親しい人々と橘屋の没落

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 出家・帰国 │ 五合庵定住 │ 親しい人々と橘屋の没落 │ 晩年 │

編集中です。お待ちください。

弟 香
末弟 宥澄
富取之則
原田鵲斎
三輪左一
有願
阿部定珍
解良叔問
大忍魯仙
大村光枝
亀田鵬斎
離別した妻への思い
弟由之への励ましと橘屋の滅亡                                     若者達との交流

弟 香   
 貞心尼は良寛の弟3男の香について次のように書いています。
「橘の香、字澹斎(たんさい)と号し、博学多才にして、京都にのぼり、禁中学師菅原長親(ながちか)卿の学館に勤め、学頭と成る。禁中の詩会に折々出られし事ありしとなり。されども壮年にして死去せしなり」
  寛政10年(1798)良寛41歳の年の3月27日、香は没し、東福寺に葬られました。享年32歳。円明院の過去帳には病死とありますが、巌田洲尾は、父以南と同じく桂川に身を投じたと記しています。

末弟 宥澄 
 良寛の末弟4男の宥澄は、奈良の長谷寺で修行した後、橘屋の菩提寺の円明院(えんみょういん)に入り、第十世住職となりました。
  寛政12年(1800)良寛43歳の年、弟宥澄(快慶)が没しました。享年31歳。宥澄が亡くなった頃、夢の中に弟が現れたという良寛の歌があります。

  兄弟(はらから)の阿闍梨(あざり)の身罷りしころ、夢に来て、法門のことなど語りて、覚めて
面影(おもかげ)の 夢に見(まみ)ゆる かとすれば さながら人の 世にこそありけれ

 相次いで弟が亡くなり、良寛の悲しみはいかばかりだったでしょう。

富取之則
 良寛が三峰館で学んでいた頃の、一番の親友が富取之則でした。勉学を競い合った秀才同士だったようです。之則は江戸に出て儒学を学んでいました。
 従来、之則は、文化9年(1812)良寛55歳の年に、亡くなったとされていましたが、「聞之則物故二首」という題の長詩を見ると、良寛が帰郷した時には、すでに亡くなっていたのではないかと思われます。良寛に之則の死を悼む歌があります。

  幼きときいと睦(むつ)まじく契(ちぎ)りたる人ありけり 田舎を住みわびて東(あずま)の方(かた)へ往にけり  こなたよりも彼方(かなた)よりも久しく音もせでありしが この度(たび)みまかりぬと聞きて
(睦まじく契りたる人…親しくした富取之則)
(東の方…江戸)
(音もせで…音信が途絶えて)
(みまかりぬ…亡くなった)

かくあらむ(と) かねて知りせば たまぼこの 道行き人(びと)に 言(こと)づてましを
(かくあらむ(と)…このように亡くなると)
(かねて…前もって)
(たまぼこの…枕詞)
(道行き人…江戸へ行く人)
(言づてましを…言葉を伝えてもらっただろうに)

この暮れの うら悲しきに 草枕 旅のいほりに 果てし君はや
(草枕…枕詞)
(旅のいほり…旅先の粗末な家)
(果てし君はや…亡くなった君であることよ(君…富取之則))

原田鵲斎
 五合庵に暮らす良寛を支援したり、詩歌のやりとりなどで交流した友人たちがたくさんいました。
 原田鵲斎(じゃくさい)は三峰館時代の学友で、真木山(まぎやま)(のち中島)に住んだ医師でした。良寛の5歳年少でした。
 寛政9年(1797)、鵲斎は五合庵に良寛を訪ねる詩を詠んでおり、良寛が越後に帰国した頃から、親しくしていたようです。良寛と原田鵲斎との間の唱和の詩歌がたくさんあります。
 かつて梅の花を友に楽しんだ原田鵲斎の、真木山の旧宅を訪ねた時の歌があります。

梅の花 折りてかざして いそのかみ 古(ふ)りにしことを しぬびつるかも
(いそのかみ…古りの枕詞) 
                   
  如月(きさらぎ)のとをかばかりに 飯乞(いいこ)ふとて真木山(まぎやま)てふ所に行きて 有則(ありのり)が元のいへを 訪ぬれば いまは野らとなりぬ 一木(ひとき)の梅の散りかかりたるを見て いにしへ思ひ 出でて詠める
その上(かみ)は 酒に浮けつる 梅の花 土に落ちけり いたづらにして
(上…昔)
(いたづらに…むなしく)
                                                   
  ふるさとに花を見て
何ごとも 移りのみ行く 世の中に 花は昔の 春に変わらず

 文化6年(1809)良寛52歳の年に、良寛は原田鵲斎宅でしばらく病臥し、「秋の野十二首」を詠みました。たいへんお世話になった鵲斎へのお礼に、次の長歌を作り、お歳暮に贈ったようです。
  年の果てに詠みて有則に贈る
  (有則…原田鵲斎)
野積(のづみ)のや  み寺の園の  梅の木を  根こじにせむと
あづさ弓  春のゆふべに    岩が根の  こごしき道を
踏みわけて  (たどりたどりに   しぬびつつ)   軒端(のきば)に立てば
人は見て  盗人(ぬすびと)なりと   (呼ばはれば  おのもおのもに)  
鐘をうち  鼓(つづみ)を鳴らし  あしびきの  山とよもして
集ひけり  しかしよりして    皆人(みなひと)に    花盗人と
呼ばはえし 君にはあれど     いつしかも  年も経ぬれば
葦(あし)の屋の  まろやがもとに  夜もすがら  八束の髭(ひげ)を
ひねりつつ おはすらむかも    このつきごろは
(み寺…西生寺)
(根こじ…根こそぎ)
(あづさ弓…枕詞)
(こごしき…ごつごつと険しい)
(あしびきの…枕詞)
(とよもして…鳴り響かせて)        
(しかしよりして…そのようなことがあってから)
(まろや…質素の家)
(夜もすがら…一晩中)
(八束の…長い)
        
