和歌でたどる良寬の生涯 晩年2

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山田家との交流
 良寛のハトコである山田杜皐(とこう)(与板の豪商和泉屋山田家の第九代当主山田重翰(しげもと))の妻よせを良寛は「およしさ」と呼んでいまし。
 山田杜皐(1773?~1844年、良寛より約15歳ほど年下)は、俳句、絵画にすぐれており、良寛の親友でした。 
 およしは、夕方になると決まって訪ねてくる良寛を、『ホタル』だと冗談を言いながら、お酒を振る舞いました。良寛は大好きなおよしさんに酒をおねだりする歌をいくつか詠んでいます。

寒くなりぬ 今は蛍も 光なし 黄金(こがめ)の水を 誰か賜わむ

草の上に 蛍となりて 千年をもまたむ 妹(いも)が手ゆ 黄金の水を 賜ふといはば

草むらの 蛍とならば 宵々(よいよい)に 黄金の水を 妹(いも)賜ふてよ

身が焼けて 夜は蛍と 熱(ほと)れども 昼は何とも ないとこそすれ

 また次の唱和の歌もあります。

  与板山田の内室
烏めが 生麩(しょうふ)の桶へ 飛び込んで 足の白さよ 足の白さよ
  かへし     
雀子が 人の軒端(のきば)に 住みなれて 囀(さえ)づる声の その喧(かしま)しさ

喧(かしま)しと 面伏(おもてぶ)せには 言ひしかど このごろ見ねば 恋しかりけり
(面伏せには…面目を失うように)
      
 山田杜皐との唱和の歌もあります。

初獲(はつと)れの 鰯(いわし)のやうな 良法師 やれ来たといふ 子等(こら)が声々(こえごえ) (杜皐)

大飯を 食うて眠りし 報いにや 鰯の身とぞ なりにけるかも (良寛)

 文政13年(1830、12月10日に天保に改元)の夏、与板の山田家で、良寛と貞心尼の「からすとからす」の唱和連作歌があります。山田家のおよしが良寛をからすとあだ名をつけたことから始まった楽しい唱和の歌です。
  あるとき与板の里へ渡らせ給ふとて、友どちのもとより知らせたりければ、急ぎ参でけるに、明日ははや異方(ことかた)へ渡り給ふよし、人々なごり惜しみて物語り聞こえ交はしつ。打ち解けて遊びけるが中に、「君は色黒く衣も黒ければ、今より烏とこそ申さめ」と言ひければ、「実(げ)によく我には相応(ふさ)ひたる名にこそ」とうち笑い給ひながら、
いづこへも 立ちてを行かむ 明日よりは 烏(からす)てふ名を 人の付くれば(良寛)
  と宣ひければ
山がらす 里にい行かば 子がらすも 誘(いざな)ひてゆけ 羽(はね)弱くとも (貞心尼)
  御返し
誘ひて 行かば行かめど 人の見て 怪しめれらば いかにしてまし (良寛)
  御返し        
鳶(とび)は鳶 雀は雀 鷺(さぎ)は鷺 烏(からす)は烏 なにか怪しき (貞心尼)
  日も暮れぬれば、宿りに帰り、「また明日こそ訪(と)はめ」とて、
いざさらば 我は帰らむ 君はここに 寝(い)やすく寝ねよ はや明日にせむ(良寛)
  翌日(あくるひ)は疾(と)く訪ひ来(き)給ひければ
歌や詠まむ 手毬やつかむ 野にや出む 君がまにまに なして遊ばむ(貞心)
  御返し
歌も詠まむ 手毬もつかむ 野にも出む 心一つを 定めかねつも (良寛)

盆踊り
 文政13年(1830、12月10日に天保に改元)のお盆に、73歳の良寛は、盆踊りを夜通し踊り明かしました。すでに良寛の体には病気でむくみがきていたのかもしれません。
 手拭いで女装したところ、どこの娘さんだろうかと声をかけられたと、良寛が自慢したという逸話があります。
 その盆踊りを詠んだ歌があります。

