岡山県ほかの良寬ゆかりの地

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岡山県ほかの良寬ゆかりの地

円通寺                     

 元禄十一年(一六九八)徳翁良高が開山した曹洞宗の寺院。安永八年(一七七九)円通寺第十世大忍国仙和尚に伴われて円通寺にきた二十二歳の良寛は、ここで寛政三年(一七九一)三十四歳まで足かけ十三年間、本格的な修行を積んだ。本堂はかやぶき屋根。

印可の偈碑

 本堂の裏に良寛が国仙和尚から授かった「印可の偈」の碑がある。平成二十二年、補陀山円通寺・岡山県良寛会 建立。
【碑面】             【通読(本間)】
  附良寛庵主            良寛庵主に附す
良也愚如道転寛        良いかな愚の如く道転(うたた)寛し
騰騰任運得誰看        騰々任運得とも誰かは看せむ
為附山形爛藤杖        為に附す山形爛藤の杖
到處壁間午睡閑        到る處壁間午睡の閑たれ
  寛政二庚戊冬          寛政二庚戊冬
 水月老衲 仙大忍      水月老衲 仙大忍
【訳(本間)】
 良いぞ、まことに徹し、愚になりきっているお前の進む道はますます寛(ひろ)やかになってきた。
 分別心を働かせず無心になって精一杯生き、その結果の運命には身を任せるというお前の学んだ生き方をほかの誰が身につけて見せてくれるだろうか、それができるのはお前だけだ。
 その境地に達し、私の仏法を嗣いだことの証しとして先端に枝のある自然木の杖を授けよう。
 この杖を持ってどこにでも行きなさい。そしてどこへ行こうとも、托鉢に出れば疲れ果てて民家の壁と壁の間で昼寝するくらいの厳しい修行で身につけた閑々地の境地を保ち続けなさい。

高方丈

 良寛が国仙和尚から寛政二年(一七九〇)印可の偈を授かった髙方丈(八畳二間)は千畳岩の上に建てられた和風の建物で印象深い。

開山堂・位牌堂
 位牌堂には良寛の位牌がある。「覚樹庵六世大愚良寛高和尚」

良寛堂

  当時修行僧が寝起きした衆寮。木額がある。「良寛堂 永平元峰九十一翁」。

托鉢良寛像

 良寛堂の前に若き日の托鉢良寛像が建つ。この良寛像は、寂後百五十年を記念して、昭和五十六年、良寛山を慕う会、玉島ライオンズクラブによって建てられた。宮本隆 作。

良寛堂の前の詩碑(憶在圓通寺)

 良寛堂の前に詩碑がある。平成十二年建立。功徳主、井田武、迪子。
【碑面】                  【通読】
憶在圓通時 常歎吾道孤  憶(おも)ふ圓通に在りし時 常に吾が道の孤なるを歎ぜしを
搬薪憶龐公 踏碓思老盧  薪を搬んでは龐公(ほうこう)を憶ひ 碓(うす)を踏んでは老盧(ろうろ)を思ふ
入室非敢後 朝参常先徒  入室(にっしつ) 敢へて後るるに非ず 朝参 常に徒(と)に先んず
一自従散席 悠悠三十年  一たび席を散じて自従(よ)り 悠悠三十年
山海隔中州 消息無人伝  山海中州を隔てて 消息 人の伝ふる無し
感(旧)終有涙 寄之水潺湲  旧に感じて終(つい)に涙有り 之を水の潺湲(せんかん)たるに寄せん

白雲関

 修行僧が坐禅を組んだ禅堂。

覚樹庵跡
 良寛が庵主であったという覚樹庵の跡には椿があり、良寛椿と呼ばれている。侘助に似た白い花をつける。良寛歌碑もある。新潟県長岡市寺泊の良寛百花園にも良寛椿の苗木がある。

覚樹庵歌碑

 覚樹庵跡に歌碑がある。昭和五十六年、良寛さんを慕う会、玉島ライオンズクラブ 建碑。赤松月船筆。
【碑面】                                               形見とて 何かのこさむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

