出家・帰国 │ 五合庵定住 │ 親しい人々と橘屋の没落 │ 晩年 │ |
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乙子神社草庵への移住
旅に生きる由之
妹むらとおゆうの死
維馨尼
国上山への別れ
晩年-木村家庵室時代
浄土思想への傾倒
寺泊での夏籠もり
貞心尼との清らかな心の交流
三条地震
晩年の由之との交流
山田家との交流
盆踊り
ざくろ
病臥した良寛と貞心尼
冬と病の歌
辞世の句
遷化
乙子神社草庵への移住
良寛が20年以上にわたって住み続けた五合庵をなぜ去って、文化13年(1816)良寛 59歳の年に、乙子神社草庵に移住したのでしょうか。
一般的に言われている理由は、薪水の労が老いの身にこたえるようになったからというものです。だが、この理由は余り説得力はないのではないでしょうか。乙子神社の方が五合庵よりも、村里に近いといっても、かなりの坂道を登らなくてはならないという点では、五合庵と五十歩百歩です。
ただし、国上山中の生活で一番こたえるのは冬の雪でしょう。今は地球温暖化が進み、暖冬小雪の傾向が顕著ですが、良寛が暮らしていたころは、雪が1メートルは積もったはずです。
移転した年、良寛はかなり風邪をこじらせて、病臥していたといいます。その原因は五合庵の建物としての老朽化が進み、雨漏りやすきま風がひどくなったからではないでしょうか。万元上人の隠居のために作られた五合庵は、良寛が住んでいた頃にはかなり老朽化していたと思われます。享和3年(1803)良寛46歳の年、国上寺の住職義苗が隠居して五合庵に入る時に、一応それなりの修理は行われたかもしれませんが、それからまた13年も経っているのです。
そして、良寛のもとに遍澄が弟子入りをして、身の周りの面倒を見ることになったのは、ちょうど同じ年でした。身の周りの面倒を見るということは、一緒に同居して暮らしたのではないしょうか。おそらく、遍澄と同居するには、五合庵では手狭であったため、もう少し広い乙子神社草庵に転居したのではないでしょうか。
また、乙子神社の宮額が文化12年5月(1815)に奉納されており、現存しています。この宮額の「乙子大明神」という神名を書いて欲しいという、出雲崎の儒者内藤方盧あての3月5日付けの良寛の手紙があります。
この手紙は、最初書くよう頼まれた良寛が、自分は僧侶だから、儒者の内藤方盧に書いてもらった方がよいと言って、紹介状を書いたものでしょう。あるいは、字の書けない村人が、内藤方盧への依頼状を、良寛に書いてもらったものかもしれません。
宮額が新しく書かれたと言うことは、乙子神社の建物が改築されたことを意味するのではないでしょうか。そうだとすると、このときに社務所も建て替えられたか、大幅な改修がなされた可能性もあります。乙子神社の社務所が広く新しくなったことも、移転の背景にあったかもしれません。
つまり、良寛の高齢、五合庵の老朽化、び遍澄の弟子入り、乙子神社の社務所の建て替え又は改修、などが転居の理由だったと思われます。
乙子神社草庵時代は、良寛の芸術がもっとも円熟したときでした。和歌は万葉調さらには良寛調といわれるほどであり、書もまた、点と線の調和の美しい独特の草書を書いています。
旅に生きる由之
文化14年(1817)良寛60歳の年に、由之は越前国の福井に居を移し、ほぼ4年間(足かけ5年)を福井で過ごしました。
文政2年(1819)良寛62歳の年の5月に、福井の由之のもとに、良寛の歌2首が手紙で届きました。これに対して由之は返しの歌を3首を詠んで兄良寛に送っています。
相見ずて 年の経ぬれば このごろは 思ふ心の やる方ぞなき
