求めない生き方

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清貧の生活

 良寛は裕福な生活がしたくてもできずに、結果として貧乏な生活しかできなかったのでは決してなく、名主の長男であったことから、裕福な生活を求めれば得られたにもかかわらず、清貧の生活をよしとして、自らの意志でその生活を選んだのです。
 印可を受けた良寛は、一定の手続きさえ履(ふ)めば、住職となって寺に住み、檀家からの布施で安定した生活を送ることができました。しかし良寛は、その生活を自ら放棄し、家々を托鉢して食を乞うという、困難な清貧の生活をあえて選んだのです。
 究極の清貧生活でありながら、坐禅と托鉢という修行に打ち込み、すばらしい和歌、漢詩、書を創作し、心豊かに充実した日々を、五合庵や乙子神社草庵で過ごしたのでした。

五合庵

 良寛は生涯無一物の清貧に生きました。そのシンボルともいえるものが簡素な草庵です。良寛が住んでいた頃の五合庵の屋根は、大村光枝の返歌から、杉の皮で葺(ふ)いた粗末な屋根だったことがわかります。また、乙子神社草庵時代の歌があります。                                      吾が宿は 竹の柱に 菰(こも)すだれ                                 強(し)いて食(を)しませ 一杯(ひとつき)の酒

 この歌から、柱は竹で、竹の柱と柱の間には菰が吊るされていたようです。また、戸は柴で作った粗末なものであったことを示す歌もあります。                                    こと足(た)らぬ 身とは思はじ 柴の戸に                                      月もありけり 花もありけり 

 こうした草庵に暮らす中、あまりの寒さに耐えきれなくなった思いも歌にしています。                    

埋(うず)み火に 足さしくべて 臥(ふ)せれども                           こたびの寒さ 腹にとおりぬ

求めない心

 良寛の草庵には家具らしいものはほとんど無く、最低限、必要な鍋や寝具ぐらいのものでした。良寛はお金やモノといった財産を所有しない生活を心掛けていたのです。また、お金だけでなく、地位、権力、名誉も一切求めない生活でした。
 しかし、世間の多くの人は、愛欲、煩悩のために、快楽、金、財産、地位、権力、名誉などを求めるばかりであると嘆く漢詩を多く詠んでいます。
 名こそ惜しけれという名誉を重んじる価値観が重要視された時代風潮の中で、良寛にとっては名誉を求める心も捨て去るべき煩悩・欲望の一つだったのです。                              あらがねの 土の中なる 埋もれ木の                                   人にも知らで 朽ちはつるかも                                      あらがねの…土の枕詞

知足

 また良寛には、欲がなければ、すべてに満足できるという「知足」を詠った漢詩があります。          

欲無ければ 一切足り 求むる有れば 万事窮(きわ)まる
淡菜 饑(う)ゑを療(いや)す可く 衲衣 聊(いささ)か躬(み)に纏(まと)ふ
独往して 糜鹿(びろく)を伴とし  高歌して 村童に和す
耳を洗ふ 巌下の水 意に可なり 嶺上の松   
(訳文)
欲がなければ、すべてに満足できる、求める気持ちがあれば、すべてが満足できずに行き詰まる
菜(な)っ葉でも飢えは満たされる、僧衣はなんとか身にまとっている。
ひとりで山に出かけるときは、鹿たちと一緒に遊び、大きな声で歌うときは、村の子供達と一緒に歌う
岩の下の流水で(俗塵で汚れた)耳を洗い清めれば、嶺の上で風に吹かれる松の音は心地よい。

疑わない生き方

 人を疑うということは自分が不利益を蒙(こうむ)ることを警戒することです。つまり利益を求める心があることが前提になっています。したがって、求める心がなければ人を疑う必要はありません。良寛は求める心を捨て去っていたため、人を信じて、決して疑うことがありませんでした。

怒らない生き方

 ある仕打ちを受けて怒るということは、たとえば、財産を奪われる不利益や、暴力により肉体的苦痛を受けることに対して、自分の財産や肉体的な平穏を守ろうという意志が働き、相手に対して攻撃的・報復的になるために生ずる感情です。
 ところが、求める心を持たない良寛は、財産を奪われても(ほとんど財産らしきものを持っていないが)意に介せず、暴力により肉体的苦痛を受けても、暴力を振るう人に抵抗することなく、暴力が治まればそれでよしとしました。そして、相手に対して怒りの感情を持ったり、憎んだりすることがほとんどありませんでした。

ドロボウと間違われても弁解しない生き方

 良寛にはドロボウと間違われて殺されそうになっても、決して弁解しなかったという奇禍(きか)逸話がいくつかあります。
 良寛には求める心・こだわる心がありません。だから、失うもの守るべきものがなく、疑われて不利益を被るおそれが生じても、たとえ命を奪われそうになっても、決して弁明をしません。結果が不利益であっても、それは運命・天命であるとして受け入れ、ただ随うだけでした。