石書般若塔(せきしょはんにゃとう)

 白雲閣の裏手に石書般若塔がある。国仙和尚の時代、天明の飢饉の時(天明四年)に寄進されて造られた。大般若経六百巻の文字を一つの石に一文字ずつ書いたものが塔の下に埋められている。良寛の石書も入っていると言われている。

良寛詩碑(自来円通寺)

 円通寺境内の国民宿舎良寛荘の近くに、高さ5.5メートル、幅2.6メートルの花崗岩の詩碑がある。
長文の跋文もある。昭和六年、田代亮介、大宮季貞らによって建立。この詩の遺墨は田代亮介によって、円通寺に寄贈された。
【碑面】                  
 自来円通寺 不知幾春冬   
 門前千家邑 更不知一人   
 衣垢手自洗 食尽出城闉  
 曽読高僧伝 僧可可清貧   
【通読】 
 円通寺に来たりて自(よ)り  幾春冬か知らず
 門前 千家の邑(ゆう) 更に一人も知らず            
 衣垢(あか)づけば手をもって自ら洗(あら)ひ 食尽くれば城闉(じょういん)に出づ
 曽(かつ)て高僧伝を読むに 僧は可可(かな)り清貧なり  
【訳】
 円通寺に修行に来てから もう何年たったかわからない 
 門前は賑やかな町並みだが 特別に親しくしてくれる人は(多くの同僚にはいるが自分 には)いない
 僧衣が汚れれば自分の手で洗い 食糧がなくなれば町へ托鉢に出かける
 当時高僧伝を読んだ そこには清貧な生活をよしとされた高僧の生き様が記されてい

田代先生追憶碑
  良寛詩碑(自来円通寺)の近くに「田代先生追憶碑」がある。昭和九年建碑、柚木玉邨撰書。

句碑(山門横)
 山門の横に句碑がある。平成元年建立。近藤敬四郎 書。
【碑面】
  うらをみせ おもてをみせて ちるもみぢ

詩碑(夢中問答)
 山門下に詩碑がある。良寛没後百七十年を記念し、平成十二年、建立は (財)聖良寛奉賛会建立、岡山県良寛会、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会。
【碑面】                      【通読】
 夢中問答         夢中の問答          
乞食入市鄽 道逢旧識翁  乞食して市朝に到れば 路に旧識の翁に逢ふ
問我師胡為 住彼白雲峰  我に問ふ 師は胡為(なんす)れぞ 彼の白雲の峰に住めると
我道子胡為 占此紅塵中  我道ふ 子は胡為(なんす)れぞ 此の紅塵の中に占むると
欲答両不道 夢破五更鐘  答へんと欲して両り道(い)はず 夢は破る五更の鐘

円通寺公園頂上の良寛歌碑
 昭和四十二年建立。
【碑面】
 霞み立つ 長き春日(はるひ)を 子供らと 手毬(まり)つきつゝ この日暮らしつ

童と良寛像

 円通寺公園頂上に大きな石像がある。昭和四十一年、玉島ライオンズクラブ 建立。無形文化財指定の人形作家、平田郷陽(ごうよう)作。題字は良寛の筆蹟の集字という。

近藤万丈生家              

 土佐で良寛と出会ったという記録を残した近藤万丈は玉島の人であった。その生家は「燦然」という名前の日本酒を造っている酒屋(菊地酒造)で、円通寺の参道の近くにある。

真如庵跡 義堤尼印可偈碑  

 真如庵は国仙最後の弟子義堤尼が住んだ庵。今はない。平成二十七年(二〇一五)義堤尼の没後180年記念の「印可の偈」の碑が建立された。

水月庵跡
 国仙が入る予定だった水月庵には国仙は入ることなく遷化した。水月庵にあった国仙の墓を仙桂が守っていた。水月庵跡には仙桂の墓と、良寛が仙桂を讃えた内容の「詩碑」があった。仙桂の墓は、円通寺に移された。