杖つきも 行きても見むと 思へども 病ふの身こそ 術(すべ)なかりけり (良寛)
これを見るに、いといたう悲しくて、かくなむ。
行き廻り 経(ふ)るとはすれど 恋しくに 我も心の やる方ぞなき
心にも 老いの歩みの 任せぬば しかな思(おぼ)しそ 思(おぼ)すかひなし
(任せぬば…ままならないので(そのうち帰るので))
(思すかひなし…思うかいのない身ですから)
真幸(まさき)くて ただ待ちおはせ 旅衣 ころも過ぎさで 帰り参(まい)てむ (由之)
(真幸くて…お元気で)
同じ頃に、また別の唱和もしています。
兄弟(はらから)も 残り少なに なりにけり 集ひし折も ありにしものを
岩が根に したたる水を 命にて 今年の冬も 凌(しの)ぎつるかも
この夕べ 天飛ぶ雁は 幾重かも 雲居へだつる 声の遙(はる)けき (良寛)
そこにありて 君が聞きけむ 雁がねか 今朝わが宿を 訪れて鳴く (由之)
兄弟が集った時もあったというのは、何時の時でしょうか。おそらくは父以南が亡くなった、寛政7年(1795)の時ではなかったでしょうか。良寛は父が自殺したときに次の句を詠んでいます。
蘇迷盧(そめいろ)の 音信(おとづれ)告げよ 夜の雁
われ喚びて 故郷へ行くや 夜の雁
雁は死者の霊魂を運ぶ鳥と考えられていたことから、父の死後に良寛が聞いた雁の声とは、父以南の霊魂と考えたのではないでしょうか。そのことを由之も知っていたのでしょう。3男香と、4男宥澄が相次いで、若くして亡くなり、兄弟は良寛と由之だけになった今、越後と越前に別れて暮らす二人は、お互いに老いており、死を意識せざるをえない年齢になっていたのです。
なお、この年に解良叔問が55歳で亡くなりました。
文政4年(1821)良寛64歳の年の3月11日、越前から戻った由之は、息子の馬之助のもとから、出羽の酒田へ向けて旅立ちました。3月11日の夜から14日の朝まで、寺泊の姉むら(良寛の妹)の外山家に3泊しました。末妹みかを除いて生き残った兄弟全員が集ったのです。由之の日記に次の記述があります。
「かの君、姉刀自、おのれも、みな老いの身なれば、これや限りの旅ならむと、互にあわれなること限りなし、されどなかなか言には出ださず」
なお、この「姉刀自」という語があることから、むら が由之の姉であることがはっきりしたのです。それまでは たか が長女で、むら が次女と考えられていました。
文政5年(1822)良寛65歳の年の5月8日、由之は秋田の菅江真澄を訪ねています。目的は文政10年に成った文法書『海月(くらげ)の骨』を贈って、批評を仰ぐためだったのでしょう。菅江真澄は由之から良寛のことを聞き、「手毬上人(てまりしょうにん)」と、『高志のものがたり』に書いています。
文政6年(1823)良寛66歳の年、由之は青森から北海道に渡りました。それを聞いた良寛は驚いて、歌を詠んでいます。
由之が蝦夷に行きしと聞きて
蝦夷嶋に 君渡りぬと みな人の 言ふはまことか えぞが嶋辺に
妹むらとおゆうの死
文政7年(1824)良寛67歳の年、3月5日に、良寛の妹むらの夫、寺泊町の回船問屋で酒造業も営んだ外山文左衛門が68歳で亡くなりました。むら もその後、病床につき、12月17日、65歳で亡くなったのです。良寛は、むら の病気を見舞うため、11月4日に和歌3首を詠んで贈っています。
越の海 野積の浦の 雪海苔は かけて偲ばぬ 月も日もなし
(かけて…心にかけて)
越の海 野積の浦の 海苔を得ば 分けて賜れ 今ならずとも
越の浦の 沖つ波間を なづみつつ 摘みにしのりを いつも忘れず
(なづみつつ…難渋しながら)
