良寛関係人物 ナ行 ナ

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関係人物 ナ

内藤家 ないとうけ

内藤方廬 ないとうほうろ

中江杜澂 なかえとちょう

中川都良 なかがわとら・とりょう

中原元譲 なかはらげんじょう

中村旧左衛門好忠(以水) なかむらきゅうざえもんよしただ

夏目漱石 なつめそうせき

 

【内藤家 ないとうけ】
職業 石地の庄屋
良寛との関係  石地の庄屋内藤家が所有していた本居宣長の『漢字三音考』をぜひ読みたいと思った良寛は、八方手を尽くして、ようやく読むことができた。

【内藤方廬 ないとうほうろ】
氏名・号
生没年  文化十二年(一八一五)八月二十六日没。享年五十七歳。
出身地
職業  出雲崎尼瀬の儒者。
略歴
良寛との関係   良寛に頼まれ、乙子神社の宮額に「乙子大明神」と書く。宮額の裏には「文化十二年乙亥五月、涌井金吾敬白」と書かれている。涌井金吾は奉納者(国上村の庄屋涌井唯左衛門(いざえもん))である。

五適 ごてき →  中江杜澂 なかえとちょう
杜澂五適 とちょうごてき →  中江杜澂 なかえとちょう

【中江杜澂 なかえとちょう】
氏名・号   号は松窠道人、看雲子など。
生没年     一七四八~文化十三年(一八一六)没。享年六十八歳。
出身地・職業  京都の画家。
略歴  母と共に天明四年(一七八四)出雲崎に来る。以後十年にわたって、以南を頼って橘屋に寄食。詩、書、画、琴、篆刻の五つに優れていたので、五適と称する。寛政四年(一七九二)杜澂の老母が亡くなる。翌年、老母の納骨のため京都に帰る。その際、以南も同行する。
良寛との関係  良寛の書を「良寛禅師奇跡」と評する。良寛が「籠屋」と書いた扁額に杜澂が書き込みを入れ、合作を残す。

【中川都良 なかがわとら・とりょう】
氏名・号  中川権大夫。俳号は都良。
生没年  寛政十二年(一八〇〇)没
出身地  与板の人。
略歴  与板町(現長岡市)の中川権太夫(都良とら・とりょう)の妻は以南の姉ミナであり、その子は長太夫(蘭甫らんぽ)である。
  長太夫(蘭甫)は良寛の従兄弟である。中川家は俳諧一家であった。
良寛との関係  以南の追悼句集『天真仏』の追悼句のはし書の中に、以南を「北越蕉風中興の棟梁」と表した。

【中原元譲 なかはらげんじょう】
氏名・号  字は子敬、号は栗隠、赤陵、釣雪堂
生没年  一七九二~明治四年(一八七一)没。享年八十歳。
職業  新潟市西区赤塚の医師。
略歴  十七歳で江戸に出て苦学し、九年後に帰郷して医業を始め、名声を得て繁盛した。た。書や漢詩にもすぐれていた。
良寛との関係 元譲宛の書簡に「懐素(かいそ)の自叙帖(じじょちょう)のことは書けば長くなり候…」と書かれてある。懐素の自叙帖は良寛が最もよく習った草書の手本。
 大関文仲は、文政元年(一八一八)二十七歳の中原元譲を使者に立てて、文仲が書いた『良寛禅師伝』の校閲を良寛に依頼してきた。六十一歳の良寛は返事の手紙の中で「失礼千万」と書き、拒絶している。

【中村旧左衛門好忠(以水) なかむらきゅうざえもんよしただ】
氏名・号  号は以水
生没年  良寛より七歳年長。
出身地  旧分水町(現燕市)地蔵堂
職業  旧分水町(現燕市)地蔵堂の町年寄。酒造業(屋号は扇屋)
略歴 新木家七代の長男与五郎が養子に入り中村家五代九左衛門となる。
 新木家七代の次男九五郎が養子に入り中村家六代中村五助となる。
 中村家五代九左衛門の四男が中村家七代久右衛門祥平となる。その妻は新飯田村知野周平の娘。
 中村家五代九左衛門の八男が中村家八代旧左衛門好忠(以水)となる。その妻は地蔵堂富取家六代武左衛門正房の娘りさ(七代長太夫正則の妹、長兵衛・之則の姉)。
 好忠(以水)は大森子陽とともに大舟和尚に学んだ。
 白根新飯田の庄屋の知野平八の三男が中村家の養子に入り、中村家九代権右衛門好哉(よしちか)(一七八六~一八四四)となる。その妻は良寛の従兄弟の新木周富(小自在)の子むろ
良寛との関係  旧分水町(現燕市)地蔵堂の町年寄中村家は、良寛が大森子陽の三峰館に通っていたときに下宿した家である。新木家の親戚。妻の「リサ」は栄蔵(良寬の幼名)をかわいがった。

