円通寺時代

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円通寺での生活
 備中玉島の円通寺で良寛は朝早くからの厳しい修行に明け暮れしました。
 そんな頃の生活を詠んだ漢詩が二つあります。

円通寺に来たりて従(よ)り 幾回か冬春を経たる
門前 千家の邑(ゆう) 乃(すなわ)ち一人も識(し)らず
衣垢(あか)づけば手自(づか)ら濯(あら)ひ 食尽くれば城いん※(じょういん)に出づ
曽(かつ)て高僧伝を読むに 僧は可可(かなり)清貧なり                             ※「いん」という字は、「門がまえの中に、上が「西」下が「土」の字が入る文字」                          (訳文) 
円通寺に修行に来てから、もう何年かたった。
門前は賑やかな町並みだが、特別に親しくしてくれる人は(多くの同僚にはいるが自分には)いない
僧衣が汚れれば自分の手で洗い、食糧がなくなれば町へ托鉢に出かける
当時高僧の伝記を読んが、そこには高僧は清貧であった ことが記されていた

憶(おも)ふ円通に在(あ)りし時 恒(つね)に吾が道の孤(こ)なるを歎(たん)ぜしを
柴を運んでは ほう※公(ほうこう)を憶ひ 碓(うす)を踏んでは老盧(ろうろ)を思ふ
入室 敢へて後るるに非ず 朝参 常に徒に先んず
一たび席を散じて自従(よ)り 悠悠(ゆうゆう)三十年
山海中州(ちゅうしゅう)を隔(へだ)てて 消息 人の伝(つた)ふる無し
恩に感じて終(つい)に涙有り 之(これ)を水の潺湲(せんかん)たるに寄せん
(訳文) 
円通寺にいた時を思い起こすと、常に私の生き方が孤立していることを悲しんだ。
柴を運んでは、ほう※蘊(ほううん)が日常の作務の中に悟道の機を見い出したことを考え、臼を踏みながら、六祖慧能(えのう)がひたすら作業をしていたことを考えた。
指導を受けるため師の部屋に入ることは誰にも後れず、朝の講義はいつも真っ先に受けた。
円通寺を離れてから、悠々と生きて三十年が過ぎた。
円通寺のあった玉島とは遠く離れ、誰からも円通寺の状況は伝わってこない。
円通寺で国仙和尚から受けた恩を思い出すと、つい涙がさらさら川のように流れる。             ※「ほう」の字は、「まだれ」の中に「龍」の字が入る文字

 天明三年(一七八三)、良寛が二十六歳のとき、母秀子が四十九歳で亡くなりました。
 ある程度修行が進んだ頃、国仙和尚から道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の提唱を受けたり、各地の高僧からも学ぶために諸国行脚にも出かけるようになりました。
 良寛に大きな影響を与えた高僧の一人に紫雲寺(越後)観音院の大而宗龍(だいにそうりゅう)がいます。

印可の偈
 円通寺で厳しい仏道修行を十年以上積んだ良寛は、三十三歳のときに、悟境が円熟し、修行が終了した証しとして、印可の偈を国仙和尚から授かりました。                                
 附良寛庵主     良寛庵主に附す
良也愚如道転寛  良也(や)愚の如(ごと)く道転(うたた)た寛(ひろ)し
騰騰任運得誰看  騰騰任運(とうとうにんうん)誰(たれ)を得て看(み)しめん
為附山形爛藤杖  為に附す山形(さんぎょう)爛藤(らんとう)の杖
到處壁間午睡閑  到る處(ところ)壁間午睡(ごすい)の閑なれ
(訳文)
良いぞ、まことに徹し、愚になりきっているお前の進む道はますます寛(ひろ)やかになってきた。
分別心を働かせず無心になって精一杯生き、その結果の運命には身を任せるというお前の学んだ生き方をほかの誰が身につけて見せてくれるだろうか、それができるのはお前だけだ。
その境地に達し、私の仏法を嗣いだことの証しとして先端に枝のある自然木の杖を授けよう。
この杖を持ってどこにでも行きなさい。そしてどこへ行こうとも、托鉢に出れば疲れ果てて民家の壁と壁の間で昼寝するくらいの厳しい修行で身につけた閑々地(かんかんち)の境地を保ち続けなさい。           

 翌年に国仙和尚が示寂した後、良寛は全てを捨てて円通寺を去り、まもなく故郷を目指しました。