北区・江南区・秋葉区のゆかりの地

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太古山日長堂良寛上人伝碑 

 新崎駅(北区)の北側の住宅街の中に、太古山日長堂(名主の古山家の国登録有形文化財となっている邸宅の主屋)がある。その邸内には、明治28年古山静建碑の良寛上人伝碑があるほか、江戸期の文人碑も多くある。碑の撰文は小林敬甫、書は中林梧竹。
  太古山日長堂は公開されていない。見学を希望する場合は管理人に連絡をとる必要がある。
【通読】
 良寛上人は山本氏にして越後出雲崎の碑となり。世々豪族たり。家は橘を以て号となす。
 父は泰雄(たかお)といひ、通称は左門、のち伊織と改む。晩年薙髪(ちはつ)して以南と号す。皇典に通じ、和歌俳諧を善くす。嘗(かつ)て京師に到り、皇室の式微を慨(なげ)き、天真録を著し、悲憤して水に入りて死す。四男一女あり、皆学術徳行あり、上人はその長子なり。通称は栄蔵、幼にして頴異(えいい)流俗の事を好まず。長じて寡欲、意淡如たり。年はじめて十八、尼瀬光照寺玄乗和尚の徒弟となる。弟由之をして旧業を継がしめ、自ら髪を削(そ)りて良寛と称し、又大愚と号す。のち、備中玉島円通寺の国仙和尚に従ひ、その寺に服事すること数年、頗る浮屠氏(ふとし)の道を極む。既にして海内を歴遊し、二十余年すなはち還りて国上山の五合庵に住む。晩年その幽遠にして事に便ならざるを以て、居を山下の乙子祠(おとごし)の傍に移す。衲(のう)を被(き)て以て寒を禦(ふせ)ぎ、薄粥(はくじゅく)以て飢えを充たす。寒暑には家を出ず、春秋には村閭(そんりょ)に托鉢し、毎年以て常となす。上人年已に古希、島崎村の碑と木村某、その別舎を修め、以て上人を迎ふ。饗養数年、天保二年辛卯正月六日病を以て寂す。寿七十四、邑の隆泉寺に葬る。大愚良寛高首座と諡(おくりな)す。
 上人他の嗜好無し。参禅の暇、吟詠筆墨を以て遊戯となす。嘗て人に語りて曰(い)わく「貧道の好まざるところ三あり。詩人の詩、書家の書、包人の饌(せん)これなり」と。或る人曰わく「」上人之伝うべきもの、我その一二を知る」と。曰わく「その詩に三隠の韵致(いんち)あり、その書に張懐(ちょうかい)の逸体あり、その和歌に万葉の遺響あり。しかしてかの道徳深邃(しんすい)のごときは則ち我が徒の窺(うかが)ふ所にあらざるなり」と。生平奇行多く、常に児童を愛し、到る処児女を集め、草をば闘わし、迷蔵を捉え、欣々然として楽しむ。或る人問へば、これに答へて曰わく「吾はその真にして偽りなきを愛するのみ」と。人、衣服を贈り、銭財を施せば、皆辞せずしてこれを受く。充ちに凍餓の者に遭へば、輙(すなわ)ち衣を脱して以て之に与ふ。曾(かつ)て一民家に抵(あた)りて食を乞ふ。会(たまたま)其の家、物を失ふ。上人を見るに頭髪蝟毛(いもう)の如く越獄の人に似たり。以て盗となすや、乃ち縛執(ばくしゅう)して将(まさ)に土を掘りてこれを埋めんとするも、頭を低(た)れて言無し。偶(たまたま)上人を識る者あり、来たり愕(おどろ)きて曰わく「此れ高僧良寛上人なり」と。村民即ちこれを釈(ゆる)す。その人曰わく「師、なんぞ其の冤(えん)を弁ぜざる」と。上人曰わく「業(すで)に已(すで)に此に至る。弁ずと雖も免れざらん」と。
 菴(あん)中一擂醤瓦盆(みそすりばち)を蔵す。すでに擂醤(みそすり)畢(おわ)れば、又用いて手足を洗ふ。箏(たけのこ)ありて床下に生じて伸ぶるを得ざれば、乃ち床を撤して屋を毀(こぼ)ち、箏を養ひて竹となし、其の下に吟哦す。人、その書を索(もと)むれども(う)獲べからず。唯児女毬戯してこれを乞へば、輙(すなわ)ち書す。
 平生好みて論語を読む。曾て鈴木文台翁に問ふに論語中の事を以てす。翁曰わく「某事は某氏の註に出づ。師未だ読まざるか」と。上人曰わく「吾、註を読むを欲せず。或いは却って疑を生ぜん」と。
 人あり、上人に就いて和歌を学ばんと欲し教えを乞う。上人曰わく「須(すべから)く万葉集を読むべし」と。その人曰わく「万葉集は詞(ことば)古く、解し難し」と。上人曰わく「唯汝の解する所の詞を以て汝の思う所の事を述ぶれば足る」と。
 亀田鵬斎(ぼうさい)北遊上人の書を見て神品となす。往きて其の居を訪ふ。適(たまたま)その座禅するに会ふ。侍座すること半日、上人その俗士に非ざるを知り、乃ち欵晤(かんご)す。後(のち)鵬斎人に語りて曰わく「吾、良寛に遇ひて草書の妙を悟り、我が書これより一格を長ず」と。
 上人嘗て江戸に到り鵬斎を訪ひ、門に踵(いた)りて見(まみ)えんことを請う。会(たまたま)、鵬斎経を講ず。その門人、上人を見るに、敝衲(へいのう)破笠(はりゅう)乞丐(きっかい)の如し。謁を通ぜずして叱して之を去らしむ。講畢(おわ)り、鵬斎之を聞きて曰わく「これ必ず越後の高僧良寛なり」と。門生をして之を追はしめしも及ばざりき。
 鵬斎嘗て人に語りて曰わく「北越の良寛は、瀟洒(しょうしゃ)無為にして喜撰(きせん)以後の一人なり」と。上人もまた詩あり曰わく「鵬斎は倜儻(てきとう)の士なり」と。蓋(けだ)しその契合(けいごう)知るべきなり。
 上人易簀(えきさく)前数日、粟生津村の某来訪す。上人曰わく「往年擔(たん)を子が家に弛(と)きたり。尚記(しるす)や否や」と。某還りて一篋(きょう)を得、之を開けば三十金を貯へたり。始めて其の後事に備ふるを知り、乃ち此を用(も)つて葬事を営めり」といふ
 明治二十有八年九月
            遂斎 小林敬甫 撰
            梧竹 中林隆經 書
            誠庵 古山 静 立

