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関係人物 ヤ

安田靫彦 やすだゆきひこ

山田権左衛門 やまだごんざえもん

【安田靫彦 やすだゆきひこ】(1884~1978)
 安田靫彦(ゆきひこ)は明治十七年(一八八四)に東京日本橋の料亭の四男として生まれた。十五歳の年に帝室博物館で法隆寺金堂壁画の模写を見て感動し、画業を決意。 
 翌年、日本画家の小堀鞆音(ともと)に師事する。その後東京美術学校に進むも中退した。後に岡倉天心に認められ、二十五歳の年に日本美術院に招かれた。院展の初回より作品を出品し、再興院展にても尽力した。 
 安田靫彦は前田青邨(せいそん)と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。
 靫彦の作品「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ一九八一年、一九八六年、一九九六年に切手に用いられた。
 六十一歳の年に東京美術学校教授となり、昭和二三年(一九四八)六十五歳の年に文化勲章を受章した。
 七十五歳の年に年に財団法人となった日本美術院の初代理事長になり、八十二歳の年に東京芸術大学名誉教授となる。
 昭和五十三年(一九七八)九十四歳で永眠した。
 著名な日本画家安田靫彦は、良寛の書の魅力に惹かれ、敬愛した人物であり、良寛研究の第一人者でもあった。
 少年時代、習字が嫌いだった画伯が二十八歳の年に、初めて良寛の書を見た。一目見て良寛の書に惚れ込み、良寛の研究、遺墨収集に熱中するようになり、生涯続いた。 
 三十五歳の年に、いと夫人と結婚し、新婚旅行を兼ねて新潟に良寛の遺跡を訪ねた。
 佐藤耐雪翁とも懇意な関係であった。大正九年(一九二〇)三十七歳の年に、出雲崎の橘屋の跡地に建つ良寛堂を設計した。戦後に県の文化財(史跡)に指定された良寛堂は大正十一年(一九二二)に建立式が挙行された。二〇二一年が、良寛堂建立百周年の記念の年となる。
 また、四十四歳で佐藤耐雪翁の『良寛遺墨集』を監修した。
 国登録有形文化財である良寛記念館の設計者の谷口吉郎博士を佐藤耐雪翁に紹介したのも安田靫彦であった。
 本業は岡倉天心、横山大観の後を受けて再興院展の初代理事長に就任した日本画家であるが、ほかにも茶道、歌道、建築、書道にも卓越していた。
 編著書には『良寛・ふるさと』『くがみ』『安田靫彦の書』『良寛の書 安田靫彦の愛蔵品による』ほか多数がある。
 良寛を題材とした画も多く描いている。『良寛和尚像』『良寛貞心尼(初対面図)』『五合庵の春』『月の兎』など。

【山田権左衛門 やまだごんざえもん】
氏名・号  山田家五代権左衛門修富(ながよし)。幼名は勝弥。号は七彦(しちげん)、錬斎(れんさい)、右仲(うちゅう)ともいう。
生没年  一七六一~天保五年(一八三四)九月十日没。享年七十三歳。
職業  旧三島町(現長岡市)七日市の庄屋。
略歴  七日市の佐藤家は天領の庄屋筆頭であった。
良寛との関係  娘の「遊(ゆう)」が文化五年(一八三四)甥の馬之助に嫁ぐ。良寛から五通の手紙をもらう。そのうち四通は百合根をもらった礼状。懐素の「自叙帖」を良寛に貸す。