和歌・俳句

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

良寛の生涯 良寛の清貧の
生き方
良寛の慈愛の
こころ
良寛の宗教・思想 良寛の芸術
和歌・俳句 │漢詩 │ 

三芸に秀でた良寛

 燕市(旧吉田町)粟生津(あおうづ)に住んだ幕末の漢学者鈴木文台(ぶんたい)は、草堂集の序文の中で、良寛の仏道の徳の高さについては、言わずもがなであるとし、良寛の芸術について次のように述べて、詩・歌・書の三芸のいずれにも秀でていると高く評価しました。。
 「余嘗(かつ)て曰(いわ)く、師に必ず伝うべきもの三あり。而(しこう)して道徳は与(あず)からず。寒山(かんざん)・捨得(じっとく)の詩、懐素(かいそ)・高閑(こうかん)の書は、師みな兼ねて之を有す。而して加うるに和歌を以てして万葉の遺響を墜(おと)さず。余が此の言は、恐らく公言と謂(い)うべきなり。」

万葉調・良寛調

 良寛は円通寺時代から古今集、新古今集などの和歌を学びましたが、乙子神社草庵時代に、阿部定珍(さだよし)所蔵の『万葉和歌集校異』を熱心に読み、与板の三輪権平(ごんぺい)所蔵の、加藤千蔭(ちかげ)著『万葉集略解(りゃくげ)』を借りて、万葉集に注を書き入れるなど、独学で本格的に万葉集を学びました。 それ以降、良寛の歌は万葉調を帯び、さらに、平明で清澄な良寛調と言われる歌風を確立し、多くの歌人から高く評価されています。
 良寛の和歌を高く評価した歌人・文人たち。
  正岡子規、伊藤左千夫、島木赤彦、斉藤茂吉、土屋文明、佐々木信綱、与謝野晶子、相馬御風、会津八  一、吉野秀雄、上田三四二 など
 その和歌は漢詩・俳句とともに各種の「良寛全集」や「良寛詩歌集」として出版され、親しまれています。

日本三大歌人

 国文学の父ともいわれる久松潜一博士(東大・國學院大學教授)が、昭和三十六年(一九六一)十月、和歌文学界第七回大会のため、仙台へ旅行、東北大学において、同会の公開講演会で講演されました。演題は「和歌史における三歌人」。
 この講演の中で、久松先生は、日本の和歌史上の最もすぐれた三人の歌人を挙げられました。
 一人は「和歌の出発点として、もしくは歌謡と和歌との境にあり、集団的和歌と個性的和歌との境にある歌人」としての万葉の柿本人麻呂
 もう一人は「耽美的な和歌の極点にたつ歌人」としての新古今の藤原定家
 最後の一人は「人間的な和歌の極点にたつ歌人」としての良寛
 久松先生は著書の中で、良寛の人間性について次のように述べています。
 良寛は人間と芸術とが一体となった作家、言いかえれば人生歌人の代表と言える。その芸術も書と漢詩と和歌のそれぞれにすぐれている。それは、良寛の人間性が、自らその歌や漢詩や書の上に現れていると言ってよい。そこで良寛の研究には人間性の研究が重要になる。そうして良寛は坪内逍遙の『少年と良寛』で扱われているように無邪気な童心ということで知られているが、たしかにそういう面はある。しかしそれは良寛の一面に過ぎない。一方に孤独な、寂しい人間の面がある。或いはそういう孤独な寂しい人間であった所から出発して、次第に無邪気な童心に近い人間性を得てきたとも言える。物にとらわれない飄逸な人間が形成されてきたのである。彼の境涯を見てもその家の衰退から孤独なさびしい人生経験を積んでおり、それから来る憂鬱(ゆううつ)な人間性が次第に修行鍛錬によって飄逸(ひょういつ)なとらわれない人間になって来たと見たい。

良寛の歌のかずかず

 良寛は生涯で千四百首以上もの和歌を詠んでいます。

むらぎもの 心楽しも 春の日に                                    鳥のむれつつ 遊ぶを見れば                                          むらぎも…心の枕詞

飯乞(いひこ)ふと わが来(こ)しかども 春の野に                                   菫(すみれ)摘(つ)みつつ 時を経(へ)にけり                             飯乞ふ…僧侶が家々を回って読経し米や銭をもらうこと、托鉢