五十嵐家句碑(たくほどハ…)  
 JR白新線に並行する新井郷川左岸道路沿いの新井郷集落(北区)の五十嵐家には句碑(たくほどハ…)がある。昭和55年五十嵐清建碑。揮毫は渡辺秀英。
【碑面】                   【通読】                  
良寛上人の句     良寛上人の句               
堂久ほ登ハ      たくほどは  
か世閑 毛転久流   かぜがもてくる       
於知波可那 秀英可九 おちばかな 秀英かく

東陽寺の詩碑

 曹洞宗「虎獄山東陽寺」は、江南区の阿賀野川の河口からおよそ10㎞上流の左岸にある。本堂前に樹齢400年と推定される「不老松」がある。詩碑は昭和50年、東陽寺檀徒一同により建碑。
【碑面】           【通読】                                        
 渡唐天神         渡唐(ととう)の天神(てんじん)                   
誰氏丹青摸出来    誰氏(すいし)の丹青ぞ 摸出(もしゆつ)し来(きた)るは
梅花面目松精神    梅花の面目 松の精神                             
唐土衣冠也相宜    唐土の衣冠(いかん) 也(ま)た相宜(あいよろ)し      
因知無刹不現身    因りて知る 刹(せつ)として身を現ぜざる無きを      
【訳】
 唐の国に渡った天神様
誰がこの絵を描き出したものだろうか
梅の芳しい気品と、松の稟とした精神が表われている
唐風の衣冠も結構なものだ
このことから、天神がこの世界に現れないところはないということがわかる

北方文化博物館

 江南区沢海に大地主伊藤家の本邸を利用した北方文化博物館がある。良寛の遺墨をはじめ多数の美術品や歴史資料を収蔵している。5月には藤がみごとに咲く。

宗賢寺
良寛の師匠の一人であった大而宗龍が明和八年(一七七一)第十世となった寺。宗龍は翌年住職を後住に譲る。安永六年(一七七七)十月に飛騨から帰国した宗龍は、宗賢寺で授戒会・安居を行った。

斎藤家ざくろ良寛歌碑
 JR信越線古津駅の北側(秋葉区中村)にある斎藤家の庭にある。斎藤家は六代当主が良寛と親交があった。昭和62年建碑。揮毫は新潟市の書家・中野松葉。
【碑面】
くれなゐの ななのたからを もろてもて 
おしいただきぬ ひとのたまもの

普談寺「天上大風」碑

 秋葉区朝日の普談寺にある。昭和60年建碑。鈴木文台の由来書も刻されている。

桂家別荘跡ざくろ良寛歌碑

 秋葉山の桂家別荘跡は庭園になっており、平成7年にざくろ碑が建碑された。ざくろの好きな良寛が桂家からもらったお礼の歌を送った。
【碑面】(晩年の書より採字)         【通読】                                
久禮那為能難々乃多可良遠   くれなゐの ななのたからを               
毛呂轉裳天          もろてもて                              
於之以堂々幾奴 比登能當萬  おしいただきぬ ひとのたま
毛乃 沙門良寛書        もの  沙門良寛書