托鉢の地・新潟市

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西蒲区のマップ

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番号 名称
1 西蒲区 間瀬の浦歌碑
2 西蒲区 行くさ来さの碑
3 西蒲区 鳴琴堂歌碑
4 西蒲区 岩室田中の松の碑(敵見の松)
5 西蒲区 岩室田中の松の碑(丸小山の松)
6 西蒲区 樋曽の紅葉歌碑
7 西蒲区 高島屋歌碑
8 西蒲区 海雲寺歌碑
9 西蒲区 堀越家詩碑
10 西蒲区 福井の歌碑
11 西蒲区 十大願文碑
12 西蒲区 角田浜歌碑
13 西蒲区 法華転碑
14 西蒲区 万福寺いろは、一二三碑
15 西蒲区 仙城院詩歌碑
16 西区 新潟大学良寛像
17 西区 緒立百花春碑
18 西区 雪稜舎美術館
19 南区 円通庵
20 南区 林正寺良寛像
21 中央区 県立図書館いろは、一二三碑
22 中央区 考古堂良寛壁画及び歌碑
23 中央区 古町の良寛像及び詩碑
24 中央区 ふるまち良寛てまり庵
25 中央区 北方文化博物館新潟分館
26 中央区 勝楽寺詩碑
27 中央区 西大畑公園良寛さん遊ぼ像
28 中央区 西海岸公園良寛詩碑
29 中央区 新潟市歴史博物館
30 東区 神明神社歌碑
31 北区 太古山日長堂良寛上人伝碑
32 北区 五十嵐家句碑
33 江南区 東陽寺
34 江南区 北方文化博物館
35 江南区 宗賢寺
36 秋葉区 斎藤家歌碑
37 秋葉区 普談寺天上大風碑
38 秋葉区 桂家別荘跡歌碑

間瀬の浦歌碑

 越後七浦シーサイドラインの間瀬海岸にある越後七浦観音から海岸沿いの遊歩道を西に少し歩くと、岸壁に間瀬の浦歌碑が嵌め込まれている。平成14年、岩室良寛会建碑。
【 碑面 】          【 通読 】
ませ能宇羅の あ萬能可    間瀬の浦の 海人(あま)の
留毛乃 与里??耳       刈る藻の よりよりに
起美毛とひこよ 和礼裳    君も 訪い来よ 我も
まち難無           待ちなむ

行くさ来さの碑

  石瀬の子育て地蔵の脇に、碑表に良寛行くさ来さの碑と刻まれた碑がある。平成18年岩室良寛会建碑。
【 碑陰の碑面 】
行くさ来さ 見れども飽かず 石瀬なる 田中に立てる 一つ松の木

鳴琴堂歌碑

 和納の山岸楽斎は医師で唐琴の名手だった。鳴琴堂は楽斎の堂号。平成26年、岩室良寛会、楽斎と和納を知る会が岩室駅前に鳴琴堂歌碑を建碑。
【 碑面 】                    【 通読 】
無之波難久 知久斜者散起奴 虫は鳴く         千草は咲きぬ この庵を
己能以報遠 古与ゑ者可良牟 都幾以州留末天   今宵は借らむ 月出づるまで

岩室田中の松の歌碑(敵見の松)                             

  扇面の和歌と漢詩が刻された良寛歌碑と田中の松が二箇所ある。一つは石瀬の矢川のほとりの敵見の松。昭和12年頃、高島虎雄建碑。敵見の松は、天神山城主小国貞頼が見張りに使ったためつけられたとも言われる。矢川放水路の工事で長らく種月寺に移転していたが、近年、もとの田んぼの中に戻った。
【碑面(扇面)】    【通読(扇面)】
意婆無呂能     岩室の
堂奈閑乃萬都    田中の松
者 萬知奴     は 待ちぬ
羅之 和遠萬知   らし  我(わ)を待ち
奴良之多難     ぬらし 田な
可能万州者     か  の松は
 釈 良寛書     釈 良寛書
【碑面(詩)】      【通読(詩)】
師来有何意           師の来れるは何の意か有る
飛錫留高蹤           飛錫(ひしゃく)高蹤を留む
傍人問不答           傍人問へど答へず
笑指一株松読       笑って指さす一株(しゅ)の松
 読良寛禅師歌題後     良寛禅師の歌を読み後に題す
       翠雲道人              翠雲道人
 翠雲道人とは此の地に来遊した画家小室翠雲

