関西の良寬ゆかりの地

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関西の良寬ゆかりの地

蔵王堂付近 吉野紀行碑      

  奈良県吉野の金峯山(きんぷせん)神社の蔵王堂(国宝)正面に向かって左側の階段を降りて少し進むと、右手に良寛の吉野紀行の碑がある。平成六年、設立準備委員会建立(委員長和島村長清野精合)。発願、新潟県和島村、和島良寛会、和島観光協会。協賛、奈良県吉野町、全国良寛会
「 吉野紀行
  里へ下れば、日は西の山に入りぬ。あやしの軒に立ちて一夜の宿りを乞ふ。その夜は板敷の上に「ぬま」てふものを敷きて臥す。夜の物さへなければいとやすくねず、宵の間は翁の松を灯してその火影にいと小さきかたみ組む。何ぞと問へば、これなん吉野の里の花筐(はながたみ)といふ。蔵王権現の桜の散るを惜しみて、拾ひて盛りたまふ。そのいはれには、今も吉野の里には、いやしきものの家の業(わざ)となす。あるはわらわのもて遊びとなし、また物種入れて蒔きそむれば、秋よく実る。これもてる者は万(よろず)の災ひをまぬがると語る。あはれにもやさしくもおぼえければ、
  つとにせむ よしのの里の 花がたみ 」


高野山 奥の院参道 高野紀行碑      

  和歌山県の高野山奥の院の参道左側、豊臣家の墓の隣に良寛詩紀行碑がある。平成十一年、全国良寛会、高野山遍照光院、須磨寺正覚院 建立。制作、速水史朗。碑稿、加藤僖一。
【碑面】       【通読】
 高野道中買衣直銭  高野道中に衣を買うは銭に直(あたい)するや
一瓶一鉢不辞遠      一瓶(びょう)一鉢 遠きを辞せず
裙子褊衫破如春      裙子(くんす)褊衫(へんさん) 破れて春の如し
又知嚢中無一物      又た知る 嚢中無一物なるを
総為風光誤此身      総(すべ)て風光の為に 此の身を誤る

  さみづ坂といふところに里の童の青竹の杖をきりて売りいたりければ
  こがねもて いざ杖かわん さみづさか  」
【詩の本間訳】
高野山に参拝するために、(多くの人々は衣を買って身なりを整えるが、はたして)新しい衣は銭を出してまで買う価値があるのだろうか (ほかに買うべきものがあるのだ(現世利益を願うよりも仏法の会得を目指すべきだ)) 
(仏道を極めるためには)一個の水入れと鉢だけを携えての遠い道のりは苦にしない
腰衣と上衣はボロボロにすり切れて春霞のようだ
仮に衣を買おうと思っても、頭陀袋の中は空っぽだ
これは美しい風景を見ようと旅をした誤った行為の結果だろうか、(いや、自然法爾の悟りを得た人の風情 光儀を身に付けると、どういうわけか思いがけなく、このような一文無しの姿になるのだ)
※ 従来この漢詩の「直銭」の句は(無)の脱字とされ、衣服を買う金がないと解釈されてきたが、私は誤訳であると思う。

弘川寺 西行墓碑            
西行墳

 良寛に西行の墓を詣でた歌がある。西行の墓は大坂の弘川(ひろかわ)寺(かわでら)にある。
  西行法師の墓を詣でて花を手向けて詠める
手折りこし 花の色香は 薄くとも あはれみ給え 心ばかりは
 弘川寺に西行の墓があることを江戸時代に発見した似雲(じうん)法師は、ここで庵を結んで住み、西行堂を建立し、そして没した。西行記念館もあるが、桜と紅葉の時期だけ開館している。天然記念物の海棠のある庭園(拝観有料)もある。

勝尾寺

 良寛に勝尾(かちお)寺を詠んだ歌がある。
幾たびか まゐる心は 勝尾寺 ほとけの誓い 頼もしきかな
 勝尾寺には窮民を救い良寛が心酔した光明皇后直筆の法華経がある。

薬師堂(豊楽寺跡)、光明皇后宝篋印塔
 大阪府箕面市止々呂美に薬師堂(豊楽寺跡)がある。余野川の西側、スノーピーク箕面自然観の川の反対側あたり、箕面病院から南に川沿いの道を南に進み、セブンイレブン、音大より少し南側にある。
 良寛は勝尾寺に参拝する前に豊楽寺(現在は薬師堂のみ)に立ち寄った。豊楽寺は天平年間に光明皇后の開創という。火事で現在は薬師堂のみ。それも公共事業のため場所を移転した。しかし宝篋印塔は現在も薬師堂の隣に残っている。