野積は雪の降るころに、質の良い岩のりが穫れるため、むらは毎年、良寛に雪海苔を贈っていたのでしょう。良寛は元気になって、また雪海苔を贈ってほしいという歌を贈り、見舞ったのです。
妹むらの死後、良寛はむらへの哀傷歌を詠んでいます。
春ごとに 君が賜ひし 雪海苔を 今より後(のち)は 誰(たれ)か賜はむ
むら は、良寛の着物を洗濯したり、繕ったり、なにかと身の周りの面倒を見ていたのです。良寛が国上山の乙子神社草庵を去って、島崎の木村家に移住した背景には、むら の死があったのではないでしょうか。
この年の冬に良寛は由之宛に手紙を出しています。書き出し部分に、「寒中いかがかと心配していたが、由之の手紙を見て安心した。力がつくまでは用心せよ」とあり、由之は東北・北海道の旅から帰ってきて風邪でもひいたのか、出雲崎以外のどこかで臥せっていましたが、良寛に大丈夫だとの手紙を出したようです。
この手紙の中に、由之の長男馬之助の妻おゆうの下血が全快するまでは養生するようにとの記述があります。下血とは腸管の出血をさすので、おゆうはかなり危険な病状だったようです。このとき馬之助は井之鼻(いのはな)村の名主職を務めており、家族は出雲崎に住んでいたものと思われます。しかし由之は所払いの身ですから、出雲崎以外の場所に住んでいたのでしょう。
文政8年(1825)良寛68歳の年の8月18日、37歳の馬之助の妻おゆうは、35歳で亡くなりました。馬之助が妻おゆうの死を哀傷した歌稿が残っており、そのところどころに良寛の添削の筆が入っています。
維馨尼
大坂屋三輪家の六代多仲長高の娘おきしは、与板の山田重翰(しげもと)(杜皐(とこう))の兄弟の杢左衛門重富に嫁ぎましたが、夫の死後は三輪家に戻り、徳昌寺の虎斑(こはん)和尚の弟子となって剃髪し、徳充院と号し、維馨尼(いきょうに)(1764~1822)となりました。三輪左一の姪です。良寛より6歳年下です。
頼りにしていた叔父左一を亡くして、心痛のあまり維馨尼は病気がちになっていたのか、良寛は維馨尼に文化四年十月八日付けの手紙を出しています。
「中山より
三輪 徳充院老 良寛
御病気いかがござ候や。随分心身を調ふるようにあそばさるべく候。
油一とくりたまはるべく候。
十月八日」
油は行灯用で、維馨尼が良寛に、左一供養のための写経でも依頼したのかもしれません。
『請蔵南行爛葛藤(らんかっとう)』とは、虎斑和尚が文政元年(1818)良寛61歳の年、明版大蔵経を請来するために、伊勢松坂まで往復したその苦労を綴った紀行文です。昭和55年に与板町の徳昌寺と良寛歌碑保存会によって発行された『請蔵南行爛葛藤』の復刻本の解説編(大谷一雄解読、浅田壮太郞注解)によると、序文編、本文編、跋文編に分けられ、跋文編には良寛の漢詩、由之の和歌、維馨尼の和歌など、20人の送行餞別の作品が収められています。
当時明版の大蔵経を復刻した日本版の大蔵経(黄檗版)が刊行されていましたが、文化14年(1817)の春、伊勢の松坂に明版大蔵経九千余巻のあることを知るや、虎斑和尚は、急遽購入する決心をし、募金を始めました。
54歳の維馨尼は、はるばる江戸へ勧進(募金)に出かけました。それを聞いた良寛は感激するとともに、維馨尼の身を案じて、
文化十四年(1817)12月に、詩や和歌を書いて送りました。良寛が女性に贈った唯一の漢詩でする。
「 君 蔵経を求めんと欲(ほっ)し 遠く故園の地を離る
吁嗟(ああ) 吾何をか道(い)はん 天寒し 自愛せよ
十二月二十五日 良寛
江戸にて 維馨尼 」
(詩の訳)
あたなは大蔵経の購入費用を求めに、
遠く故郷を離れて、江戸に出向かれた。
ああ、あなたの尊い志に対して、私は何を申し上げようか。
