良寛関係人物 ア行

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ア行

会津八一

飴屋万蔵 あめやまんぞう

阿部定珍

新木白雉 あらきはくち→ 新木与五右衛門富竹 あらきよごえもんとみたけ

新木与五右衛門富竹 あらきよごえもんとみたけ

新木与五右衛門勝富(十一代) あらきよごえもんかつとみ

木小自在 あらきしょうじざい → 新木与五右衛門周富 あらきよごごえもんちかとみ

新木与五右衛門周富 あらきよごごえもんちかとみ

会津八一(1881~1956)
 画家で勤皇の志士であった村山半牧が阿部家の良寛遺墨から集めた歌集を発行しようとしたが、維新の動乱の際に命を絶つた。半牧の遺志を継いで、小林二郎が『僧良寛歌集』を明治十二年に発行した。
 この良寛歌集を俳人正岡子規に紹介した人物がいた。歌人・書家・美術史家の会津八一である。
 八一は明治十四年に生まれ、中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。明治三十三年東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学した。『ホトトギス』に八一の俳句が掲載されたことをきっかけに、この年の六月、病気で帰郷する前に、根岸庵の正岡子規を訪ね『僧良寛歌集』を贈り、良寛の歌を紹介した。
  『ホトトギス』に掲載された正岡子規の「病状読書日記」にある。
「僧良寛歌集を見る。越後の僧、詩にも歌にも書にも巧なりきとぞ。詩は知らず、歌集の初めにある筆蹟を見るに絶倫なり。歌は書に劣れども万葉を学んで俗気無し。
 そのかみはさけにうけ つるうめのはなつちに おちけりいたづらにし て(良寛)
 やまさゝに、あられた ばしる、おとはさらさ ら、さらりさらり、さ らさらとせし、こゝろ こそよけれ、(良寛)
所謂歌人に勝ること万々。」
 八一の『根岸庵訪問記』に概ね次の内容の記録がある。
「予は良寛禅師の名が、子規子の筆によりて広く世上に紹介せらるべき日を待ち居るに、『ホトトギス』紙上の随筆に記され、大いに喜びしも、禅師生涯の佳作として挙げられしは、ただ二首のみ。そのうちの「やまさゝ」の旋頭歌は禅師の作にあらざりければなり。」
 八一は良寛を歌人として紹介したのに、子規が書を誉めたことは想定外のことであったようだ。
 また、八一は良寛を子規に初めて紹介したのは自分だと思っていたようである。
 しかし、冨澤信明氏の論文(全国良寛会会報『良寛だより』百二十三~百二十五号 平成二十一年)によれば、子規は八一と会う以前から良寛を知っていた可能性があるという。 冨澤信明氏の論文によれば、正岡子規が良寛を知るきっかけになった人物は、子規が奉職していた新聞『日本』で机を並べていた鈴木虎雄と桂湖南ではないかという。
 鈴木虎雄は良寛とも親交のあった鈴木文臺の孫で、文化勲章を授与された漢学者である。詩人豹軒、歌人葯房としても知られている。
 桂湖南は新津の大庄屋桂誉正、時子夫妻の孫である。時子は良寛の弟由之から和歌を学んでおり、時子からの好物のざくろを贈られた良寛はお礼の和歌三首を読んでいる。
 良寛の和歌は、正岡子規を通して、斎藤茂吉、伊藤左千夫など、明治の著名な歌人達に徐々に知られ、高く評価されるようになった。
 正岡子規の親友であった夏目漱石も子規を通して、良寛の詩歌や書を知るようになった可能性がある。

飴屋万蔵 あめやまんぞう
 新潟市中央区の東堀通りと柾谷(まさや)小路の交差点の南西の角に飴屋万蔵の店があった。今はない。
 逸話がある。三代目万蔵は良寛の書を信奉し、家運を開くため、良寛から店の看板を書いてもらいたいと日頃から思っていた。あるとき新潟に来た良寛を見つけ、看板にする文字を書いて欲しいと頼んだが、良寛はいい返事をしなかった。万蔵は良寛を追いかけながら、お願いを続けたが、良寛は看板の字を書くに相応しい筆と墨がないと言って断り続けた。そして、万蔵は地蔵堂までついてきた。とうとう根負けした良寛は、地蔵堂の大庄屋の富取家で、立派な筆と墨を借りて、看板の字を書いてやった。良寛はその日、ある人に語って言った。「私は今日、災厄に遭った」と。
 良寛が紙に書いた書は新潟町の火事で飴屋の店とともに焼失したが、五枚の看板は、店の前の東堀に投げ入れて、焼けずに済んだ。現在は新潟市歴史博物館「みなとぴあ」が収蔵している。