風は清し 月はさやけし 終夜(よもすがら) 踊り明かさむ 老いの名残りに

月はよし 風は清けし いざ共に 踊り明かさむ 老いの思(も)ひ出に

いざ歌へ われ立ち舞はむ ひさかたの こよひの月に い寝らるべしや
(ひさかたの…月の枕詞)

もろともに 踊り明かしぬ 秋の夜を 身に病(いたづ)きの いるもしらずて

 良寛は体調の変化を自覚しており、最後の盆踊りとの思いがあったのかもしれません。

ざくろ
 由之は、新津の大庄屋桂誉正(たかまさ)の妻とき からいただいた柘榴7個を、文政13年(天保元年 1830)良寛73歳の年の10月13日付けで、良寛に贈りました。
 そのお礼の手紙に次の和歌三首を添えて、11月18日付けで、良寛は由之に送り、由之は19日付けの手紙で、とき宛てに送っています。

くれなゐの 七の宝を もろ手もて おし戴きぬ 人のたまもの

いつとても 良からぬとのは あらねども 飲みての後は あやしかりけり
(飲みての後…薬を飲んだ後)

かきてたべつ さいてたべ わりてたべて さてその後は 口も放たず

病臥した良寛と貞心尼
  文政13年(天保元年・1831)73歳の良寛さまは、夏頃から下痢の症状に苦しむようになりました。良寛の病気は直腸がんではなかったかと言われています。
 8月に寺泊に行く途中、地蔵堂の中村家で病臥したとき、秋萩の咲く頃に貞心尼の庵を訪問すると約束したのに、その約束を果たせなくなったことを詫びる手紙を、貞心尼に出しています。その中に良寛の次の歌があります。

秋萩の 花の盛りは 過ぎにけり 契(ちぎ)りしことも まだとげなくに (良寛)

 その後、良寛さまの病状ははかばかしくなく,冬になる頃には庵に籠もって、人とも会わないようにしていると、聞いた貞心尼は、次の歌を書いた手紙を出しました。
 良寛さまが人とも会わないのは、下痢の症状から、赤痢やコレラなどの伝染病かもしれないと思っていたためでしょう。

そのままに なほ耐へしのべ いまさらに しばしの夢を いとふなよ君(貞心尼)

 それに対して良寛さまは、次の真情のこもった歌を貞心尼に返しました。

あづさ弓 春になりなば 草の庵を とく出てきませ 逢ひたきものを (良寛)
(あづさ弓…春の枕詞)
(とく…早く)

 12月25日、貞心尼のもとに、良寛さまの病状が重篤になったという知らせが届きました。貞心尼が驚いて急いで訪ねると、良寛さまは、さほど苦しんでいる様子もなく、貞心尼の訪問をうれしく思い、次の歌を詠みました。

いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はむ (良寛)

 さらに次の歌も詠みました。

武蔵野の 草葉の露の ながらへて ながらへ果つる 身にしあらねば(良寛)

 人の命は草葉の露のようにはかなく、いつまでも生き永らえて、生き尽くせる身ではないという意味でしょう。

 良寛危篤の報は由之のもとにも走りました。由之の『八重菊日記』にあります。

  禅師(ぜじ)の君、久しく痢病を患ひ給ひて、今は頼み少なしと聞き、驚き参らせて師走の二十日まり五日の日、塩入坂の雪を凌いで参(もう)でしを、いと甚(いと)う喜び給ひて、この雪には如(いか)でと宣(のたま)ひしかば、
さすたけの 君を思ふと 海人の汲む 塩入坂の 雪踏みて来つ (由之)

心なき ものにもあるか 白雪は 君が来る日に 降るべきものか  (良寛)

 由之は、いったん与板に帰り、貞心尼に29日付けの手紙を送って、良寛のことを頼んでいます。
「一日二日は殊に寒さ耐へがたく候。病者、御扱い、御辛労、申すべき様もなく存じ奉り候。寒きにつけては、殊に案じられ候。どうぞ便りあらば、詳しくお知らせ下されたく候。御覧もむつかしからむと存じ、主(良寛)へは文も奉らず候。かしこ。
  二十九日
雪降れば 空を仰ぎて 思いやる 心さへこそ 消え返りぬれ   由之
貞心禅尼 御もとへ 」