高代寺 歌碑               

 大阪府豊能町の高代寺は標高489mの山頂にある。そのうえ、山の道路がすれ違い出来ないほど狭い。
高台寺に歌碑がある。昭和五十一年、真言宗高台寺住職山内一秀 建碑。岡本勝美氏の尽力による。 
【碑面】
  堂可能々美天良耳也東里天
都能久尓乃 堂閑能々於久能 不留轉耳 数起乃志都久遠 幾々安閑之都々
【通読】
    高野のみ寺に宿りて
津の国の 高野の奥の 古寺に 杉のしずくを 聞きあかしつ

桂川                       

  良寛の父以南は京都の桂川で入水自殺した。享年59歳。自殺の原因は、諸説あるが、勤王家であったため幕府から追及され、その末に自殺したという説は根拠が全くない。実際は、旅が生きがいの以南にとって、脚気(かっけ)になって旅が出来なくなったことなどで、鬱病になったのではないだろうか。

東福寺                     

 良寛の弟香(三男)は京都の菅原長親卿の学塾の塾長となったほどの秀才であったが、父以南の入水自殺後、父の自殺を止められなかったことを苦にして自殺未遂をおこす。やがて東福寺で出家し、東福寺で亡くなった。32歳の若さであった。病死説と自殺説がある。東福寺には作庭家重森三令による八相の庭がある。

東寺

 東寺(教王護国寺)は真言密教の寺院。良寛の生家の菩提寺は真言宗の円明院であり、良寛が住んだ寺も国上寺など真言宗が多い。良寛は京都で東寺も訪ねたと思う。

興聖寺                     

 良寛の知音の一人である大忍魯仙は出雲崎の雙善寺(そうぜんじ)で出家し、京都宇治の興聖寺(こうしょうじ)修行した。後に埼玉深谷の慶福寺の住職を務めた。興聖寺は日本曹洞宗の祖道元が京都の深草に建てた寺院、その後宇治に再建された。良寛の漢詩には規則を破ったものがあるが、大忍魯仙はその良寛詩の内容を評価し、弁護した。

須磨寺 須磨紀行碑 綱敷天満宮         

 神戸市須磨区須磨寺正覚院前に良寛の須磨紀行を刻んだ碑がある。建碑昭和六十二年、建立。撰文、谷川敏朗。書、加藤僖一。建立、三浦真厳。
【碑面】
「 須磨寺の 昔を問へば 山桜
あなたこなたとするうちに、日暮ければ、宿を求むれども、独者にたやすく貸すべきにしもあらねば、「よしや寝む 須磨の浦わの 波枕」とすさみて、綱敷天神の森を尋ねて宿る。里を去ること一丁ばかり、松の林の中にあり。「春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見へね」おりおりは、夜の嵐にさそわれて、墨の衣にうつるまで匂ふ。石灯籠の火はほのよりきらめき、うち寄する波の声も常よりは静かに聞こゆ。板敷の上に衣かたしきて、しばしまどろむかとすれば、雲の上人とおぼしきが、薄衣に濃き指貫して、紅梅の一枝を持ちて、いづこともなく来たりたまふ。今宵は夜もよし。静かに物語りせんとてうち寄りたまふ。夜のことなれば、気配も更に見へねども、久しく契りし人の如くに思ひ、昔今、心のくまぐまを語り明かすかとすれば、夢はさめぬ。有明の月に浦風の蕭蕭たるをきくのみ。手を折てうち数ふれば、睦月二十四の夜にてなんありける。」

明石 柿本神社

 良寛は明石で次の歌を詠んだ。
  浜風よ 心して吹け ちはやぶる 神の社(やしろ)に 宿りせし夜は
 神の社とは明石市人丸町にある柿本(かきのもと)神社ではないかと言われている。明石の駅から歩いても行くこともできるが坂が多いので注意。

赤穂城址 塩屋門 歌碑        

 赤穂城の塩屋門に良寛歌碑がある。昭和二十九年、赤穂市教育委員会建立。
「あこうといふところにて 天神の森に宿りぬ 
  小夜ふけ方 嵐のいと寒う吹きたりければ
 山おろしよ いたくな吹きそ 白妙の 衣片敷き 旅寝せし夜は  」
  「あこう」については「英賀保」との有力な説がある。