 文政10年(1827)良寛70歳の年の2月16日に、原田鵲斎が65歳で亡くなりました。良寛は鵲斎の長男正貞と哀傷歌の唱和をしています。

在(い)ますとき 深くも匂ふ 梅の花 今年は色の うすくもあるかな (正貞)

何ごとも みな昔とぞ なりにける 花に涙を そそぐ今日かも (良寛)

三輪左一 
 三輪左一は与板の豪商大坂屋三輪家の五代多仲長旧(ながもと)の三男。家業の廻船問屋、商業に尽力し、大坂での米の取引で活躍しました。
 良寛とは、地蔵堂の大森子陽の学塾「三峰館」の学友でした。仏教に対する帰依も深く、良寛に禅を学ぶ法弟でもありました。文化4年(1907)良寛50歳の年の5月1日に亡くなりました。
 良寛は左一没後に、「左一の赴至る」と題した漢詩を詠んでいます。その中に、「我に参ずること二十年」という句があります。左一が良寛に参じて、修行を積んだ期間が20年とすると、良寛31歳の年、天明7年(1787)ということになります。この年、円通寺で修行中の良寛は、紫雲寺の観音院の安居に参加し、宗龍禅師寺と相見しているので、その頃に左一は良寛と会い、良寛に参じて、仏道を学ぶようになったものと思われます。
 良寛の仏道を唯一理解しており、後世に伝えてくれると期待した左一が、良寛より先に亡くなってしまいました。良寛の悲しみは非常に深いものがあったことでしょう。
 良寛の旋頭歌があります。
   左一がみまかりしころ                                        
この里に 往(ゆ)き来の人は さわにあれども さすたけの 君しまさねば 寂しかりけり
(さわに…多く)
(さすたけの…枕詞)
(まさねば…おられないので)
                                     
   またの春 若菜摘むとて                                    
あづさ弓 春野に出(い)でて 若菜(わかな)摘(つ)めども  さすたけの 君しまさねば 楽しくもなし
(あづさ弓…枕詞)
(さすたけの…枕詞)
(君…左一)
(まさねば…おられないので)
                                 
有願  
 有願(うがん)は良寛と同じく曹洞宗の僧侶で、白根(新潟市南区)の新飯田の円通庵に住んでいました。新飯田の中ノ口川沿いには桃の花のたくさんあり、良寛は次の歌を詠んでいます。

この里の 桃の盛りに 来て見れば 流れにうつる 花のくれなゐ 

 良寛の親しい法友であった有願も、文化5年(1808)良寛51歳の年に、71歳で亡くなりました。

  あひ知りし人のみまかりて またの春 ものへ行く道にて過ぎて見れば  住む人はなくて 花は庭に散り乱りてありければ
 (あひ知りし人…有願)
 (みまかりて…亡くなって)
 (ものへ…用事に)
思ほえず またこの庵(いお)に 来(き)にけらし ありし昔の 心ならひに 
(ありし…生きておられた)
(心ならひに…(慕わしい)心のつねとして)                                         

阿部定珍
 阿部定珍(さだよし)は渡部の庄屋で酒造業を営んでいました。良寛の21歳年少で、江戸に3年遊学し、和歌や詩文を好み、江戸の大村光枝と親しく交わりました。
 阿部家は五合庵や乙子神社草庵とは地理的に非常に近いこともあり、互いに往き来して、たくさんの歌を詠み交わしたりしました。また、食料や様々な品物を贈って、良寛の生活を支えました。良寛の阿部家へのお礼の手紙が、良寛の書簡の中では群を抜いて多くなっています。
 寛政12年(1800)良寛43歳頃、阿部家に来るときに、足に怪我をした良寛に、医者の世話をしたうえ、五合庵に帰るという良寛に、もう数日家で養生するように勧めたときの唱和の歌があります。

いま二日 三日も経(た)ちなば さすたけの 君が御(み)足も よく治らまし (定珍)
(さすたけの…君の枕詞)
                      
薬師(くすりし)の 言うも聞かずに 帰らくの 路(みち)は岩道 足の痛まむ (定珍)

ぬばたまの 今宵もここに 宿りなむ 君が御言(みこと)の 否みがたさに (良寬)
(ぬばたまの…宵の枕詞)

 同じ頃でしょうか。五合庵を訪れた阿部定珍が帰宅する際に,定珍と良寛が唱和した歌があります。定珍の身を案じて詠んだ良寛の次の歌はよく知られています。
暫(しばら)くは ここに留まらむ ひさかたの 後には月の 出(い)でむと思(も)えば (定珍)
(ひさかたの…月の枕言葉)
                   
月よみの 光を待ちて かへりませ 君が家路は 遠からなくに (良寛)
(月よみの…月の神様)

