と弟子としての交流は続きました。良寛さまの仏法を理解してからは、貞心尼への和歌の指導も徐々に行われたようです。
良寛さまは永年の厳しい仏道修行によって、無欲・無心で何ごとにもとらわれない心になっていました。若くて美しい尼僧貞心尼と逢っているときは、その美しさ・聡明さなどに魅了されたことでしょう。しかし、その時その時をだれもが生まれながらに持っている清浄心・仏の心で生きている良寛さまは、そうした一時の思いにとらわれることはなく、貞心尼への思いを引きずってその恋情を募らせるようなことは決してなかったはずです。
良寛さまと貞心尼の間に男女の密接な関係があったのではないかと考える人もいるようですが、二人は互いに相手を認め、尊敬し合い、好ましいと思っていましたが、基本的には仏道の師匠と弟子であり、そのような関係はなかったはずです。そのような関係があっても人間らしくてよいではないかと思う人もいるかもしれませんが、それはあらゆる自由を謳歌している現代人の感覚でしょう。二人が生きた江戸時代は、封建社会で倫理道徳が厳しく、不義密通(いわゆる不倫)は大罪であり、僧侶と尼僧の間にそのような関係が生じることは断じてあってはならないことだったのです。
良寛さまは「一生香を成せ」を座右の銘にし、清く正しく美しく生きることを常に心がけていました。常に我が身を振り返り、人々から非難されるような行動は決して取らなかったのです。
そのため、良寛さまは貞心尼との間にそのような関係を疑われることを極力避けようとしており、山田家での和歌のやりとりの中で次の歌があるくらいです。
山がらす 里にい行かば 子がらすも 誘(いざな)ひてゆけ 羽(はね)弱くとも (貞心尼)
誘ひて 行かば行かめど 人の見て 怪しめ見らば いかにしてまし (良寛)
また、二人が会う場所は島崎では木村家の母屋だったと思われますし、良寛さま遷化の前年に山田家で会ったときは、それぞれが別の場所に泊まっています。そして良寛さまが閻魔堂の貞心尼を訪ねた事実を示す資料はおそらくないようです。遷化の前年に、良寛さまが貞心尼の庵を訪問する約束をしましたが、良寛さまがその後病臥したため、その約束は果たせませんでした。
こうした状況から、良寛さまと貞心尼の間は純真で清らかな心の交流はありましたが、決して男女の密接な関係はなかったと思われます。
なお、次の歌を良寛さまの貞心尼への想いの歌と考える人がいますが、決してそのような歌ではありません。
ぬば玉の 今宵もここに 宿りなん 君がみことの いなみがたさに
(適切とは思われない訳:今宵もここに泊まりたいというあなたを、帰れと断りきれない私がいる)
越の海 人をみる目は つきなくに 又かへり来むと 言ひし君はも
(適切とは思われない訳:別れ際に、越後の海を見ながら「あなたをずっと見ていたい。また帰って来ます」と言ったあなたよ)
最初の「ぬばたま」の歌は阿部家横巻にあり、「君」とは阿部定珍のことです。阿部家を訪問した良寛に、阿部定珍が今夜も阿部家に泊まっていって下さいと言ったのです。
訳は「今夜もここに泊まることにしよう。あなた(阿部定珍)の優しいお言葉を、こばみにくいので」
次の「越の海」の歌の、「君」とは良寛さまの弟の由之のことです。由之は町民との裁判に負けて追放処分になり、出雲崎を去らなくてはならなくなったのです。しかし、由之はまた復活して出雲崎の名主になって帰って来ると言っていたようです。良寛はリベンジに情熱を燃やしている弟由之を嘆かわしく思って詠んだ歌でしょう。
訳は「越後の海には海藻の海松布(みるめ)が尽きないように、ここ(出雲崎)は人の見る目が尽きない場所なのに、また出雲崎に帰ってこようと、あなたは言ったことよ」
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