新倉敷駅前 童と良寛像     

 円通寺の最寄り駅である新倉敷駅の前に童と良寛像がある。昭和五十一年玉島ライオンズクラブ建立。宮本隆 原作。

市民交流センター 天上大風碑

 倉敷市玉島阿賀崎の市民交流センターに、高さ4.5メートルの天上大風碑がある。玉島青年会議所が十五周年記念事業の一つとして、昭和四十六年に建立した。

良寬会館

 平成29年、備中・玉島に良寬さまの慈愛の心を伝える「良寬会館」が古民家を再生して開館。「良寬さま展示室」には良寬像や書画等約50点が展示。レストラン、喫茶室、無料休憩所あり。NPO吉備の国観光協会を中心に、備中玉島観光ガイド協会などで運営。

長連寺

 備中良寬こころの寺第二番。倉敷の美観地区の近くに長連寺があり、大忍国仙の墓碑と本堂の中に国仙の像がある。墓碑の碑文「當寺中興大忍仙大和尚」の筆者は円通寺十一世玄透即中禅師。

洞松寺

 備中良寬こころの寺第三番。平成9年に、『独住十四世東堂賞山覚了和尚葬儀控』(天明2年(1782))という文書の中に、「大愚上座」の文字が二個所確認できた。若き日の良寬である。

大通寺

 備中良寬こころの寺第四番。良寬が慕った玄賓(げんぴん)僧都(そうず)ゆかりの寺。円通寺時代、修行僧として良寬も参禅した。

長川寺

 良寬研究をライフワークとした長川寺(ちょうせんじ)三十世吉川彰準和尚の持論は、長川寺十五世徹岩観底和尚の眼前に、若き日の修行僧・良寬の姿があったのではなかったかというもの。

高知城下 草庵所在地

国分寺 

国分寺の西側の山麓       岡豊城跡から西を望む

岡豊城跡の西側の山麓

 近藤万丈が土佐で良寬と遭遇したことを記した『寝覚めの友』という記録がある。その記述は次のとおり。       「おのれ万丈、齢いと若かりし昔、土佐の国へ行きし時、城下より三里ばかりこなたにて、雨いとう降り、日さへ暮れぬ。道より二丁ばかり右の山の麓に、いぶせき庵の見えけるを、行きて、宿乞ひけるに、いろ青く面やせたる僧の、ひとり炉を囲み居し(以下略)」
 小林新一氏は『良寛巡礼』の中で、「土佐で良寛を考えている長谷部伸作氏の推理は、高知から約12 キロ少し山手に入ったところで、丸亀、善通寺、高知への道沿いで29 番札所国分寺の近く、昔は「まほろばの里」と呼ばれた村落から数百メートル離れた山沿いの片隅である。長谷部氏の案内で南国市岡豊(おこう)町を 歩いた」とある。私は国分寺と岡豊城跡にある高知県立歴史民俗資料館の間あたりの北方の山の麓ではなかったかと思う。

岩本寺

 高知県の西部四万十町(JR 窪川駅)にある岩本寺は、四国88 ヶ所霊場のうちの37 番札所。山門を入るとすぐ右に阿部定珍(さだよし)の案内碑(定經建立)がある。良寛の親友阿部定珍(阿部家七代)は良寛より二十一歳年少。良寛没後の七年後天保9 年(1838)2 月に四国巡礼の旅に妻子奉公人併せて六人で出発した。途中6月20 日に窪川の旅籠大坂屋金蔵方で病没した。土佐藩では火葬を禁じていたので、遺骸は岩本寺の住職らの計らいで、寺から700 メートルほど北方の山麓に葬られ、同行していた息子仁六郎(後の九代定緝(ていしゅう))によって墓碑は建立され、同行の人々は遺髪や爪などを持ち帰った。その後、定珍七回忌の天保15 年、次男定經(八代)が墓碑を建て替え、岩本寺に案内塔を建立した。この墓碑は大股山墓地にある。

善通寺

 空海ゆかりの真言宗の寺院。良寬が四国にいったとすれば、善通寺にも立ち寄っているものと思われる。