月よみの 光を待ちて かへりませ 山路は栗の いがの落つれば

心あらば 草の庵に 泊まりませ 苔の衣の いと狭くとも
(苔の衣…粗末な庵)
                           
 阿部定珍の家で酒をすすめられることも多かったのでしょう。そんな歌があります。

さすたけの 君がすすむる うま酒に われ酔ひにけり そのうま酒に
(さすたけの…君の枕詞)

  また勧め給まべりければ 杯(さかずき)を取りて
さすたけの 君がすすむる うま酒に さらにや飲まむ その立ち酒を

解良叔問
 解良叔問(しゅくもん)は当時の牧ヶ花村の庄屋を二十余年間務めました。良寛の理解者であり外護(げご)者でありました。良寛は解良叔問のために、法華経を筆写しています。
 良寛が解良叔問へ、庄屋の心得を説いて与えた歌があります。

領(し)ろしめす 民があしくば われからと 身をとがめてよ 民があしくば
(領ろしめす…領治する)

  この歌は解良家横巻にありますが、この歌と連記されていた歌が次の歌です。

わが袖は しとどに濡れぬ うつせみの うき世の中(の) ことを思ふに
(うつせみの…うき世の枕詞)
                      
大忍魯仙
 大忍(たいにん)魯仙(ろせん)は曹洞宗の僧侶で、良寛と漢詩を詠みあう友人でした。良寛の禅僧としての境地を高く評価したほか、押韻(おういN)や平仄(ひょうそく)といった規則に縛られない良寛の漢詩を弁護しました。
 文化8年(1811)良寛54歳の年、深谷の慶福寺の住職だった大忍魯仙は31歳の若さで亡くなってしまいました。三輪左一、有願、大忍魯仙と、相次いで知音をなくした良寛の悲しみはいかばかりだったことでしょう。

大村光枝 
 享和元年(1801)良寛が44歳の年、江戸の国学者大村光枝(みつえ)が五合庵を訪ねました。良寛は万葉集や国学について、大村光枝から大きな影響を受けました。二人が唱和した旋頭歌(せどうか)(五七七五七七の和歌)があります。
    庵(いお)に来て帰る人見送るとて                                    
   (人…大村光枝)
山かげの 槙(まき)の板屋に 雨も降り来(こ)ね 
さすたけの 君がしばしと 立ちどまるべく (良寛)
(槙…杉などの針葉樹)
(さすたけの…枕詞)
(しばしと…しばらくの間)
                   
忘れめや 杉の板屋に 一夜見し月
ひさかたの 塵なき影の 静けかりしは (光枝)
(ひさかたの…枕詞)

亀田鵬斎
 亀田鵬斎(ぼうさい)(1752~1826)は豪放磊落(らいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾には多くの旗本や御家人の子弟などが入門しました。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものでした。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていました。
 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布されました。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失いました。その後、塾を閉じ、50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流します。
 文化5年(1808)、妻佐慧が没しました。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れ、そのまま信州から越後、さらに佐渡を旅しました。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄いました。
 文化6年(1809)儒者、書家として有名な亀田鵬斎が越後に来遊し、燕の神保家に寄寓しました。
 文化7年(1810)佐渡に渡り、再び越後に戻りました。彼はこの間に、燕の神保子襄、新津の桂東吾、与板の新木周富、地蔵堂の中村権右衛門、国上の原田鵲斎、渡部の阿部定珍、牧ヶ花の解良叔問、出雲崎の京屋、敦賀屋などと親交を結んでいます。そして、これらの人々の多くは良寛の知己であり、外護者でしたから、亀田鵬斎は自然と良寛の名声を耳にし、国上山の五合庵に良寛を訪問しました。
 西郡久吾氏の『北越偉人 沙門良寛全伝』にあります。「鵬斎人に語りて曰く、吾良寛に遇ひて草書の妙を悟り、我が書此より一格を長ぜりと」、「北越良寛は瀟洒無為、喜撰以後の一人なりと」など。鵬斎と良寛の逸話は山ほどありますが、ほとんどは越後の良寛の学識の深さに、江戸の高名な儒者である鵬斎が兜を脱ぐという内容であり、その多くは越後人の身贔屓(みびいき)の創作でしょう。
 五合庵を訪れた鵬斎は良寛と意気投合したらしく、お互い相手のことを述べた漢詩があります。
 良寛は鵬斎と逢ったときのことを「有懐四首」という題の漢詩に詠っています。詩の中で、「鵬斎を才気があって志が大きくこだわらない人と評し、賑やかな町でばったり出会い、仲良く手を取りあって大笑いした」と言っています。
 鵬斎が60歳で江戸に戻ると、その書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求め、一日の潤筆料が五両を超えたといいます。
 江戸の著名な文人であった亀田鵬斎が良寛の書を高く評価したことから、良寛の書は越後でも評価されるようになりました。

離別した妻への思い 
 良寛が出奔する際に離別した妻は、その後実家である白根茨曽根(いばらそね)の関根小左衛門家に戻りました。女の子が生まれましたが幼くして亡くなったといわれています。おそらく再婚することなく、実家でひっそりと暮らしていたものと思われます。
 離別した妻は、寛政12年(1800)良寛43歳の年に没しました。享年不詳ですが、仮に良寛の2歳年下だと仮定すれば、41歳だったことになります。
 塩浦林也氏は『良寛の探究』の中で、次の歌はいずれも、離別した妻の姿を表していると解釈されています。