寒い季節です、からだをいたわってください。
また年が明けた文政2年(1819)正月にも手紙を出しています。
「 正月十六日夜 正月十六日の夜
春夜 二三更(こう) 等間 柴門(さいもん)を出づ
微雪 松杉(しょうさん)を覆ひ 弧月 層巒(そうらん)を上る
思人を思へば 山河遠く 翰(かん)を含んで 思ひ万端(ばんたん)たり
月雪(つきゆき)は いつはあれども ぬばたまの 今日の今宵(こよい)に なほしずかけり
与板大坂屋 良寛
維馨老尼 」
(詩の訳)
春の真夜中、ふらっと庵から外に出た。
微かな雪が松や杉を覆い、月が重なった山々の上にのぼった。
山河を遙かに隔てた江戸にいるあなたのことを思うと、
筆を持っても、思いが沢山こみ上げてきて、筆が進みません
この良寛の心あたたまる二つの書簡は、維馨尼が亡くなるまで大切に保管していたもので、そのために、今に伝わっています。
また、阿部定珍から万葉集に朱註の書き入れを頼まれた良寛は、九代三輪権平が所持している全30冊の高価な『万葉集略解』を借りるために、文政2年(1819)10月10日、維馨尼に口添えを頼む手紙を出しています。
真冬の江戸への長旅がたたったため、その後寝込んだのか、維馨尼を気づかった内容です。
「先日は久々にてお目にかけ大慶に存知奉り候。僧もこの頃無事に帰庵仕り候。今日、御話申し候万葉、借りに人遣はし候。権平老によろしき様にお申し下さるべく候。なほまた寒中、御保養第一に遊ばさるべく候。 十月十日 良寛
維馨老 」
次の11月20日付けの維経尼あての良寛の手紙も、文政2年のものであるかもしれません。
「此の冬はあまり寒くもなく、無事に打暮し候。僧庵遊ばされ候はば、如何にござ候。少し寒気をふせぐご用心遊ばさるべく候。来春托鉢のおり参上仕り、御目にかかり、お話し申し上げ度候。早々。以上。
十一月二十日 良寛
維経老 」
(僧庵遊ばされ…寺にこもられ)
文政元年(1818)11月、虎斑和尚は伊勢松坂に行き、書店に内金50両を渡し、一部分を弟子二人でかついで帰って来ました。その後も虎斑和尚は不足分の募金を行いました。
維馨尼は、病が癒えることがなかったのか、文政5年(1822)に59歳で没しました。
徳昌寺の維馨尼の墓碑には、「萬善維馨禅尼」の六字が刻されています。
虎斑和尚の募金は大蔵経購入金額220両の未納金170両と運賃等の経費に達せず、島崎の能登屋木村元右衛門から不足分を借財して代金を支払いました。だが、虎斑和尚は木村家に借金を返済できず、大蔵経の所有権が木村家に移ろうとしました。しかし、その両者の間に立った良寛のすすめにより、木村元右衛門は徳昌寺への貸し金を帳消しにしました。
楽山苑の中にある「天寒自愛の碑」が昭和58年に建立されました。
国上山への別れ
良寛は国上山の乙子神社草庵から、島崎の木村家の庵室に移住しました。乙子神社草庵から木村家庵室へ移転した時期については、冨澤信明氏の「良寛は何時乙若庵から柴庵へ移住したのか」(『おくやまのしょう』第37号 平成24年)に詳しく、その論文によると、文政9年(1826)良寛69歳の年の、9月6日の寒露の前後の好天日であったといいいます。生きているはらから(兄弟)は、64歳の由之と50歳のみかだけでした。
では木村家庵室への転居の理由は何であったのでしょうか。解良栄重の『良寛禅師奇話』では「薪水ノ労を厭フ」とあり、鈴木文台も同様のことを言っています。
また、弟子の遍澄が地蔵堂の願王閣に迎えら、69歳の良寛と行動を共にすることができなくなるため、遍澄の生家の隣の木村家に良寛のお世話をお願いしたため、良寛は木村家の転居したという説もあります。この場合は、老齢のために病臥したときに備えての配慮でということでしょう。
