農民に寄り添って生きる

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命あるものを愛する │ 子供たちと遊ぶ │ 農民に寄り添って生きる │ 花や自然を愛する │ 月のうさぎ │

水と闘った時代

 信濃川流域の新潟平野は沼の多い低湿地地帯でした。低湿地の田んぼでは、農民は腰や胸まで泥田につかり、田植えや稲刈りを行い、舟で稲を運んだりしました。低湿地地帯の新潟平野は、大正時代に大河津分水路が完成するまでは、毎年のように洪水・水害に襲われ、農民たちは水との闘いに明け暮れていました。この歴史が、新潟県民のねばり強さ・忍耐強さや、お互いが協力する助け合いの心を培ったのです。
 江戸時代は米の収穫の約半分が年貢として収奪され、多くの農民はただ生きることが精一杯でした。度重なる水害などによって、年貢が納められなくなると貧しい農民は、娘を売ったり、農地を手放し小作農となったりしました。庄屋や地主に農地が集積し、一部の「豪農」と後世呼ばれる庄屋層・地主層が農村社会の中核となりました。
 年貢の増徴、代官や役人の不正や苛政に対して、農民は時には家や田畑を捨てての逃亡、順序をふまないでの上訴、多数の農民が参加した騒動・一揆などを起こすこともありました。
 一方で、江戸時代は、紫雲寺潟や国上山の麓にあった円上寺潟など多くの沼地を干拓したり、灌漑施設や排水路を整備したりして、新田開発が盛んに行われ、農地が増大しました。水害で苦しむ西蒲原では鎧潟などの三潟の水抜きが行われました。日本海への排水路を作るため標高三十メートルの砂丘を掘り割り、用水である西川の下を排水路である新川と交差させるなどの難工事のすえ完工しました。
 こうした水と闘った時代と越後の農村社会の特色を学ぶことができる場所に「豪農の館」があります。新潟市の旧笹川家住宅、旧伊藤家住宅(北方文化博物館)や長岡市の旧長谷川家住宅などが現在、「豪農の館」として保存・公開されています。

農民に注いだ慈愛の心 

 良寛は人が人を差別することがもっとも悲しいことであると考えていました。特に江戸時代の徳川幕藩体制下の武士が農民、町人、非人を差別し、搾取していたことに対して強い憤りを感じ、差別されていた貧しい農民に対して深い慈愛の心を注ぎ続けました。
 托鉢に出かけると、和顔と愛語で子供たちや村人と接し、疲れた農民には按摩を、病人には看病をしたりしました。時には親しい農夫と酒を酌み交わしたりしました。こうして、良寛はたびたび見舞われる水害に苦しむ農民たちに寄り添って生きたのです。慈愛の心で水害に苦しむ衆生を済度する菩薩行の生涯に徹したのです。
 良寛に、旱魃(かんばつ)や、長雨・洪水などの自然災害や、火災に苦しむ庶民を気遣って心配する歌があります。                                                 我さへも 心にもなし 小山田(をやまだ)の                                  山田の苗の しをるる見れば                                       しをるる…日照りのためにしおれているのを

あしびきの 山田の小父(をぢ)が ひめもすに                             い行きかへらひ 水運ぶ見ゆ                                      ひめもすに…一日中 い行きかへらひ…行ったり来たりして

秋の雨の 日に日に降るに あしびきの                                 山田の父小(をぢ)は 奥手(おくて)刈るらむ                             あしびきの…山の枕詞 小父…老農夫  奥手刈るらむ…晩稲を刈り取っているのだろう

奥手刈る 山田の小父(をぢ)は かならむ                                 ひと日(ひ)も雨の 降らぬ日はなし

遠(おち)方ゆ しきりに貝の 音すなり                                    今宵の雨に 堰(せき)崩(く)えなむか                                遠方ゆ…遠方から 貝…ホラ貝 堰崩えなむか…堤防が決壊したのだろうか

小夜(さよ)中に 法螺(ほら)吹く音の 聞こゆるは                          遠(おち)方里に 火(ほ)やのぼるらし                                 小夜中…夜中 遠方…遠方の

 良寛に差別を憎む歌があります。                                   

如何(いか)なるが 苦しきものと 問うならば                             人をへだつる 心とこたへよ                                       人をへだつる…差別する

 良寛に世間の貧しい人々を救いたいという思いを述べた歌があります。

墨染めの わが衣手の ゆたならば                                   うき世の民に 覆(おほ)はましもの                                  ゆた…広くゆったりしている 覆はましもの…覆うように救うことができるのだが

わが袖は 涙に朽ちぬ 小夜(さよ)更(ふ)けて                            うき世の中の 人を思ふに                                       朽ちぬ…濡れて弱くなった

世の中の 憂(う)さを思へば 空蝉(うつせみ)の                           わが身の上の 憂さはものかは                                     憂さ…生きていくつらさ 空蝉の…身の枕詞  ものかは…取り立てて言うほどのものではない

憂きことは なほこの上に 積もれかし                                        世を捨てし身に 試してや見む

 良寛が解良叔問へ、庄屋の心得を説いて与えた歌があります。

領(し)ろしめす 民があしくば われからと                                 身をとがめてよ 民があしくば                                     領ろしめす…領治する

 解良叔問は当時の牧ヶ花村の庄屋を二十余年間務めました。良寛の理解者であり外護(げご)者でありました。この歌は解良家横巻にありますが、この歌と連記されていた歌が次の歌です。

わが袖は しとどに濡れぬ うつせみの                                 うき世の中(の) ことを思ふに                                      うつせみの…うき世の枕詞

 良寛は権力に近づくことはなく、武士とはほとんどつき合いませんでした。唯一の例外が三宅相馬です。この人なら領民を慈悲の心で治めてくれるのではないかと期待したのでしょう。三宅相馬が三条の郡吏を去る時、次の二つの歌を送りました。

うちわたす 県司(あがたつかさ)に もの申す                               もとの心を 忘らすなゆめ                                       うちわたす…衆生を済度する 心…領民を慈しむ心 忘らすなゆめ…決して忘れないでください

幾十許(いくそばく)ぞ 珍(うづ)の御手(みて)もて 大御神(おおみかみ)                    握りましけむ 珍(うづ)の御手(みて)もて                              幾十許ぞ…どれほどか多く  珍の…尊く立派な 大御神…厳かな神は  握りましけむ…人々を治めただろうか