岩室の 田中の松を けふ見れば 時雨(しぐれ)の雨に 濡(ぬ)れつつ立てり

秋の野に 我が越え来れば 朝霧に 濡れつつ立てり 女郎花(おみなえし)の花

 良寛に『布留散東(ふるさと)』という名の61首の和歌を集めた自選歌集があります。この歌集は詩集『草堂集貫華(そうどうしゅうかんげ)』とほぼ同じ時期に、同じ目的で良寛によって作られました。
 文化7年(1810)良寛53歳の時に、弟由之(ゆうし)が訴訟に敗れ、出雲崎から追放されて橘屋が没落した後に、由之や妹たちを慰めることが目的で、良寛が55歳の頃に作った、いわば橘屋のレクイエムです。

秋の野に 我が越え来れば 朝霧に 濡れつつ立てり 女郎花(おみなえし)の花

 この歌は、良寛が43歳の頃、離別した妻は白根茨曽根(いばらそね)の実家で一人寂しく亡くなった後、52歳の頃、良寛が原田鵲斎(じゃくさい)宅で病臥していたときに、詠んだ「秋の野十二首」の筆頭の歌ですが、亡くなったかつての妻への想いを詠ったものであったに違いないと私は思います。
 「秋の野十二首」の連作の中には、次の歌など小牡鹿(さおしか)を詠んだ歌が三首もあります。

秋萩の 散りの乱(まが)ひに 小牡鹿(さおしか)の 声の限りを 振り立てて鳴く

 万葉集では女郎花(おみなえし)は女性を、そして萩の花は牡鹿の花妻を表します。良寛は薄倖だった妻を失って悲しむ自分の姿を、いなくなった牝鹿を求めて哀しげに鳴く小牡鹿(さおしか)に象徴させているのではないでしょうか。
 ちなみに、「秋の野十二首」は次のとおり。

1  秋の野に 我が越え来れば 朝霧に 濡れつつ立てり 女郎花(おみなえし)の花

2  振り延(は)へて わが来(こ)しものを 朝霧の 立ちな隠しそ 秋萩の花 
(振り延へて… わざわざ)     

3  この岡の 秋萩すすき 手折(たお)りもて 三世の仏に いざ手(た)向けてむ

4 秋の野の 草葉(くさば)に置ける 白露を 玉に貫(ぬ)かむと 取れば散りけり

5 秋萩の 散りの乱(まが)ひに 小牡鹿(さおしか)の 声の限りを 振り立てて鳴く
(乱ひに…交じって)

6 秋萩の 散りか過ぎなば 小牡鹿は 臥所(ふしど)荒れぬと 思ふらむかも
(臥所…寝床)

7 秋の野の 百草(ももくさ)ながら 手折(たお)りなむ 今日の一日(ひとひ)は 暮(く)れば暮るとも

8 百草の 花の盛りは あるらめど 下降(したくだ)ち行く 我ぞ羨(とも)しき
(下降ち…老いて)
(羨しき…うらめしい)               

9 秋の野の 美草(みくさ)刈り敷き ひさかたの 今宵(こよい)の月を 深(ふ)くるまで見む
(ひさかたの…枕詞)

10 秋の野の 尾花に交(まじ)る 女郎花(おみなえし)  今宵(こよい)の月に 移しても見む
(移しても見む…染めてみたい)

11 秋の野に うらぶれをれば 小牡鹿(さおしか)の 妻呼び立てて 来(き)鳴き響(とよ)もす
(うらぶれをれば…悲しみに沈んでいると)
(響もす…ひびかせる)

12 たまぼこの 路(みち)惑(まど)ふまで 秋萩は 咲きにけるかも 見る人なしに
(たまぼこの…枕詞)

 良寛の離別した妻の実家には、「梓弓(あずさゆみ)」という名の良寛の歌集があったといいます。梓弓という名前は、楠木正行が如意輪寺で、過去帳に自分の名前を書いてから、最後の戦に出陣する直前に、寺の堂の扉に鏃(やじり)で書いた辞世

帰らじと かねて思へば 梓弓 亡き数に入る 名をぞ留むる

を連想させます。この辞世で、梓弓は、弓を射(い)ることから「入る」に掛かる枕詞として使われており、深い意味はありませんが、弓から放った矢は戻ることはないということも念頭にあったのでしょう。良寛が離別した亡き妻の実家に贈ったと思われる歌集の題を「梓弓」としたことについては、放たれた矢と同じように、一度離別してから元に戻ることがなかったこと、そして良寛の胸が張り裂けるほどの思いから、「梓弓」と名付けたのではないでしょうか。
 また、梓巫女(みこ)は梓弓の弦(つる)を打ち鳴らして、死者の霊を呼び寄せるといいます。良寛は今は亡き離別した妻を供養する歌集の題を「梓弓」とすることで、亡き妻を呼び寄せて語りかけたかったのでしょうか。
 萬羽啓吾氏の『良寛 文人の書』(新典社 平成19年(2007))に掲載された歌集「梓弓」題字の写真の梓弓という文字を見ると、良寛の沈痛な思いが伝わってくるようです。残念ながら、歌集は題字の書かれた表紙のみで、そこにどのような歌が書かれていたのかは、現在では不明です。私は「秋の野十二首」及び、岩室の田中の松の木の歌などが書かれていたのではないかと想像しています。

