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小さな命への慈愛の心
良寛の慈愛に満ちたやさしい心は人間はもちろん動物や虫、植物といった小さな命までも大切にしました。
我宿の 草木にかくる 蜘蛛の糸 払わんとして かつはやめける かつは…すぐに
木村家の娘「かの」が嫁ぐにあたって、嫁の心得を書いてほしいと頼まれて良寛が書いた戒語の中に、次の一条があります。
「上をうやまい 下をあはれみ しょう(生)あるものとりけだものにいたるまで 情けをかくべき事」
雨に濡れている松の木を人に見立てて詠った和歌があります。 岩室の 田中に立てる 一つ松の木 今日見れば 時雨の雨に 濡れつつ立てり
一つ松 人にありせば 笠貸さましを 蓑着せましを 一つ松あはれ
夏の夜に借り物の蚊帳(かや)をつっても、良寛は毎晩片足だけは蚊帳の外に出して寝たという逸話があります。
子供の命への慈悲
文化元年(一八〇四)に疱瘡(ほうそう)(天然痘)が流行し、親友原田有則が二人の幼子を亡くしたのをはじめとして、多くの子供たちが亡くなりました。
翌年、良寛は子を亡くしたすべての親に代わって哀傷の歌を多く首詠みました。 あづさゆみ 春を春とも 思ほえず 過ぎにし子らが ことを思へば あずさゆみ…春の枕詞
人の子の 遊ぶを見れば にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも にはたづみ…流れるの枕詞
病・老・貧者への慈愛の心
良寛に自らを戒めた次の文があります。
「 自警文
若し邪見の人・無義の人・愚痴の人・暗鈍の人・醜陋(しゅうろう)の人・重悪の人・長病の人・孤独の人・不遇の人・六根不具の人を見る者は、当に是の念を成すべし。何を以てか之を救護せんと。従佗(たとい)、救護する能(あた)はずとも、仮にも驕慢(きょうまん)の心・高貴の心・調弄(ちょうろう)の心・軽賤の心・厭悪(えんお)の心を起こす可からず。急ぎ悲愍(ひびん)の心を生ず可し。若し起こらざる者は、慚愧(ざんき)の心を生じて深く我が身を恨む可し。我は是れ道を去ること太だ遠し。所以の者は何ぞや。先聖に辜負(こふ)する(そむく)が故なり。聊(いささか)か之を以て自ら警(いまし)むと云ふ。」
神無月の頃、蓑一つだけ着た人が草庵の門に立って物乞(ものごい)をしたので、良寛は来ていた服を脱いで与えました。その夜に嵐が激しく吹いたので、良寛は歌を詠みました。
いづこにか 旅寝(たびね)しつらむ ぬば玉の 夜半(よわ)のあらしの うたて寒きに ぬばたま…夜の枕詞 うたて…ひどく
元旦に貧しい母子が救いをもとめに良寛を頼って、雪の中五合庵までやってきました。良寛には母子に差し上げる食べ物も無かったので、解良叔問宛の次の手紙を書いて、母親に渡しました。
「これはあたりの人に候。夫は他国へ穴ほりに行きしが、如何に致し候やら去冬は帰らず、子供を多くもち候。子供また十より下なり。此春は村々を乞食してその日を送り候。何をあたへて渡世のたすけに致さんと思へども、貧窮の僧なれば致し方もなし。何なりとも少々このものに御与へ可被下(くださるべく)候。 正月一日 良寛」
牧ヶ花の庄屋の解良叔問は、この母子にお餅を与えたのでしょう。そのことに対する解良叔問への良寛のお礼の手紙が残っています。
良寛は無一物だと誰もが知っているのに、それでも母子をして、良寛を頼って山中の草庵まで雪道を登らせた理由はなんでしょう。良寛こそ、そのままが仏さまだったのです。良寛さまならきっとお救い下さるという思いを抱かせるに足りた良寛こそ、真の救済者だったのです。