しかし、良寛は国上山への愛着が非常に強く、国上山麓から引っ越すことは、最初はあまり考えてはいなかったのではないでしょうか。
谷川敏朗氏の『良寛の書簡集』によれば、「寺泊町引岡の小林与三兵衛は、文政9年(1826)5月に良寛を訪問して、寺泊町吉(よし)の源右衛門が良寛のために新しい庵を作りたい旨を告げており、それに対して良寛は、前よりありし庵ならば宜しかれども、新しく造るには、いや、と申され候という記事が、与三兵衛の日記に記されている」といいます。
小林与三兵衛も源右衛門ともに、三島郡の引岡村と吉村の百姓代でしたが、良寛はそれらを断っています。ただし、最終的には、同じ三島郡島崎村の百姓代木村元右衛門の誘いを受けて移住しました。
また、良寛に7月4日付けの次の手紙があります。
「今日はわざと人遣はされ、委細承り候ふ処、御地へ住庵致すようにとの思し召しに候。野僧、近ごろ老衰致し、何方(いずかた)へも参る心これなく候。何卒(なにとぞ)その儀は、然(しか)るべき人にお頼み遊ばされ下されたく候。以上。
七月四日 良寛
了阿君 」
宛名の了阿が何者なのかよくわからず、寺泊町の回船問屋で町年寄だった外山茂右衛門が出家して良阿と号しているのではないかという渡辺秀英氏の説を、谷川敏朗氏の『良寛の書簡集』が紹介しています。了阿が良阿だとすれば、良寛を乙子神社草庵から寺泊に移住させようと誘った良阿の手紙への、これは良寛の断りの返事だということになります。
寺泊町吉(よし)の源右衛門の申し入れに対しては、新しい庵を造るという申し入れを、逆手にとって新しい庵であれば「いや」であると断り、良阿からの誘いに対しては、自分の老衰を理由に断っている。この時点で良寛が断っているということは、国上山への愛着が強く、まだ転居を望んでいなかったのではないでしょうか。
なお、良寛が老衰を理由に転居を断っているということは、老衰のためではない何らかの理由で移転しなければならない事情があったことを暗示しているのではないでしょうか。
木村家への転居の理由を考えるにあたって、重要な点が二つあります。一つは転居先が最終的には島崎の木村家であり、他に転居を勧めた二人はいずれも寺泊の人物だったという点。もう一つは、良寛を尊敬していたであろう村上藩三条役所の三宅相馬が文政8年(1825)良寛68歳の年に三条を去っている点です。
村上藩の三宅相馬が三条に赴任した文化13年(1816)は59歳の良寛が五合庵から乙子神社に転居した年です。
前田喜春氏の「良寛と村上藩士三宅相馬」(『良寛』第25号平成6年)によれば、 村上藩士の三宅相馬は良寛より43歳も年少でした。当時、三条から国上山あたりは村上藩の飛び地でした。三宅相馬が16歳という若さで、郡吏として三条に赴任し、9年後の文政8年(1825)に三条を去るとき、68歳の良寛は25歳の三宅相馬と相見し、和歌を二首贈りました。この人なら、領民を慈悲の心で治めてくれるのではないかと期待したのでしょう。
うちわたす 県司(あがたつかさ)に もの申す ものと心を 忘らすなゆめ
(うちわたす…衆生を済度する)
(心…領民を慈しむ心)
(忘らすなゆめ…決して忘れないでください)
幾十許(いくそばく)ぞ 珍(うづ)の御手(みて)もて 大御神(おおみかみ) 握りましけむ 珍(うづ)の御手御手(みて)もて
(幾十許ぞ…どれほどか多く)
(珍の…尊く立派な)
(大御神…厳かな神は)
(握りましけむ…人々を治めただろうか)
この歌を書いた良寛の書に、鈴木文台の題言が合装されており、その中に次の記述があります。