弟由之への励ましと橘屋の滅亡  
 良寛が帰国して五合庵に定住し、末妹の みか が浄玄寺に嫁いだ頃、良寛 41歳頃でしょうか、兄弟の間で次のような遊女問答歌があります。
  浮かれ女(め)とはじきてふものし給へると聞きて
墨染めの 衣着ながら 浮かれ女(め)と うかうか遊ぶ 君が心は (由之)
(うかうか…うっかり軽率に)
  返し
うかうかと 浮き世を渡る 身にしあれば よしや言ふとも 人は浮き世女(め) (良寛)
(うかうかと…ぼんやりと)
(よしや…よくないと)
  また問ふ
うかうかと 渡るもよしや 世の中は 来(こ)ぬ世のことを 何(なん)と思はむ  (由之)
   返し
この世さへ うからうからと 渡る身は 来(こ)ぬ世のことを  なに思ふらむ (良寛)
(うからうからと…のんびりと)
        
 由之は名主としての世間体を気にして、遊女とおはじきをして遊ぶ兄良寛を戒めた歌を詠みましが、良寛は意に介しません。良寛にとって、遊女とおはじきをするのは、世間から虐げられている彼女たちなぐさめて救う菩薩行だったのです。
 文化2年(1805)良寛48歳の年、橘屋が住民に過剰な負担を求めたという事案について、前々から代官所に訴えられトラブルとなっていましたが。ついに出雲崎の住民が橘屋(由之)を水原奉行所に訴え出ました。
 このころ、訴訟騒動のストレスからか、由之は酒と女にすさんだ生活をしていたらしく、家族から諫めてほしいと頼まれた良寛は、橘屋の座敷に座って、一言も発しないで、かつて詠んだ次の歌だけを詠み上げたといいます。

来てみれば 我がふるさとは 荒れにけり 庭も籬(まがき)も 落葉のみして  

 この歌は帰国後の不定住時代に、一時住んだ乙子社草庵に2~3年ぶりに諸国行脚の長旅から戻ったときに詠んだ歌と思われます。かつて詠んだこの歌を、自分の代わりに名主となり苦労している弟由之に与え、良寛が名主の責務を果たさなかったことが橘屋の衰運の一因であったことを暗に認め、弟由之をやさしく励ましたのです。
 また、良寛は由之に大酒と飽淫は命を切る斧のようなもの、決して過ごしてはならないという内容の手紙(人は三十、四十を越へては衰へ行くものなれば、随分御養生遊ばさるべく候…)も出しています。
 文化4年(1807)良寛50歳の年、良寛は中山の西照坊に仮住していました。おそらく実家の近くに移り住み、訴訟騒動で揺れていた橘屋の一族を見守るためであったでしょう。
 また、この頃でしょうか、由之の長男・馬之助も放蕩のうわさが高くなりました。心配した家族は良寛に説教してもらうように頼みました。生家橘屋に出かけた良寛は、いざ何か言おうとすると言葉がでません。そのまま三日目になり、説教することもなく、いよいよ暇(いとま)を告げました。ワラジを履くときになって馬之助を呼び、ワラジの紐を結んでくれるうように頼みました。馬之助は不思議に思いながらも、ワラジの紐を結びにかかりました。良寛はだまったまま、じっと甥の顔を見守っていました。その頬には涙が伝わっていました。良寛の涙に気づいた馬之助は、その後生活が改まったといいます。
 同じ頃と思われる良寛の歌があります。

   ふるさとの人の山吹の花見に来むと言ひおこせたりけり 盛りには待てども来ず 散りかたになりて
(ふるさとの人…橘屋の主である由之)
(来む…行こう)
(言ひおこせたり…言って寄こした)
(散りかた…ちり頃)
山吹の 花の盛りは 過ぎにけり ふるさと人(びと)を 待つとせしまに
(待つとせしまに…待っていた間に)  
                                            
 由之は良寛に山吹の花見に行こうと言っていたが、訴訟騒動の渦中にいたためか、約束を果たせなかったのです。
 文化7年(1810)良寛53歳の年の11月、ついに裁判の判決が出ました。由之は橘屋の家財没収のうえ、所払い(追放処分)という内容で、橘屋の完全な敗訴でした。
 由之は判決が出た後、尼瀬の隣の石地に隠れ住みました。その石地に向かうとき、橘屋は没落したのに、なお由之は「またきっと出雲崎に戻ってくる」とリベンジを誓いながら去って行ったのでしょう。その姿があまりにも痛々しかったのか、良寛は次の歌を詠みました。

越の海 人を見る目は 尽きなくに また帰り来(こ)むと 言ひし君はも
(見る目…海松藻(みるめ)の掛詞)
         
 良寛の自筆歌稿『布留散東(ふるさと)』は、文化9年(1812)に、没落した橘屋の一族のための鎮魂歌として作成されました。次の歌からが、歌集の後半で、表面的には良寛の友人などとの交流を歌っていても、歌の深層にあるテーマは、「生家橘屋の滅び」です。

  由之を夢に見て
いずくより 夜の夢路を たどり来(こ)し み山はいまだ 雪の深きに  

 名門橘屋を消滅させてしまった由之の無念はいかばかりかと、その身を案ずるあまり、文化8年(1811)の初春、良寛は由之を夢に見ました。
 また、良寛は石地に身を隠した由之に次の連作歌「たらちね三首」と「奥墓所(おくつきどころ)三首」を贈りまし。