阿部定珍 あべさだよし
氏名・号   阿部家七代酒造右衛門(みきえもん)定珍(さだよし)、号は嵐窗、月華亭、養生館
生没年  一七七九~一八三八、良寛の二十一歳年少。
出身地  分水町(現燕市)渡部。渡部は国上山の麓にある。現在の大河津分水のあたりに家があった。
職業    庄屋阿部家七代、酒造業。
略歴    江戸に三年遊学した。和歌や詩文を好んだ。江戸の大村光枝と親しく交わった。円上寺潟の干拓に奔走した。法華経を信仰した。良寛没後の七年後天保9 年(1838)2 月に四国巡礼の旅に妻(わか)子(仁六郎)奉公人併せて六人で出発した。途中6月20 日に窪川の旅籠大坂屋金蔵方で病没した。土佐藩では火葬を禁じていたので、遺骸は岩本寺の住職らの計らいで、寺から700 メートルほど北方の山麓に葬られ、同行していた息子仁六郎(後の九代定緝(ていしゅう・さだつぐ))によって墓碑は建立され、同行の人々は遺髪や爪などを持ち帰った。その後、定珍七回忌の天保15 年(1844)、次男定經(八代)が墓碑を建て替え、岩本寺に案内塔を建立した。この墓碑は大股山墓地にある。
 息子の定経が八代を嗣ぎ、定憲は糸魚川の牧江家に養子に入り、定緝(さだつぐ)(純亭)は九代を嗣いだ。
 阿部家の良寛遺墨は国の重要文化財の指定を受けている。
良寛との関係  良寛の親友。阿部家は五合庵や乙子神社草庵とは地理的に非常に近いこともあり、互いに往き来して、良寛と多くの詩歌を唱和した。良寛に酒や食品など、多くの品物を贈り支援した。良寛の阿部家へのお礼の手紙が、良寛の書簡の中では群を抜いて多くなっている。
 五合庵を訪れた阿部定珍が帰宅する際に,定珍と良寛が唱和した歌がある。定珍の身を案じて詠んだ良寛の次の歌はよく知られている。
暫(しばら)くは ここに留まらむ ひさかたの 後には月の 出(い)でむと思(も)えば (定珍)
(ひさかたの…月の枕言葉)
月よみの 光を待ちて かへりませ 君が家路は 遠からなくに (良寛)
(月よみの…月の神様)
月よみの 光を待ちて かへりませ 山路は栗の いがの落つれば (良寛)
心あらば 草の庵に 泊まりませ 苔の衣の いと狭くとも (良寛)
(苔の衣…粗末な庵)

【新木与五右衛門富竹 あらきよごえもんとみたけ
氏名・号  与五右衛門の名は、代々継承される。号は白雉。
生没年  一七一一年生まれ。以南が四歳の時(一七四〇年)に三十歳で没した。徳昌寺に新木家の墓がある。
出身地  旧与板町(現長岡市)
職業  旧与板町の割元庄屋、新木家第九代。
略歴  与板町の和泉屋山田家四代四郎左衛門高重の第三子が新木家に養子に入り新木家第九代与五右衛門富竹(白雉)なった。温厚な性格で俳諧を好む。富竹(白雉)の妻まきには二人の妹がいた。よせは山田重翰(しげもと)(杜皐(とこう))の妻。もう一人の妹とみは、まきの三女すよが嫁いだ蓮正寺の住職真教の後妻となった。(すよが没したため。)
良寛との関係  良寛の祖父。富竹の第二子として重内が生まれ、橘屋に婿に入り良寛の父以南となった。

【新木与五右衛門勝富(十一代) あらきよごえもんかつとみ】
氏名・号  与五右衛門の名は、代々継承される。
生没年  以南の兄・十一代勝富は以南が入水自殺する前に没した。
出身地 旧与板町(現長岡市)
職業  旧与板町の割元庄屋、新木家第十一代。
略歴  第九代与五右衛門富竹(白雉)の長男、重内(以南)の兄。十一代与五右衛門勝富の妻タミは与板山田家の重記(しげき)の兄弟である。
良寛との関係  良寛の伯父

【新木与五右衛門周富 あらきよごごえもんちかとみ】
氏名・号  号は小自在
生没年  周富(小自在)は文化十一年(一八一四)六月に没する。享年五十八歳。
職業  旧与板町の割元庄屋、新木家十二代
略歴  以南の兄(九代富竹(白雉)の長男)が新木家十一代与五右衛門勝富となる。勝富と妻タミの子が周富(小自在)となる。周富(小自在)の娘むろは中村家九代権右衛門好哉(よしちか)に嫁ぐ。石田吉貞氏の『良寛 その全貌と原像』(塙書房 一九七五年)によれば、『北越名流遺芳』に、「小自在、資性真率にして、恬淡(てんたん)、名利に拘(かか)わらず、寵辱(ちょうじょく)を念とせず、夙(つと)に読書を好み、詩歌を嗜(たしな)む。嘗(かつ)て京都に遊ぶ。旅行携ふる所のもの、唯(た)だ、鶉籠(うずらかご)と茶具のみ。云々」とあるという。亀田鵬齋や虎斑和尚などとも交わる。
良寛との関係  良寛の一歳年上のいとこ。白雉の孫。