 昼夜、一睡もせずに看病する貞心尼の目に、日に日に衰弱してゆく良寛さまの姿が見えました。貞心尼は悲しくなって次の歌を詠みました。

生き死にの 境(さかい)離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心尼)
(さらぬ…避けられない)
                              
 生死(しょうじ)の迷いの世界から離れて住んでいるはずの仏に仕える身にも、避けることができない死別のあることが、たまらなく悲しい、という貞心尼の悲痛な思いの伝わってくる歌です。
 この貞心尼の歌を聞いて、良寛さまは、次の返しの俳句を口ずさまれました。

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ (良寛)

 この句は、表と裏をひらひらさせ、よどみなく舞いながら散って落ちていく紅葉の姿から、執着しない、とらわれない、自在で滞らない生き方を学べという良寛さまの最後の教えだったのでしょうか。
 もみぢ葉が散ることは死を意味します。
 あるいは、貞心尼にはおもて(仏道の師匠としての良寛)も、うら(生身の人間としての良寛の真実の姿)もすべて見せました、もう思い残すことは何もありません、という良寛さまの最後の思いも込められているのでしょうか。

冬と病の歌
 病の良寛にとって、つらい冬を詠んだ歌があります。

奥山の 菅の根しのぎ 降る雪の 降る雪の 降るとはすれど
積むとはなしに その雪の その雪の

 12月25日の由之の日記に、良寛の病の歌があります。

ぬばたまの 夜はすがらに 糞(くそ)放(ま)り明かし
あからひく 昼は厠(かわや)に 走り敢(あ)へなくに (旋頭歌)
(ぬばたまの…夜の枕詞)
(すがらに…ずっと)
(糞放り…大便をして)
(あからひく…昼の枕詞)
(走り敢(あ)へなくに…走っても間に合わない)           

 下痢の苦しさを詠った歌があります。

言(こと)に出でて 言へば易(やす)けり 下り腹 まことその身は いや堪へ難し

 次の長歌もあります。

この夜らの いつか明けなむ
この夜らの 明け離れなば
老女(おみな)きて 尿(ばり)を洗はむ
展転(こまろ)び 明かしかねけり 長きこの夜を

 次の長歌もあります。

風まじり 雪は降りきぬ
雪まじり 風は吹ききぬ
この夕べ 起き居て聞けば
雁(かり)がねも 天(あま)つみ空を なずみ行(ゆ)くらし
(天つみ空…おおぞら)
(なずみ…難渋しながら)
                 
辞世の句
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

  この句以外にも、良寛の辞世の句といわれるものがいくつかあります。

形見とて 何残すらむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉

 この歌は由之の『八重菊日記』に、よせ子(山田杜皐の妻)が形見を請うた歌への御返しとあります。

散る桜 残る桜も 散る桜

 「散る桜」の句の出所は高木一夫『沙門良寛』。同書の写真版によれば「地蔵堂町字下町、小川五平氏(当主長八)ヨリ出デシ反古中ニアリシ」と相馬御風氏が記した文書に、「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉(これなきや)と人問ひしに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問ひしに、散桜残る桜もちる桜」とあります。
 ただし、良寛の最後を看取った人は、誰もこの句を記していませんし、遺墨も伝承もありません。古句が良寛の逸話に紛れ込んだのかも知れません。

良寛に 辞世あるかと 人問はば 南無阿弥陀仏と いふと答へよ

 この歌の出所は玉木礼吉氏の『良寛全集』です。

たくほどは かぜがもてくる おちばかなこの

  冨沢信明氏の「「焚くほどは風が持て来る落葉哉」は良寛の辞世の句である」(全国良寛会会報『良寛だより』第127号平成22年)によれば、この句は文政13年(1830)12月8日から12日の間に、短冊に書かれて鈴木牧之に贈られたものです。

 貞心尼は『はちすの露』に、良寛との最後の唱和の歌を記しています。

  病気が重篤になられて、薬やご飯も絶たれているとお聞きして
かひなしと 薬も飲まず 飯絶(いいた)ちて 自ら雪の 消ゆるをや待つ (貞心尼)
  御返歌              
うちつけに 飯絶(いいた)つとには あらねども 且(か)つやすらひて 時をし待たむ(良寛)
(うちつけに…だしぬけに)
(且つ…少しだけ)
                     