「…昔年三宅君郡吏たりしの日、師之と相見し、席上書して以て之を贈る。蓋(けだ)し師の三宅君の年少敏才なるを見、当世吏たる者の貧墨(ひんぼく)の風に倣(なら)わんことを恐れ、之を諷(ふう)せし者なり。…」
その後、清廉潔白、質直廉勤であった三宅相馬は良寛の期待によく応え、郡吏から郡奉行、典客兼砲術師範となり、40歳ころから儒学に励み、詩文をよくしました。51歳の時、いったん辞職しますが、58歳の時、藩の財政を救えるのは相馬しかいないということで、やむなく大阪に派遣されて、藩債の処理に当たました。万延元年(1860)60歳で没しました。
三宅相馬は尊敬する良寛を何かとかばっていたのではないでしょうか。
良寛は村上藩から何かと目を付けられていたのではないでしょうか。
玉木礼吉氏の『良寛全集』に次の逸話があります。
「国上山は村上藩の領土に属す、侯猟を好み出遊時を顧みず、禅師一日山を下る、村民奔走して途を掃ふ、禅師その故を問ふ、村民声を潜めて曰わく、我侯将に猟せむとす、今や我儕(ともがら)秋収に忙し、然れども侯の命奈何(いかん)ともする能(あた)はざるなりと、禅師曰わく予汝等の為に、侯の出遊を止めんか、村民皆曰わく至囑(ししょく)々々(注1)、禅師乃ち榜子(ほうす)(注2)を作らしめ之に題して曰わく
短か日の さすかぬれきぬ 乾しあへぬ 青田のかりは 心してゆけ
既にして駕至る、侯之を熟視し悵然として駕を回し、これより復た出猟せざりしと、」
(注1)至囑…おたのみします
(注2)榜子…宋代、百官の相見るに用いた一種の手札で、官職氏名等を認めたもの
この話ははたして事実でしょうか。榜子に村上藩主の秋の出遊を諫める歌を書くということは、良寛がそれを胸に貼って、正座して土下座して訴えたのではないでしょうか。果たして、「公儀のさた」などを戒語で誡めていた良寛が、そのような直訴じみた過激な行動を実行したのでしょうか。
この逸話には疑問もないわけではありませんが、良寛の差別・搾取されていた農民への慈愛の気持ちは強く、時としてこのような農民を身をもってかばう言行が多々あったのでしょうか。事柄が事柄だけに記録に残すことは危険な面があったため、ほとんど記録がないだけであるのかもしれません。また当時既に、良寛の名は高くて、良寛を支援する人も多く、藩主といえども無視できない存在であったこともうかがわせます。良寛に直接、法に触れる行為がなければ、おいそれとは良寛を取り調べて、罪科を負わせることはできなかったのではないでしょうか。それにしてもこのような行動に出る良寛は、村上藩から目を付けられていたのではないでしょうか。
北川省一氏の『良寛遊戯』に次の記述があります。
「名宛て人は不明であるが残された良寛の書簡の中につぎの一枚があった。
「一筆申上候然らば乙助しばられ候はゞはやく御しらせ可被下(くださるべく)候。八日」
良寛壮年の頃の勇気凜々たる筆であった。乙助が何者であったか、事情がどのようなものであったかは全く判らないが、乙助は指名手配された被疑者であるが、それが捕縛されたならば、駆けつけて行って役人と掛け合い、弁護してやりたいという決意がありありとうかがえるような文面であった。」
内山知也・谷川敏朗・松本市壽編集『定本良寛全集第三巻書簡集、法華転・法華讃』に次のような説明がある。
「「乙助」は現在の新潟県燕市溝(みぞ)、もと士族であった溝口乙助であるという。早川玉吉氏によると、新発田(しばた)溝口藩の乙助は、ある事件によって打ち首になるところ、脱藩して溝に身をひそめていた。そこで役人たちは、乙助の行方を追っていたわけである。藩の追及が厳しくなったので、良寛はもし乙助が捕らえられたら役人に弁護してやろうとしていたのだという。同地の「宗門帖」をみると、安政2年(1855)乙卯に乙助は「42」とあり、万延2年(1861)辛酉には「48」とあるから、文化11年(1814)甲戌生まれとなろう。良寛が役人の誤解をといてやったためか、乙助は同地で安らかに生涯を終えたという。」