    この頃出雲崎にて  (良寛五十四歳 由之宛手紙)
① たらちねの 母が形見と 朝夕に 佐渡の島辺を うち見つるかも
② 往古(いにしえ)に 変わらぬものは 荒磯海(ありそみ)と 向かひに見ゆる 佐渡の島なり
③ 草の庵(いお)に 足さし伸べて 小山田(おやまだ)の 蛙(かわづ)の声を 聞かくしよしも
(よしも…楽しい)
                                       
 ①の歌の、佐渡は母の故郷です。塩浦林也氏は『良寛の探究』の中で、この歌は一家を支えていた母秀子が、佐渡の島べを見やることだけが、心の重苦しさから解放されるひとときであった、そのことを踏まえた歌であると解釈されています。
 良寛と由之の兄弟ならば、佐渡を眺めていた母の姿をともに知っている。苦しみに耐えて佐渡を見ていた母の姿を思い出して、お互いにがんばろうと由之を励ます歌でしょう。
 ②の歌は、荒磯海と佐渡の島以外は変わったということ、すなわち橘屋が消滅したことを念頭に置きつつ、二人の兄弟にとって、荒磯海=父と、佐渡の島=母の、共通の思い出は変わらずに残っているということを詠んだもので、橘屋が衰退していく中、荒々しく必死に生きた父の姿と、やさしいながらもじっと苦労に耐えて頑張り続けた母の姿は、二人の兄弟にとって忘れることのできない思い出ではないか。その姿を思い出して、お互いがんばろうと由之を励ましている和歌であると思われます。
 ③の歌は、良寛が自分の騰騰任運、優游たる草庵での生活を詠んだものです。故郷(こきょう)出雲崎に執着し、リベンジと復活を望んでいる由之に対して、現世での栄華の夢など捨てて、大村光枝から学んだ和歌や国学の道に進むなど、自分と同じように草の庵で隠栖して、余生をゆったりと過ごしたらどうか、と誘いかけている和歌であると思われます。
 さらに次の「奥墓所(おくつきどころ)三首」も由之に贈っています。

① あしひきの 青山越えて 我が来れば 雉子(きぎす)鳴くなり その山もとに 
② 花は散り 問ふ人もなし 今よりは 八重葎(むぐら)のみ 這(は)ひ茂るらむ

③ 沖つ風 いたくな吹きそ  雲の浦は わがたらちねの 奥つ城(き)どころ
(いたくな吹きそ…ひどく吹かないでおくれ)
(雲の浦…出雲崎の海岸)
(たらちね…父母)
(奥つ城…墓)

 ①高橋庄次氏の『良寛伝記考説』によれば、雉子(きぎす)がほろほろ・ほろろと鳴く声は、行基の古歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」など、伝統的に父母を思い起こすとされているといいます。
 そうすると、この歌は、桜の散った(橘屋の栄華が終わって)新緑の山をこえてくると、雉子が鳴いて、父母と暮らした頃をなつかしく思い出されるという意でしょう。
 ②花は散り(橘屋の栄華が終わって)③の父母の墓地を訪ねる人もいなくなった、これからは雑草がすっかり覆ってしまうのだろうかという意でしょう。
 ③沖の風よ、強く吹かないでおくれ、出雲崎の浜辺近くには、父母が眠る墓があるのだからという意でしょう。

 文化8年(1811)の初夏、由之と良寛との間で次の歌のやりとりがあったようです。

  五月のころ 由之が方よりおこせる歌
わが宿の 軒(のき)の菖蒲(しょうぶ)を 八重葺(ふ)かば うき世のさがを けだし避(よ)きむかも
(さが…邪気)
(けだし避(よ)きむかも…もしかしたら避けられるだろうか)
  返し
八重葺(ふ)かば またも隙(ひま)をや 尋(と)めもせむ 御濯川(みすすぎがわ)へ 持ちて捨てませ
(八重葺かば…たくさんの菖蒲で邪気を払ったら)
(隙…心の隙間・不和)
(尋めもせむ…求めるだろう)
(御濯川…身を清める川)
       
 由之は、石地に隠れ住んでいる家の軒に、香りの強い菖蒲をたくさん吊せば、訴訟で敗れた不幸な境遇を、邪気同様に追い払うことができるだろうか、という歌を良寛に送りました。それに対して良寛の返歌は、菖蒲をたくさん吊して、今回の訴訟の敗北という邪気をたとえ払ったとしても、出雲崎への復活を画策して同じ争いを繰り返すだけだ。この際、橘屋の昔の栄華を取り戻そうというような欲はきれいさっぱりと捨ててしまいなさい、というようなものでした。

  詠みて由之につかはす
草の庵(いお)に 立ちても居ても すべのなき このごろ君が 見えぬと思(も)へば
(すべのなき…どうしよもない)  
                      
 訴訟に敗れ、家財没収・追放処分となり、石地に隠栖したせいか、由之が姿を見せなくなったので、居ても立ってもいられない思いでいる、というこの歌を由之に送って、由之のことを、橘屋のことを、本当に心配しているのだという気持ちを、良寛はこの歌で伝えたかったのでしょう。

  神無月(かんなづき)のころ 旅人の 蓑一つ着たるが 門に立ちて物乞ひければ 古着ぬぎて取らす  さてその夜 嵐のいと寒く吹きたれば
たが里に 旅寝しつらむ ぬばたまの 夜半(よわ)の嵐の うたて寒きに
(たが里に…どこの村里で)
(しつらむ…しているのだろうか)
(ぬばたまの…枕詞)
(夜半…夜中)
(うたて…ひどく)
                   
