良寛関係人物 ハ行 ハ

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関係人物 ハ

坡丈和尚 はじょうおしょう

林甕雄  はやしみかお

原田有則 ありのり → 原田鵲斎 はらだじゃくさい

原田鵲齋 はらだじゃくさい

原田正貞 はらだしょうてい

原坦山 はらたんざん

万元上人 ばんげんしょうにん

 

【坡丈和尚 はじょうおしょう】
氏名・号  中村坡丈
生没年  宝暦十年(一七六〇)生まれ。良寛の二歳年少。
出身地・職業  旧分水町(現燕市)、専念寺の和尚。
略歴  中村家七代久右衛門の甥。俳諧をたしなむ。
良寛との関係  字が下手だったので、良寛より「美醜に心を労してはいけない。無心になって書けば、自ずから風格がそなわる」と教えてもらう。良寛禅師奇話第五十四話に記載あり。

【林甕雄  はやしみかお】
氏名・号
生没年  一八六二没。享年六十余年
出身地  群馬県出身。
職業  国学者。歌人。良寛歌集を編纂した。

【原田鵲斎 はらだじゃくさい】
氏名・号  幼名は常七。名は原田有則、宗四郎。号は鵲斎、十畝園(じゅっぽえん)、薪山(しんざん)、俳名は木夫(もくふ)。屋号は田連居、思々亭。加茂に隠居してからは余年斎といった。
生没年  一七六三~文政十年(一八二七)没。享年六十五歳。良寛より五歳年下。
職業  医師
略歴  鵲斎は旧分水町(現燕市)真木山(まぎやま)の庄屋原田家六代仁左衛門の三男として生まれた。享和二年(一八〇二)本家から分家して旧分水町(現燕市)中島に移った。晩年は加茂市に隠居した。医業のかたわら、漢詩、和歌、俳諧にすぐれ、遺稿に詩稿一巻、歌稿数巻、俳諧連歌一巻などがある。
良寛との関係  三峰館時代の親しい学友。良寛帰国後の寛政九年(一七九七)、鵲斎は五合庵に良寛を訪ねる詩を詠んでおり、良寛が越後に帰国した頃から、詩文の才のあった医師の原田有則(鵲斎)と良寛は親しく詩歌を唱和したりして交流した。鵲斎の息子正貞も良寛と親しく交わった。
 文政十年(一八二七)良寛七十歳の年の二月十六日に、原田鵲斎が六十五歳で亡くなった。良寛は鵲斎の長男正貞と哀傷歌の唱和をしている。
  在(い)ますとき 深くも匂ふ 梅の花 今年は色の うすくもあるかな (正貞)
  何ごとも みな昔とぞ なりにける 花に涙を そそぐ今日かも (良寛)

【原田正貞 はらだしょうてい】
氏名・号  幼名は太一。維則(これのり)とも称した。
生没年   寛政元年(一七八九)生まれ。嘉永六年(一八五三)三月一日没。享年六十四歳
職業・略歴   江戸に遊学後、郷里に帰り、医を業とし、詩歌を楽しむ。
良寛との関係  原田鵲斎の子。父と同じく良寛と親しかった。十七歳の時、山本馬之助と義兄弟の契りを結び、歌をよく唱和する。良寛からの手紙が九通残る。

【原坦山 はらたんざん】
生没年 文政二年(一八一九)に生まれ、明治二十五年(一八九二)年示寂、享年七十四歳。
略歴 明治時代の仏教哲学者の原坦山は、儒学の昌平校を卒業した後、仏門には入った。風外本高に参究した後、心性寺、最乗寺に住し、東京帝国大学に明治十二年(一八七九)印度哲学科が創設されたときの初代講師に招聘された。その後、学士会員、曹洞宗大学林総監等を歴任し、明治の碩学(せきがく)、真の禅僧といわれた人物である。
良寛との関係 近世禅門における機略の名匠原坦山(たんざん)は、初めての良寛詩集である『良寛道人(どうにん)遺稿』を刊行した蔵雲(ぞううん)和尚の法弟であった。岡本勝美氏の『良寛争香』によれば、蔵雲和尚から頼まれて『良寛道人遺稿』の校評や略伝の草稿を書いたくらいであり、良寛のことはよく知っていた。
 その原坦山は良寛を「永平高祖(道元禅師)以来の巨匠なり」と称えたといわれる。
 玉木礼吉氏の『良寛全集』にある。「原坦山、常に禅師を敬慕して措かず、其の法華品に題する「如是高著眼、千百経巻在者裏」の詩を読むに至り、瞿然(くぜん)として曰(い)わく、我朝仏学の蘊奥(うんのう)を究めし者、空海以来唯此人あるのみと」

【万元上人 ばんげんしょうにん】
氏名・号  廣橋建武忠臣、名は慧海
生没年  新潟へ勧化の途上檀信町田坊方に病み、享保三年戊戌(一七一八)三月二十三日寂す。享年六十。墓は遺言により、五合庵の脇にある。
出身地  和泉国吉野郡上部郷の人
職業  国上寺中興の僧
略歴  相馬御風氏の『良寛百考』によれば、国上寺(こくじょうじ)再興の祖万元(ばんげん)上人は京都の人で、十六歳で比叡山に登り出家。内外典を究め、詩文を善くし、その名を聞いて筵請する公卿も多くいた。和歌をよくし、『野路の杖』という著がある。天和の初めに身の不幸に遭い、京都を逃れ、越後に来た。国上寺の良長僧都(そうず)が面倒を見てくれたので、荒れていた国上寺の再建に尽力した。その功績から、国上寺は万元上人の隠居後の生活のために、五合庵を建築し、毎日扶持米として五合の米を支給した。
 万元上人の身の不幸について、相馬御風氏は、万元上人の歌集にある次の歌などから、都落ちの裏には複雑なロマンスがありそうであると推測している。
  思ひでて 啼く音もたえず  もゝちどり そのきさらぎの けふの別れを
  君は我 われは君ゆえ 身をすてし 思ひかえすな おもひかへさじ
良寛との関係 良寛は、次の点などから万元上人を強く慕った。そして、万元上人ゆかりの五合庵に住むことを願ったのであろう。
・弱冠にして内外典を極めた点。
・女性との道ならぬ恋の悲しい別れがあった点。
・京を逃れ越後に隠れた点。
・国上寺の再建に身痩せ骨衰えるまで奔走した点。
・詩を賦し、和歌を詠じ、かつ滑稽を好んで狂歌俳諧をよくした点。