【夏目漱石 なつめそうせき】(1867~1816)
 夏目漱石が良寛を知る一つのきっかけは、大正三年一月に、漱石の東大英文学科時代の教え子だった山崎良平から、『僧良寛詩集』が贈られたことである。
 山崎良平は、燕市大曲の生まれで、新潟中学校(今の県立新潟高等学校)時代の明治三十六年に、校友会雑誌に『大愚良寛』という論文を掲載した。この論文がそのまま明治四十四年版の『僧良寛詩集』の巻末付録となり、大正三年一月に、当時糸魚川中学校の教諭であった山崎良平から漱石に郵送された。
  一月十七日付けの漱石から山崎良平宛の礼状があり、その中で、日本の漢詩人としてはトップクラスであった漱石が、良寛の漢詩は平仄(ひょうそく=漢詩の声調の規則)に無頓着であるが、まことに高きもので、古来の詩人のうちその匹(たぐい)少なきものであると評している。そして、漱石は良寛の書を高く評価し、手に入れようと強く望み、良寛上人の書を買い求めたいと山崎良平に依頼している。
 大正三年一月に夏目漱石が東京朝日新聞に連載した「素人と黒人(くろうと)」の四回目に次の文章がある。
 「良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えてゐた。詩人の詩、書家の書といへば本職という意味から見て是程立派なものはない筈である。それを嫌う上人の見地は黒人の臭を悪(にく)む純粋でナイーブな素人の品格から出てゐる。心の純なところ、気の精なるあたり、そこに摺(す)れ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。」
 明治四十三年、漱石は伊豆の修善寺で胃潰瘍の療養中に、大量吐血した。その時治療に当たった医師森成(もりなり)麟造が、翌年の二月に、郷里の高田に帰り、五月に結婚し開業した。麟造は二十八歳であった。麟造が帰郷した後、高田に火事があり、漱石は見舞い状を出している。さらに漱石は明治四十四年六月に、長野での講演の機会を利用して、森成医師宅を夫婦そろって訪問している。漱石と森成医師の東京での縁はわずか十ヶ月の短い期間ではあったが、漱石は森成医師の親切な看護に感謝し、森成医師は漱石の人柄に惹かれ、二人の交友は終生続いた。
 漱石はこの高田旅行の前の五月十七日の日記に「良寛が飴の好きな話をした」と書いている。漱石は良寛に強い関心を持っていたのである。
 大正三年十一月五日付けの森成宛の漱石の手紙の中に、「森成さんいつか私に書をかいてくれといいましたね.私は正直だからそれを今書きました。…御気に入るかどうか知りませんが私の記念だと思って取って置いて下さい。…良寛はしきりに欲しいのです。とても手に入りませんか」とある。漱石はこの頃、良寛の書を是非とも手に入れたいと思うようになって、森成医師に依頼している。
 同年同月、上野帝室博物館で開催されていた良寛展を津田青楓と連れだって見に出かけた。このとき漱石は、良寛の六曲屏風一双の書を見るなり「ああ。」と感嘆の一言を発し、「これなら頭が下がる」と評したという。
 大正四年十一月七日の森成宛の手紙に「時々先年依頼した良寛のことを思い出します。…手に入らないとあきらめてはいますが、時々欲しくなります。もし縁があったら忘れないで探して下さい。」とあり、どうしても良寛の書が欲しかったようである。
 大正五年三月十一日付の森成宛の手紙には、森成麟造の斡旋により良寛の遺墨を入手できたことの喜びと感謝の言葉が長々とあらたまった調子で書かれている。
 大正五年十二月九日、漱石は死去の二十日前に次の詩を作った。
  大愚至り難く志成り難し
  五十の春秋瞬息の程
  道を観るに言無くして
  ただ静に入り(後略)
 良寛に傾倒した漱石は、若い時から老荘思想に精通しており、大愚という良寛の生き方を理想とした。そして悟りの境地である「則天去私」という漱石の思想も、漢詩に表された良寛の思想の影響を受けたものと思われる。