 神無月の頃、物を乞う旅人に、古着を脱いで与えた良寛は、嵐が寒く吹く夜になって、旅人の身を案じた歌を詠んでいます。蓑一つ着て立つ旅人の孤影には、追放された石地に身を隠した弟の由之の孤影が重なっています。
  年の果てに鏡を見て
  (年の果て…年末に)
白雪を よそにのみ見て 過ぐせしが まさにわが身に 積もりぬるかも 
(よそにのみ…直接関係がないと)
(積もりぬるかも…積もったように髪が白くなったなあ)
                                    
白雪は 降ればかつ消ぬ しかはあれど かしらに降れば 消えずぞありける
(かつ…一方では)
(しかはあれど…そうではあるが)
(かしら…頭)
                       
 年末に自分の頭を剃るために、鏡を見た良寛は、白髪が増えたことを見て、感慨深いものがあったのでしょう。弟の由之も苦労がたたったのか、白髪が増えたように思える。兄弟の老いと橘屋の没落、がオーバーラップしていたのでしょうか。
 『布留散東(ふるさと)』の最後の旋頭歌4首と和歌1首は、良寛の愛する家族への想いなどがたくさん込められた歌であり、この歌集の中で最も重要な役割を演じている歌です。

  岩室
岩室の 野中に立てる 一つ松の木 
けふ見れば 時雨(しぐれ)の雨に 濡れつつ立てり

 この歌集の目的が没落した橘屋への鎮魂、残された弟や妹たちを慰めることでありました。それを考えた場合、時雨(しぐれ)の雨に濡れつつ立っている松の姿は、敗訴による橘屋の消滅や由之の妻安(やす)(文化7年没)や妹たか(文化8年没)の死を悲しみ、茫然と立ちつくす由之の姿であり、突然の悲劇に言葉もなく涙を浮かべた妹たちの姿ということになります。
 特に由之の妻安と、由之の右腕であった町年寄高島伊八郎に嫁いだ妹たかは、橘屋の消滅に至る騒動に巻き込まれ、その心痛のあまり、あたかも橘屋に殉じたかのごとく、橘屋が滅亡する前後に相次いで没しているのです。

  やまたづ
やまたづの 向かひの岡に 小牡鹿(さおしか)立てり
かみなづき 時雨の雨に  濡れつつ立てり   
(やまたづの…枕詞)

 この旋頭歌の雨に濡れた小牡鹿は、橘屋の消滅や、妻安、妹たかの死を嘆き悲しみ、追放されて孤独に他郷を漂泊している由之の姿ということになります。
 弟の由之は、この歌に込めた良寛の真意を理解していました。自分の孤独と悲しみに共感して励ましてくれた兄良寛、そして孤独に耐えながら、冷たい世間という時雨の雨に濡れつつも、凜として立っていたのは、実は兄良寛であったということも。だからこそ、良寛の墓碑に刻む和歌として、由之が選んだ歌がこの旋頭歌でした。
  秋の野
秋の野の 千草押し並み 行くは誰(た)が子ぞ 
白露に 赤裳(あかも)の裾(すそ)の  濡れまくもをし 
(押し並み…押しなびかせて)
(をし…いとおしい)
                                                 
 秋の野とは冬の野の直前であり、滅びの予感がありまする。誰(た)が子は、橘屋の滅亡に殉じた由之の妻安(やす)や妹たかではなかったでしょうか。

  白雪
白雪は 幾重(いくえ)も積もれ 積もらねばとて 
たまぼこの 道踏み分けて 君が来なくに

  この歌の君は由之であり、追放されて石地に隠れ住んでいるのだから、たとえ雪が降らなくても、由之は来てはくれないという意味になります。

  鉢の子
鉢の子を 我が忘るれども 取る人はなし 取る人はなし 鉢の子あはれ  
 最後のこの歌は旋頭歌でもない独特な古代の歌謡のような形式です。「取る人はなし」を重ねて、取る人は誰もいないことを強調しています。歌集『布留散東(ふるさと)』の最後を飾る歌だけに、良寛の思いが凝縮された歌だと思います。
 大事な鉢の子とは、良寛と弟の由之や妹たちのふるさと橘屋であり、橘屋が消滅しても、誰も再建してくれる人はいないこと、すなわち、完全な滅亡であることを悲嘆した歌ということになります。 

 文化十年(一八一三)良寛56歳の年、良寛、由之、むら、みかの四人の兄弟姉妹が本覚院(ほんがくいん)に集りました。

  弥生の晦日(つごもり)の夜、はらから集ひて詠める
  (はらから…兄弟姉妹)
円居(まろい)して いざ明かしてむ あずさゆみ 春は今宵(こよい)を 限りと思へば
  本覚院に集ひて詠める
山吹の 花を手折(たお)りて 思ふ同士(どし) かざす春日は 暮れずともがな

 五合庵では手狭なため、本覚院に集まったものと思われます。
 おそらく、妹たかの一周忌の前に、兄弟姉妹が集まり、たかを犠牲にしたという痛恨の思いがあったはずの由之を、兄弟姉妹がみんなで励ますことが目的だったのでしょう。
 これらの橘屋が没落していった中で、詠まれた良寛の歌の数々は、孤独で悲嘆にくれる由之に寄り添い、自分の身代わりに名主になって苦労を重ねた由之を、励ますものでした。
 そしてその後も、良寛と由之の二人の兄弟は、お互いがよく相手を理解し尊重しあい、頻繁に和歌の唱和を行うなど、良寛が没するまで、実に仲睦まじく交流して過ごしています。