良寛には、このような役人から追われる者をかばう行動が時にあったのでしょう。もし、そうだとすれば、代官所の役人からは、相当危険人物視されていたのではないでしょうか。
三宅相馬が三条を去ってからは、良寛をかばう者がいなくなり、良寛への圧迫が強くなり、良寛はついに、村上藩領の国上山にいられなくなったのではないでしょうか。
おそらく良寛は、正式な住民としての資格がなかったのかもしれません。空庵に勝手に住み着いた旅の修行僧のような存在だったものとも思われます。
そして身元保証人的な存在であった解良叔問は没し、原田鵲斎も加茂へ隠居して移住し、良寛をかばってくれた三宅相馬も三条を去ってしまいました。
村上藩にとって、なにかと抵抗し、目の上のタンコブであり、煙たい存在であった良寛は、ついに住民としての資格がないという理由で、他藩への移住を迫られたのではないでしょうか。例えば正式な住民としての資格がない者は他藩領に立ち退くべしというような話が、国上周辺の庄屋にあったのではないでしょうか。良寛をターゲットにしたような話があったのではないでしょうか。
そうした事情を関係者は知っていて、島崎の木村家や、寺泊の吉(よし)の百姓総代の源右衛門、寺泊町の回船問屋で町年寄だった外山茂右衛門などは、良寛に自分の処に移り住むように誘ってくれたのではなかったでしょうか。
当時、島崎は島崎川を境に、木村家の反対側の下領は村上藩領でしたが、木村家がある上領は天領で、出雲崎代官所の領地でした。そして寺泊は柏崎領でした。私は長い間、老衰した良寛の世話をなぜ木村家がみて、あれだけ良寛と親しかった阿部家や解良家がお世話してやらなかったのだろうかと疑問に思っていました。それは、阿部家も解良家も村上藩領であったからなのではないでしょうか。
そうした状況の中、9月はじめに、良寛は病に臥してしまいました。そのとき晩秋の嵐が三日三晩吹き荒れました。病気で身動きできない良寛は、不安な三日間をただ吹き荒れる風の音を聞きながら、過ごしたのです。そんな思いを歌にしています。
長月の初(はじめ)つ方、心地悪(あ)しくて庵(いお)に籠もりけるに、風のいたう吹きて 三日三夜(みかみょ)さ、止(や)まざりければ、心やりに詠める
憂(う)き我を いかにせよとて 秋風の 吹きこそ増され 止むとはなしに
むらぎもの 心さへにぞ 失(う)せにける 夜昼言わず 風の吹ければ
(むらぎもの…枕詞)
しかりとて 誰(たれ)に訴(うた)へむ よしもなし 風の吹くのみ 昼夜(よひる)聞きつつ
こうした心細さを痛感したことを契機に、良寛は、権力の圧迫には従う気はなかったものの、国上山を去る方向に心が傾いていったのかもしれません。
遍澄には、地蔵堂の願王閣に自分を迎えたいという富取家からの話が前からあったのでしょう。あるいはその話は、長年世話になった遍澄を思って、良寛が働きかけた話であったかもしれません。遍澄は自分が良寛のもとを去ることになる以上は、良寛の世話をしてくれる人を見つける必要がありました。遍澄の実家の隣にあって、気心の知れた木村家に、良寛様のお世話をしていただけるか打診したのではないでしょうか。そうしたところ、木村家から、快くお引き受けいたしましょうというありがたい返事があったのでしょう。