 下痢を伴う病状が悪化した良寛さまは、下痢を止めるために食事を絶ち、次いで薬も絶たれました。自然に命の灯(ともしび)が消えて行く時を待たれたのです。

来るに似て 帰るに似たり 沖つ波(貞心尼)
明らかりけり 君が言の葉 (良寛)

 「寄せては返す沖の波のように、命というものも、生まれて来ては、死んで還って行くのですね」と、貞心尼が唱(うた)うと、良寛さまは「あなたのおっしゃることはそのとおりで実に明らかなことです」と和(こた)えました。
 この貞心尼の前句(まえく)(575)に、良寛さまが付句(つけく)(77)で和えた短連歌で『蓮(はちす)の露』の唱和編は終わっています。

遷化
 天保2年(1831)1月6日、良寛は木村家で、木村家の家族、弟由之、貞心尼、遍澄らに看取られ遷(せん)化(げ)(せんげ)しました。享年74歳でした。同じ年に由之の長男の馬之助も亡くなったため、良寛の墓碑は、三回忌の時に隆泉寺の隣りの木村家墓地に建立されました。
 遷化後、幾ばくもない頃の良寛さまの妹・妙現尼と唱和した貞心尼の歌があります。

わかれては 立ちも帰らぬ さす竹の 君がかたみの 我身かなしも(貞心尼)

 良寛が木村家草庵に移住してから遷化するまでの間は、良寛にとって、病で衰えていく中でも、弟由之、貞心尼、遍澄、よせ子をはじめとした山田杜皐の家族、木村家の家族、その他多くの友人たちと、楽しく交流した、実に幸せな時代でした。

  良寛が示寂してから半年後、天保2年(1831)7月23日に由之の長男馬之助泰樹が43歳で亡くなりました。
 良寛の妹みか(妙現尼)は、次の良寛の哀傷歌と馬之助の哀傷歌を詠んでいます。このとき、みかは55歳でした。

  兄弟(はらから)なる禅師の君、身罷(みまか)り給ひしを嘆きて
泣く涙 塞(せ)きぞかねつる 藤衣 立ちも帰らぬ 人を恋うとて
  禅師の形見に衣を賜りて
我が袖に 洩るる涙を かけよとて 形見に残す 唐衣(からごろも)かな
  同じ年、甥なりける人の身罷りけるを嘆きて
香のみ 袖に残して 橘の 根に帰り行く 秋に遇(あ)ひけり
  身罷りし夜、月のいと明(あか)きを見て
濁り世の 憂(う)けくを捨てて ひさかたの 月の都に すみ上(のぼ)るらむ
  そのころ橘が家の前栽(せんざい)に鈴虫の鳴くを聞きて
耐へかねて 鳴く音なるらむ 鈴虫も 旧(ふ)りにし人の 昔恋ひつつ

天保4年 (1833) 貞心尼36歳の年。 
 良寛さまの三回忌に墓碑建立。墓前での貞心尼の歌があります。

立ちそひて 今しも更に 恋しきは しるしの石に 残るおもかげ

天保6年 (1835) 貞心尼38歳の年。
 貞心尼、初の良寛歌集『蓮(はちす)の露』を完成。
明治5年 (1872) 
 貞心尼没する。享年七十五歳。墓は柏崎の洞雲寺にあります。貞心尼の辞世の歌があります。良寛との最後の唱和の短連歌を踏まえているようです。

来るに似て かへるに似たり 沖つ波 たちゐは風の 吹くに任せて

 いつ詠まれたかは分かりませんが、次の歌が書かれた貞心尼の遺墨が残っています。
  恋は学問の妨げ
いかにせむ 学びの道も 恋草の 繁りて今は ふみ見るも憂(う)し (貞心尼)

いかにせん 牛に汗すと 思ひしも 恋の重荷を 今は積みけり (良寛)
(牛に汗す…汗牛充棟)