若者達との交流       
 良寛の人格と詩歌書のすばらしさは、徐々に越後の国中に知られるようになりました。そして、良寛を尊敬し慕う前途有望な若者たちが、五合庵に良寛を訪れるようになりました。

  巌田洲尾(いわたしゅうび)(1792~1816)は、新潟市の儒者、画家。巌田洲尾の『萍踪(ひょうそう)録』によると、文化9年(1812)に21歳の洲尾は五合庵を訪れましたが、留守だったので、自作の詩を残して帰りました。
 残暑のころに再び訪ねてようやく良寛に会えました。そのときのことを、「清談一日、改めて洗髄の意あり」と書いています。そのときのことを詠んだ良寛の詩があります。
 主人に贈る    
詩有り 若干首(じゃっかんしゅ)  
家貧しくして艸稿(そうこう)のみ  
我 之を書して洲尾(しゅうび)に贈らんと欲す
主人 我が為に筆紙(筆紙)を給せよ
 洲尾は良寛から詩稿『草堂集』を見せてもらい、百余首を抜き出して『雲山餘韻』と題して出版しようとしましたが、その前に亡くなってしまいました。文化13年(1816)信州松本で病死。享年25歳。

  鈴木文台(ぶんたい)(1796~1870)は、幕末の儒者、教育者。吉田町(現燕市)粟生津の人。良寛に心酔し、良寛の論評を多く書き残しました。
 文化10年(1813)、陳造(文台)の兄・隆造(桐軒)は医者で詩人でした。桐軒は良寛の詩集を刊行したいと考えていましたが、良寛は認めなかったようです。
 一方、18歳の陳造(文台)は、良寛に長文の漢詩を贈りました。その漢詩は良寛の詩稿「草堂集」を借りて読むことができて、驚喜しているという内容です。それに対して良寛は、陳造に漢詩と次の和歌を贈りました。そのあと陳造(文台)は良寛を訪れたことでしょう。

ひさかたの 雪踏み分けて 来ませ君 柴の庵に 一夜語らむ

 翌年の文化11年(1814)、陳造(文台)は17歳の解良栄忠と、江戸遊学に旅立ちました。年後の文化13年(1816)病気で帰国しました。陳造(文台)は帰国後兄隆造(桐軒)と図って、草堂集を刊行しようとし、序文まで書きましたが、未完に終わりました。良寛は生前、自身の詩集の刊行を許さなかったようです。
 草堂集の編集は隆造(桐軒)の子の順亭にも引き継がれましたが、出版には到りませんでした。順亭がまとめたテキストを中心にして出版されたのが、昭和34年(1959)の東郷豊治氏の『良寛全集』(東京創元社)です。
 帰国後、観照寺で子供たちに教えていた頃でしょうか、文台は太田芝山の講義を助けて、自ら論語や唐詩選を講じました。それを聞いた良寛は「この子は将来きっと大成するだろう」と言って賞賛しました。鈴木陳造(文台)は儒学の学塾長善館を天保4年(1833)に開きました。

 坂口文仲(1780~1846)は、新津市(現新潟市秋葉区)の医師で俳諧、詩歌、漢学を好みました。37歳の坂口文仲は、文化13年(1816)に、五合庵に59歳の良寛を訪ね、歌を詠み交わしています。

萩箸(はぎばし)と 世に伝えしを 茅萱(ちがや)箸 花をしみてか 枝をしみてか  (坂口文仲)

草の庵(いお) 何とがむらむ 茅萱(ちがや)箸 惜しむにあらず 花をも枝も (良寛) 

 坂口五峰氏の『北越詩話』によれば、酒を持参した坂口文仲に、良寛は野蔬を摘んで下物と為し、茅萱を剪って箸と為したといいます。家に帰ってから文仲は良寛を「にせ道人に過ぎん」と酷評したといいます。
 良寛は、来客にすり鉢で足を洗わせたり、墓地から拾ってきた欠けた茶碗でご飯をもったり、墓地に生えていた芹を摘んで料理したりすることなどがよくありました。この茅萱の箸(ススキの茎を切って作った箸)もその類いです。一見非常識に思われる応対であるが、良寛は日頃の清貧の生活そのままの姿で、接しているだけなのです。あるいは、貧富、浄穢の富や浄を志向する意識を捨て去るべきだという教えを行動で実践しているのかも知れません。
 おそらく文仲は、詩歌書に秀でた風雅な文人として、良寛を想像して訪問したのでしょう。そうしたところ、乙子神社に移転する直前の五合庵はかなり老朽化した庵であったと思われるうえに、五合庵の周りの野草を摘んだだけの料理に、茅萱の箸という粗末な対応に、大きなギャップを感じて、幻滅したのではないでしょうか。それで、「にせ道人に過ぎん」と言ったのでしょう。
 谷川敏朗氏は『良寛の逸話』の中で、「別に文仲と一緒に行った人の「良寛初対面の図」がある。それに文仲が識語を書いているから、「にせ道人」という評価は本心からではあるまい。」と述べています。
 他にも、井上桐麿などが良寛を訪ねています。