岩室田中の松の歌碑(丸小山の松)  

 丸小山の歌碑は、昭和10年頃、高島幸蔵建碑。碑面は敵見の松の歌碑と同じ。

樋曽の紅葉歌碑

 新樋曽山隧道入口に樋曽の紅葉歌碑がある。樋曽は岩室温泉から間瀬峠に向かう入口にある集落である。良寛の生きた時代には、紅葉の名所として知られていた。昭和42年西蒲原郡土地改良区西部区建碑。渡辺秀英筆。
【 碑面 】
おとにきく 樋曽の山へ能(の) 紅葉見に 
今年はゆかむ 老いの名残(なごり)に 

高島屋歌碑

 岩室温泉の高島屋の庭に良寛歌碑がある。平成5年高島哲男建碑。
【 碑面 】           【 通読 】
以波無呂能當難可能萬州遠   いはむろのたなかのまつを
氣布見礼者之久礼安面耳    けふ見ればしぐれのあめに
奴礼都ヽ堂天利 沙門良寛   ぬれつつたてり 沙門良寛

海雲寺歌碑

 越後七浦シーサイドラインの間瀬の浦歌碑の反対側の高台にある曹洞宗海雲寺駐車場に歌碑がある。平成6年高山憲一住職建碑。
【 碑面 】 【 通読 】
以尓之弊乃悲東能布美  いにしへの ひとのふみ
氣無布留美知者安礼   けむ ふるみちは あれ
耳氣流閑裳遊久悲騰   にけるかも ゆくひと
難之耳 沙門良寛書   なしに 沙門良寛書

堀越家詩碑

白鳥の堀越家に良寛詩碑がある。平成15年堀越輿志男建碑。
【 碑面 】
今日乞食逢驟雨 暫時回避古祠中
可笑一嚢一鉢 生涯蕭灑破家風

福井の歌碑

 旧巻町(現新潟市西蒲区)の福井と樋曽の間に矢垂(やだれ)橋の良寛歌碑がある。昭和35年11月福井青年団建碑。書は原田勘平。国道460号線から、福井の集落の中で南に行く旧庄屋佐藤家に向かう道路に入り、佐藤家の前を過ぎてしばらく行くと田んぼの中に良寛歌碑がある。昔、矢川は蛇行して福井のあたりまで流れており、そこに架かっていた橋を矢垂橋といった。今は耕地整備により矢川も矢垂橋もないが、かつての矢川の川跡に碑が建っている。
【 碑面 】
福井なる 矢垂の橋に きてみれば 
雨は降れとも 日ハ照れゝとも   良寛

十大願文碑

 

 越後線巻駅に近い巻神社前の曹洞宗千仏寺(電話0256-72-3048)に十大願文碑がある。
昭和59年巻町良寛会建碑。
【 碑面 】      【 通読 】
 南無大悲観世音   南無大悲観世音(なむだいひかんぜおん)
 願我速知一切法   願わくは我をして速やかに知一切の法を知らしめたまへ  
 願我早得智慧眼   願わくは我をして早く智慧の眼を得しめたまへ
 願我速度一切衆   願わくは我をして速やかに一切の衆を度(ど)せしたまへ
 願我早得善方便   願わくは我をして早く善方便を得しめたまへ
 願我速乗般若船   願わくは我をして速やかに般若の船に乗らしめたまへ
 願我早得越苦海   願わくは我をして早く苦海(くがい)を越ゆるを得しめたまへ
 願我速得戒定道   願わくは我をして速やかに戒定の道を得しめたまへ
 願我早登涅槃山   願わくは我をして早く涅槃(ねはん)の山に登らしめたまへ
 願我速会無為舎   願わくは我をして速やかに無為の舎に会(え)せしめたまへ
 願我早同法性身   願わくは我をして早く法性(ほっしょう)の身に同ぜしめたまへ
 汝等応依之修行之 良寛    汝等まさに之に依って之を修行すべし 良寛
【 碑陰 】
 この観世音十大願は巻町松屋薬店を度々訪れた良寛、番頭某の出家に際し書き与えたものである。松屋の主人笛木氏は元千仏堂の世話方だったので、良寛ともども、ここに詣でたと思われる。原本は現在巻町長沼和男氏の所蔵となっており、本会の発足を機に使用を快諾され、これを抜萃して碑とした。良寛敬慕の念が、更に深まり高まってゆくことを期待する。 昭和五十九年十月 町 良 寛 会  
                                右撰書 巻 町 江端 一郎
                                碑 稿 内野町 渡辺 秀英
                                施 工 新潟市 石六石材店