そこで遍澄は、木村家からのありがたい申し出を良寛に伝えたのでしょう。そして良寛は即座に移住を決心したようです。おそらく遍澄の将来のことを考えての決断だったのではないでしょうか。遍澄は良寛の決心を聞いて、木村家への移住の話をすぐに実行に移したのです。越後の厳しい冬はもう目の前に来ていた時期でもありました。良寛もまた、島崎なら、弟由之のいる与板にも、出雲崎にも近いこと、そして能登屋木村家は浄土真宗の信仰の篤い家であったこともあり、すぐに転居することを了承したのでしょう。
この年の10月に、由之は乙子神社草庵を訪ねましたが、既に島崎に移住した後だったので、次の「君が山四首」に添えて柘榴(ざくろ)を隣家に預けました。
禅師(ぜじ)の君訪ひまつる時に、道より御山を見れば、且(か)つ且つ染め初めたり
君が山は はや色づきぬ この頃の しぐれの雨や 分きて染めけむ (由之)
とりわけ庵を訪ひしかど違いぬれば本意なくて、隣の小家に書き置く
国上山 坂路(さかじ)難(なづ)みて 来(こ)しかども 君居まさねば 甲斐なかりけり
居まさぬも 且(か)つぞ嬉しき 老いの身に 老いの立ち居を 問う心には ふるさとの 初穂の木の実 きこしめせ よしや黒みて 色変わるとも
(きこしめせ…お召し上がりください)
由之の手紙と柘榴が良寛に届いたのは晩冬12月でした。良寛は12月6日付けで、返しの歌を由之に送りました。
老いの身の 老いのよすがを 訪(とぶら)ふと なずさひけらし その山路(みち)を
(なずさひ…辿る)
あしひきの 山の紅葉は さすたけの 君には見せつ 散らばこそ散れ
(あしひきの…枕詞)
(さすたけの…枕詞)
もたらしの 園生(そのふ)の木の実 珍しみ 三世の仏に 初たてまつる いかにして 君在(い)ますらむ この頃の 雪気(ゆきげ)の風の 日々に寒きに
あしひきの 御山(みやま)を出でて うつせみの 人の裏屋に 住むとこそすれ
(あしひきの…枕詞)
(うつせみの…枕詞) しかりとて 術(すべ)のなければ 今さらに 馴(な)れぬよすがに 日を送りつつ
(今さらに…とりあえず)
良寛は国上山には、乙子神社草庵も含めてほぼ30年間住みました。その国上山を去るときの惜別の情には、格別のものがあったと思われます。そのときのものと思われる長歌があります。
国上の山を出(い)づるとて
あしひきの 国上の山は 山陰(やまかげ)の 森の下屋に
年重ね 我が住みにしを 韓衣(からごろも) たちてし来れば
夏草の 思い萎(しな)えて 夕星(ゆうつつ)の か行きかく行き
その庵(いお)の い隠(かく)るまで その森の 見えずなるまで
玉鉾(たなぼこ)の 道の隈(くま)ごと 隈もおちず 返り見ぞする その山辺を
良寛は木村家に転居してから、国上山を愛惜するあまり、二十六首からなる自選歌集『久賀美(くがみ)』を作成しました。良寛の自選歌集は『布留散東(ふるさと)』と『久賀美(くがみ)』だけです。
次の長歌は『久賀美(くがみ)』の巻頭の歌です。国上山は春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪と四季折々に美しい姿を見せてくれる山です。
くがみのうた
あしびきの 国上の山は
たそがれに わが越えくれば
ふもとには もみぢ散りつつ
高嶺(たかね)には 鹿ぞ鳴くなる
鹿のごと 音(ね)には泣かねど
もみぢ葉の 散りゆく見れば 心悲しも
次の歌は『久賀美(くがみ)』の巻末の歌です。
籠に飼ひし鳥を見て詠める
あしびき(の) み山の茂み 恋ひつらむ 我もむかしの 思ほゆらくに
良寛は「籠に飼ひし鳥」に、老衰し、権力にも追われて、国上に住めなくなり、自由を奪われた己の姿を重ね合わせているのでしょうか。