道の辺に 菫(すみれ)摘(つ)みつつ 鉢(はち)の子を                                   我(わ)が忘れてぞ来(こ)し 憐(あは)れ鉢の子                            鉢の子…僧が托鉢をするときに米や銭などを入れてもらう器

山かげの 岩間を伝ふ 苔(こけ)水の                                         かすかに我は すみわたるかも

青山の 木(こ)ぬれたちくき 時鳥(ほととぎす)                           鳴く声聞けば 春は過ぎけり                                           木ぬれたちくき…木の枝先の間をくぐって

さびしさに 草のいほりを 出て見れば                                         稲葉押しなみ 秋風ぞ吹く                                         押しなみ…押しなびかせて

いまよりは つぎて夜寒(よさむ)に なりぬらし                            綴(つづ)れ刺せてふ 虫の声する                                    綴れ刺せ…着物の破れをつくろえという虫の音

行く秋の あはれを誰に 語らまし                                   あかざこにれて 帰る夕ぐれ                                            こにれて…籠に入れて、または「こにして」…脇に(あかざの杖を)抱えて

わが宿を 訪ねて来ませ あしびきの                                         山のもみぢを 手折(たお)りがてらに

飯乞(いひこ)ふと 里にも出(い)でず このごろは                               時雨(しぐれ)の雨の 間なくし降れば                                      間なくし…絶え間なく

水(や)汲まむ 薪(たきぎ)や伐(こ)らむ 菜や摘まむ                        朝の時雨の 降らぬいとまに

いにしへを 思えば夢か うつつかも                                  夜は時雨の 雨を聞きつつ

やまたづの 向かひの岡に 小牡鹿(さおしか)立てり                          神無月(かんなづき) 時雨(しぐれ)の雨に 濡れつつ立てり(旋頭歌)                    やまたづの…向かひの枕詞  小牡鹿…男鹿

来てみれば わがふるさとは 荒れにけり 庭も籬(まがき)も 落ち葉のみして

夜もすがら 草のいほりに 我をれば                                        杉の葉しぬぎ 霰(あられ)降るなり                                   夜もすがら…一晩中 しぬぎ…押し分ける

この宮の 宮のみ坂ゆ 見渡せば                                    み雪降りけり 厳樫(いつかし)が上(え)に

風まぜに 雪は降りけり ゆふべより                                   吾が帰るさの 道もなきまで

雪の夜(よ)に 寝覚(ねざめ)めて聞けば 雁(かり)がねも                      天(あま)つみ空を なずみ行(ゆ)くらし                                 天つみ空…おおぞら なずみ…難渋しながら

淡(あは)雪の 中に立てたる 三千大千世界(みちおほち)                       またその中に 泡(あわ)雪ぞ降る                                    三千大千世界…須弥山を中心とした世界が小世界、その千倍が小千世界、その千倍が中千世界、その千倍が大千世界で、この小・中・大の三種を合わせたもの。

俳句

 良寛の父以南は「北越蕉風の棟梁」と呼ばれたほどの俳人でした。その血を引いた良寛は俳句を生涯で百句ほど詠んでいます。

焚くほどは 風がもて来る 落葉かな
盗人(ぬすびと)に とり残されし 窓の月
水の面(も)に あや織りみだる 春の雨
いでわれも 今日はまぢらむ 春の山        まぢらむ…分け入ろう
山里は 蛙(かはず)の声と なりにけり
青みたる なかに辛夷(こぶし)の 花ざかり
鶯(うぐひす)に 夢さまされし 朝げかな
散る桜 残る桜も 散る桜
人の皆 ねぶたき時の ぎゃうぎゃうし      ぎゃうぎゃうし…ヨシキリの異称
鉄鉢(てっぱつ)に 明日の米あり 夕涼み
手ぬぐひで 年をかくすや ぼんをどり
秋日和(びより) 千羽雀の 羽音かな
手を振って 泳いでゆくや 鰯(いわし)売り
柴焼(たい)て しぐれ聞(きく)夜(よ)と なりにけり
柴垣に 小鳥集まる 雪の朝
のっぽりと 師走(しはす)も知らず 弥彦山
雨の降る日はあはれなり 良寛坊
うら畑 埴生(はにふ)の垣の 破れから