角田浜歌碑

 角田浜の近くに角田浜歌碑がある。角田に托鉢に来た良寛は長谷川家に宿し、先祖及び二代夫婦の法名を書き残している。
 歌は文政12年(1829)与板の由之を良寛が訪ね、兄弟で唱和した歌巻にある。寺泊の照明寺あたりから角田浜沖を望んでの夜景であろう。昭和62年、長谷川次郎建碑。
【 碑面 】           【 通読 】
古能万餘里 可久堂能於起遠   木の間より 角田の沖を
見和堂勢者 阿末能多久悲能   見渡せば 海女の焚く火の
於幾耳奈美ゝ由         沖に並み見ゆ

法華転碑

 仁箇に角田山頂の観世音を遙拝するための向陽観音遙拝里見堂があり、その前に法華転碑がある。碑文は法華転の中も観世音菩薩普門の首句が「慣捨西方養土」の偈頌の最後の四句。昭和63年建碑。
【 碑面 】     【 通読 】
森森二十五大士   森森たる二十五大士(だいし)
特於此尊稱嗟頻   特に此の尊に於ひて稱嗟(しようさ)頻(しきり)なり
南無歸命観世音   南無 歸命(きみよう) 観世音
大喜大捨救世仁   大喜大捨したまへ 救世(ぐせ)の仁
【 訳 】
(文殊菩薩が選んだ)偉大な25人の菩薩たちは
特に観世音菩薩が救世の観音として選ばれたことには絶賛しきりであった
私は観世音菩薩に帰依します
他者を幸せにし差別を捨てて平等な心をお持ちの世を救われる観世音よ

万福寺(いろは 一二三)碑

 仁箇の万福寺に「いろは碑」と「一二三碑」(ひふみひ)がある。良寛に大きな影響を与えた大而宗龍の師であった悦巖素忻が万福寺九世であった。山賀家に伝わる逸話では、「誰でも読める字を…」と家人に頼まれて即座に書いたと言われている。
昭和55年、万福寺二十七世服部泰舟建碑。
説明碑には、次の歌が刻されている。
【 説明碑面の歌 】
松野尾の 葉広の椿 椿見に
いつか行かなむ その椿見に

仙城院良寛詩歌碑

 松野尾の仙城院に良寛の詩碑と歌碑がある。平成4年建碑。
 仙城院は約三百年来の真言宗智山派の名刹で、良寛はじめ多くの文人が来遊した。
【 漢詩碑面 】  【 漢詩通読 】
吾来此地九月初  吾此の地に来(きた)る九月の初め
長天鴈啼菊花開  長天鴈啼き菊花開く
老少相率散歩去  老少相率ゐて散歩し去(ゆ)けば
松林数里無塵埃  松林数里 塵埃(じんあい)無し
【 和歌碑面 】         【和歌通読 】
萬都能遠乃 者非呂能都波幾   松野尾の 葉広の椿 
川波幾美尓 意都閑遊可那武   椿見に いつか行かなむ 
所乃都波幾見尓 良寛      その椿見に 良寛