良寛関係人物 ラ行 ラリルレロ

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関係人物 ラリルレロ

蘭谷万秀 らんこくばんしゅう

隆全和尚 りゅうぜんおしょう

了阿 りょうあ

良寛 りょうかん

良長僧都 りょうちょうそうず

 

【蘭谷万秀 らんこくばんしゅう】
職業  出雲崎町の光照寺の玄乗破了の前住職。
略歴  橘屋の親戚で諏訪神社の神職であった池田石見守(いわみのかみ)の次男。
良寛との関係  幼少の良寛に習字などを教える。

【隆全和尚 りゅうぜんおしょう】
氏名・号  隆全阿闍梨。
生没年    ?~天保六年(一八三五)
職業  真言宗の僧。三条市の宝塔院の住職。
良寛との関係  良寛と同い年で、良寛が五合庵にいた頃、国上寺にいて親しかった。良寛は三条に出かけるとよく隆全和尚の宝塔院に立ち寄る。一月以上滞在する場合もあった。宝塔院では坐禅修行を重ねる。隠居していた隆全和尚は良寛から三条大地震の見舞状をもらう。

【了阿 りょうあ】
  良寛に文政九年(一八二六)七月四日付けの次の手紙がある。
「今日はわざと人遣はされ、委細承り候ふ処、御地へ住庵致すようにとの思し召しに候。野僧、近ごろ老衰致し、何方(いずかた)へも参る心これなく候。何卒(なにとぞ)その儀は、然(しか)るべき人にお頼み遊ばされ下されたく候。以上。
  七月四日                     良寛
  了阿君 」
 宛名の了阿が何者なのかよくわからず、寺泊町の回船問屋で町年寄だった外山茂右衛門が出家して良阿と号しているのではないかという渡辺秀英氏の説を、谷川敏朗氏の『良寛の書簡集』が紹介している。了阿が良阿だとすれば、良寛を乙子神社草庵から寺泊に移住させようと誘った良阿の手紙への、これは良寛の断りの返事だということになる。

【良寛 りょうかん】
 越後の名僧良寛は、一七五八年出雲崎の名主橘屋(たちばなや)の長男として生まれました。少年時代は、地蔵堂(燕市分水地域)の中村家に下宿しながら、大森子陽(しよう)の学塾・三峰館で学びました。名主見習役であった栄蔵(良寛の幼名)は十八歳の時に、生家を飛び出し、その後、坐禅修行を始めました。
 さらに、二十二歳の時に、越後に仏教の教えをひろめにきた国仙和尚により、尼瀬の光照寺で正式な僧侶になりました。そして、国仙和尚とともに備中(岡山県)玉島の円通寺に赴きました。
 円通寺で厳しい修行を積んだ良寛は三十三歳の時に、師の国仙和尚から悟りの境地に達したことを証明する書状「印可(いんか)の偈(げ)」を授かりました。
 その後も諸国行脚の修行を続け、三十五歳の春に越後に帰国しました。
 帰国後も諸国行脚を続けましたが、遅くとも四十歳までには、国上山(くがみやま)の五合庵に定住しました。五合庵に定住してから、良寛は坐禅修行を続けながら、清貧の托鉢(たくはつ)僧として生きました。仏道修行のかたわら、子供たちと手毬(てまり)やかくれんぼなどで一緒に遊んだりしました。一方で、万葉集や書の古典を学び、優れた詩歌を詠み、美しい書を書きました。
 また、亀田鵬斎(ぼうさい)、大村光枝など多くの文人や、阿部定珍(さだよし)、解良叔問(けらしゅくもん)、原田鵲斎(じゃくさい)などの友人と交流しました。
 五十九歳の年に国上の乙子(おとご)神社草庵に移住しました。この頃が良寛の芸術が最も円熟した時代でした。六十九歳の年に島崎(長岡市和島地域)の木村家庵室に移住しました。晩年には、貞心尼や弟の由之(ゆうし)との心温まる交流がありました。
 天保二年(一八三一)七十四歳で亡くなりました。

【良長僧都 りょうちょうそうず】
職業  旧分水町(現燕市)の国上寺の住職。
略歴  万元上人を迎え入れて、国上寺の再興に尽くす。万元上人のために五合庵をつくり、一日に五合の米を扶持米としておくる。