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 │法華経と浄土思想 │国学・老荘思想 │

高僧伝から学んだ清貧の思想

 良寛は曹洞宗の円通寺で、坐禅・作務(さむ)・托鉢などの厳しい修行を長い間真剣に続け、多くの経典、歴史上の高僧の伝記・語録、碧巌録(へきがんろく)などの公案(禅の問答集)を学び、深い仏教の学識を身に付けました。
 高僧の伝記を読んだり、当時としてはめずらしく清貧に生きた乞食僧・大而宗龍(だいにそうりゅう)の生き方を学んで、僧は清貧に生きなければならないという思想を持つようになりました。

愚を目指した良寛

 一切の欲望・煩悩を断ち、無心・無欲になりきり、こだわり・はからい・分別心をも捨て去って、本来の自分に具わっている清浄な仏の心で生きるという姿を禅僧は目指します。そうした境地で生きる姿は、一見すると愚者に見えます。
 国仙和尚は良寛に愚に徹しろとその進むべき道を示し、大愚良寛という名を与えたのではないでしょうか。

正法眼蔵の提唱と翻身の機

 愚を目指し、悟りの境地に到るため、厳しい坐禅修行を続けていた良寛は、行き詰まりを感じるようになったようです。
 そうした時、国仙和尚から、道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の提唱を受けました。坐禅などの修行は悟りに到るための手段ではなく、坐禅などの修行それ自体がそのまま仏道の実践であることや、坐禅をひたすら行うことに打ち込み、身心脱落(しんじんだつらく)(肉体と精神のすべての束縛・執着から解放されること)の境地に到ることがすべてであるというようなことを学んだのでしょう。
 この師国仙和尚から『正法眼蔵』の提唱を受けたことをきっかけに翻身(ほんしん)の機を迎えたということを、良寛は漢詩に詠っています。一段と悟境を深めたようです。

諸国行脚

 翻身の機を迎えてから、円通寺時代の後半でしょうか、時に諸国行脚(あんぎゃ)に出かけるようになったようです。全国各地の名僧知識をたずねて、問答を行うなど、さらに研鑽を積みました。

騰騰任運・随縁の生き方

 良寛は厳しい修行により、騰騰任運(とうとうにんぬん)・随縁の生き方を身につけました。
 騰騰とは自由自在に駆けまわり動くさま。
 任運とは自然のまま、仏法が自ずから運び動くに任せて造作をなさない意味であり、思慮分別を働かせず、自然のままに任せることです。
 騰騰任運とは時処に即して無我の妙用を表す意味です。
 騰騰任運とは、欲・作為・はからい・分別心を捨て、無心・無欲となり、そのときそのときを精一杯生ききること。そしてその結果の運命は受け入れるという生き方でしょう。
 長谷川洋三氏は『良寛禅師の悟境と風光』(平成九年大法輪閣)の中で次のように述べています。
 「騰々」は「とらわれることなく、明るく自在で、ゆったりとして」程の意味である。(中略)道元禅における「任運」とは「精一杯の努力をした上で各人の徳分に応じて与えられるものに従うこと」なのであり、何もしないで成り行きに任せるという意味ではまったくない!」
 随縁も騰騰任運と同じ意味合いの言葉です。

独創的な宗教者としての生き方

 師国仙和尚から印可(いんか)を受けた後、師国仙和尚の示寂を契機に、円通寺を去り、さらに諸国行脚を続けました。そして越後に還り、五合庵に定住するようになりました。それ以降は、曹洞宗門を自発的に離脱し、寺に住むこともなく、住職になることもありませんでした。
 僧侶は清貧であるべきと考え、名誉・地位・財産といった欲望をすべて捨て去り、一生、山中の草庵に独居しました。草庵では物質的には極端に簡素な生活でしたが、坐禅修行を生涯続けたのです。
 また、出家の仏と在家の仏が出合い、仏法などの布施の引き替えに財の布施を受ける托鉢こそが、釈尊(しゃくそん)の昔からの仏家の命脈であると考え、一生、托鉢行脚(たくはつあんぎゃ」)の生活も続けました。
 さらに、托鉢をはじめとした菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)の実践が、良寛にとっての衆生済度(しゅじょうさいど)の菩薩行(ぼさつぎょう)だったのです。                

 良寛の日々の生活のすべてが聖胎長養(しょうたいちょうよう)(悟後の修行)であり、こうした修行一途の生き方に徹したことによって、身心脱落の境地を得て、すべてを許容・受容する境涯に達し、類い稀な大きな仏徳を身に付けたのです。
 禅を極め、一切のはからいを超越した無心・無作(むさ)の境地で、まるで愚者の如く、自然法爾(じねんほうに)(おのがはからいを捨て、あるがままに身を任せること)、騰騰任運、縁に随って、清浄な仏の心のおもむくままに生きたのです。