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良寛が目指した理想の人間│慈愛の心│僧としての独自の生き方 |
慈愛の心
「忘己利他」とは伝教大師(最澄)の言葉です。「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」
仏教で慈悲とは…慈=抜苦、悲=与楽 (慈悲…一般的には、いつくしみあわれむこと、なさけ)
慈愛とは、慈しみ愛すること、愛とは自己犠牲を伴う利他の心です。
良寛は慈愛の心、究極の愛は「自己犠牲」と考えていました。その代表作は長歌の「月の兎」です。
小さな命への愛の心をもっていました。良寛の慈愛に満ちたやさしい心は、人間はもちろん動物や虫、植物といった小さな命までも大切にしました。
我宿の 草木にかくる 蜘蛛の糸 払わんとして かつは(すぐに)やめける
木村家の娘「かの」が嫁ぐにあたって、嫁の心得を書いてほしいと頼まれて、良寛が書いた戒語の中に、次の一条があります。
「上をうやまい 下をあはれみ 生(しょう)あるもの鳥けだものにいたるまで 情けをかくべき事」
有名な竹の子の逸話があります。竹の子が伸びたため、縁側の板を取り払った上、厠(かわや)の庇をろうそくで焼いて穴をあけようとしましたが、厠まで焼けてしまいました。。
雨に濡れている松の木を人に見立てて詠った和歌があります。
岩室の 田中に立てる 一つ松の木 今日見れば 時雨の雨に 濡れつつ立てり
一つ松 人にありせば 笠貸さましを 蓑着せましを 一つ松あはれ
相馬御風氏の『良寛百考』に逸話があります。「夏の夜に借り物の蚊帳をつっても、毎晩片足だけは蚊帳の外に出して寝たという。」蚊帳に入らないと全身が蚊に刺されて大変だが、蚊帳に入ってしまうと、蚊も血を吸って生きていくことができない。それでは、可哀想だということで、良寛は片足だけ、蚊帳から出して寝たのです。
文化元年1804年に疱瘡(ほうそう=天然痘)が流行し、親友原田有則が二人の幼子を亡くしたのをはじめとして、多くの子供たちが亡くなりました。翌年、良寛は子を亡くしたすべての親に代わって哀傷の歌を数首詠みました。
あづさゆみ(枕詞) 春を春とも 思ほえず 過ぎにし子らが ことを思へば
人の子の 遊ぶをみれば にはたずみ(枕詞) 流るる涙 とどめかねつも
病・老・貧者への慈愛の心を示す逸話があります。
○ 相馬御風氏の『良寛百考』にあります。
神無月の頃蓑一つ着たる人の門に立ちて物乞ひければ古きぬぬぎてとらせぬ、
其の夜嵐のいと寒く吹きたりければ、
いづこにか 旅ねしつらむ ぬば玉の 夜半(よわ)のあらしの うたて(ひどく)寒きに
○ 相馬御風氏の『良寛百考』にあります。元旦に解良叔門へあてた手紙です。
「これはあたりの人に候。夫は他国へ穴ほりに行きしが、如何に致し候やら去冬は帰らず、子供を多くもち候。子供また十より下なり。此春は村々を乞食してその日を送り候。何をあたへて渡世のたすけに致さんと思へども、貧窮の僧なれば致し方もなし。何なりとも少々このものに御与へ可被下候。 正月一日 良寛 」
この手紙により、解良叔問はこの母子に餅をたくさん与えました。そのことへの良寛のお礼の手紙も残っています。
盗人への慈愛の心を示す逸話があります。
○ 大島花束氏の『良寛全集』にあります。「乙子社のほとりに庵をかまえて居た頃の話、小盗人が入ったことがある。何一つないからっぽの庵、うろうろしている盗人よりこれを見ている良寛の方が気の毒でならない。泥棒の手が良寛の着ている垢じみて古い布子にかかった時、良寛は知られないよう寝返りを打って、その布子をとらせた。泥棒の後ろ姿を見送っていると月は淡く中天にかかって居た。
盗人に とり残されし 窓の月 とこう思わず口吟んだ。」
差別されていた農民、庶民への慈愛の心を示す歌がたくさんあります。
良寛は人が人を差別することがもっとも悲しいことであると考えていました。特に江戸時代の徳川幕藩体制下の武士が農民、町人、非人を差別し、搾取していたことに対して強い憤りを感じ、差別されていた貧しい人々に対して深い慈愛の心を注ぎ続けました。
○ 良寛の歌に、旱魃(かんばつ)や長雨・洪水などの自然災害や、火災に苦しむ庶民を気遣って心配する歌があります。
秋の雨の 日に日に降るに あしびきの 山田の小父(をぢ)は 奥手刈るらむ
○ 良寛の歌に、文政十一年(一八二八)十二月に起きた三条地震に苦しむ人への思いをはせた歌などがあります。
かにかくに 止まらぬものは 涙なり 人の見る目も 忍ぶばかりに
○ 良寛に差別を憎む次の歌があります。
如何なるが 苦しきものと 問うならば 人をへだつる(差別する) 心とこたへよ
○ 良寛に世間の貧しい人々を救いたいという思いを述べた歌があります。
墨染めの わが衣手の ゆた(広くゆったりしている)ならば うき世の民に 覆はましもの
○ 良寛が解良叔問へ、庄屋の心得を説いて与えた歌があります。
領(し)ろしめす(領治する) 民があしくば われからと 身をとがめてよ 民があしくば
この歌は解良家横巻にあるが、この歌と連記されていた歌が次の歌です。
わが袖は しとどに(びっしょりと)濡れぬ うつせみの うき世の中(の) ことを思ふに
良寛は農民の醇朴さを愛し、護りたいとの思いを持っていました。良寛は農民の素朴さ、醇朴さをこよなく愛しました。あたかも真にして仮なき純真な子供たちを愛したように。徳川幕藩体制下の差別・搾取された農民には名利など望むべくもなく、ただ、平穏に家族が暮らせることだけを願っていたのでした。良寛はそうした農民とよく一緒に酒を酌み交わしたりもしました。こうした良寛に農民の醇朴さ、平穏な暮らしを護りたいという思いを歌った漢詩がいくつかあります。その一つの訳を掲げます。
草むらでは虫がにぎやかに鳴き、炊事の煙から近所の家がわかる
このあたりは町の中とは違い 夜回りが拍子木を打って、しばしば時刻をしらせるということもない
柴を焼(た)いて紙燭の代わりとし、来春に使うためのむしろを織る
家族が集まって団欒する、そこには偽りだとか真実だとかいうこともない(ただ、これが本来あるがままの姿なのだ)
教養のある人達(お役人)に申し上げたい、農村に来てこの農民の醇朴さを無くさないでほしい(過酷な年貢の取り立てで、農民の平和な暮らしを奪わないでほしい)
この詩について、宮栄二氏は『良寛のふるさと』の中で、次のように述べています。「役人ばかりでない。名士や教育者たちがこの平和の里にやってきて、郷民の純朴さをみだしてはならぬ、というのである。ここには武士、役人の権力者層およびその使徒たる学者、道士たちと、草莽の民との間に大きく立ちはだかっている良寛の姿を見る。偉大な抵抗精神といわねばならない。」