良寬 珠玉の言葉 11~20

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奈何せん蒼生の罹を

 良寛に「伊勢道中苦雨作」と題した漢詩355があります。国仙和尚が示寂した三十四歳の年から翌年にかけて、良寛は関西を旅し、その後越後に帰国しました。その途中、京都から伊勢までの道中、雨が降り続き、前年の大風の被害と併せて、再び水害の被害に農民は見舞われました。良寛はそんな農民の窮状を案ずる漢詩を詠んでいます。

我 京洛(けいらく)を発して従(よ)り 
指を倒せば十餘(よ)支なり
日として雨の零(ふ)らざるは無く 
之を如何(いかん)ぞ思うこと無からん
鴻雁(こうがん) 翅(つばさ)応(まさ)に重かるべく桃花 紅(はな)転(うたた)垂(た)る
舟子(しゅうし) 暁に渡(わたしば)を失ひ 
行人(こうじん) 暮に岐(わかれみち)に迷ふ
我が行(たび) 殊(こと)に未だ半(なか)ばならず 
引領(いんりょう) 一に眉を嚬(ひそ)む        
且(か)つ去年(こぞ)の秋の如きは 
一風 三日吹く         
路辺 喬木(きょうぼく)を抜き 
雲中 茅茨(ぼうし)を揚ぐ
米価 之が為に貴(たか)く 
今春 亦(ま)た斯(か)くの若(ごと)し
斯くの若くして若(も)し止(や)まざれば 
奈何(いかん)せん蒼生(そうせい)の罹(なやみ)を
(渡を失ひ…増水で舟を出せず)
(引領…首を伸ばして)
(茅茨…茅葺きの屋根)
(蒼生…民百姓)

 越後に帰国して直ぐに、暴風雨が続いて堤防が決壊した惨状を詠んだ漢詩456もあります。「寛政甲子夏」という題の漢詩ですが、寛政に甲子の年はなく、「寛政四子」の誤りとの説があります。その漢詩の中に次の句があります。   

凄凄たり芒種の後 玄雲 鬱として披(ひら)かず
疾雷 竟夜(きょうや)振(ふる)ひ 暴風 終日吹く
洪潦(こうろう) 階除(かいじょ)に襄(のぼ)り 
豊注(ほうちゅう) 田菑(でんし)を湮(うず)む
里に童謡の声無く 路に車馬の帰る無し 
 (豊注…大雨)

茲に来って淳を喪ふ莫れ

 役人たちが田舎に来ては過重な年貢を取り立て、農民の淳朴さや平和な暮らしを奪うことが多々あったのだろうか。田舎の淳朴な農民を愛した良寛は、そのようなことをしないでほしいとの思いを漢詩470に詠っています。

草虫(そうちゅう) 何ぞ喓喓(ようよう)たる 
烟火(えんか) 四隣を弁ず
似ず城中の夜の 
柝(たく)を撃(う)って数(しばしば)辰(とき)を報ずるに
柴を焼(た)いて紙燭(しそく)に充(あ)て 
席(むしろ)を織りて来春に供(きょう)す
合家 団欒(だんらん)して話(かた)り 
偽(ぎ)も無く亦(ま)た真も無し
為(ため)に報ず 名教(めいきょう)の子(し) 
茲(ここ)に来(きた)って淳(じゅん)を喪(うしな)ふ莫(なか)れ
(喓喓たる…にぎやかに鳴くようす)(四隣を弁ず…近所の家がわかる)
(柝…拍子木(ひょうしぎ))
(合家…家族が集まって)
(名教の子…教養のある人達(お役人)) (淳…淳朴さ、平和な暮らし)         

 この詩について、宮栄二氏は『良寛のふるさと』の中で、次のように述べています。
「役人ばかりでない。名士や教育者たちがこの平和の里にやってきて、郷民の純朴さをみだしてはならぬ、というのである。ここには武士、役人の権力者層およびその使徒たる学者、道士たちと、草莽の民との間に大きく立ちはだかっている良寛の姿を見る。偉大な抵抗精神といわねばならない。」           
 徳川幕藩体制下の差別・搾取された農民には名利など望むべくもなく、ただ、平穏に家族が暮らせることだけを願っていました。良寛はそうした農民とよく一緒に酒を酌み交わしました。良寛にはそんな情景を詠った漢詩もあります。

盗人に とり残されし 窓の月

 良寛の慈愛の心は、貧しい農民だけでなく、ドロボウにも注がれました。ドロボウの多くは貧しいが故のやむを得ない事情からの行いだとわかっていたのでしょう。

 良寛の逸話があります。ある晩、良寛の何もない庵にドロボウが忍びこみました。ドロボウはいろいろと物色しましたが、盗む物が見当たりません。せいぜい良寛が使っている布団ぐらいです。ドロボウが来たことにうすうす気づいた良寛は、ドロボウが布団を盗みやすいように、わざと寝返りを打って、布団から転がり出ました。ドロボウはまんまと布団を盗んでいきました。
 ドロボウが帰った後、良寛は窓から見える満月を見て、一句吟じました。

盗人(ぬすびと)に 取り残されし 窓の月

 月は仏の心の象徴であり、ドロボウは布団を持ち去ることができても、月(仏の心)は持ち去ることはできなかったのかなあとの思いを込めて吟じた句であるかもしれません。
 このウイットに富む句はパリの地下鉄でフランス語に訳した日本の俳句のコンクールで一位になりました。

 また、旧暦の十月の頃、蓑を一枚だけ来た旅人が、良寛の庵に来て、物乞(ものご)いをしました。良寛は自分が着ている衣服を脱いで、さし上げました。その晩、嵐が大変寒く吹き荒れました。良寛は自分の着るものがなくて、たいそう寒いにもかかわらず、物乞いをした旅人の身を案じて、歌を詠みました。

たが里に 旅寝しつらむ ぬば玉の 
夜半(よわ)のあらしの うたて寒きに
(ぬば玉の…夜の枕詞)(うたて…ひどく)

欲無ければ一切足り 求むる有れば万事窮まる

 良寛の生き方を一言で表せば、過剰な欲望を自制して簡素に生きる「清貧」の一語に尽きます。良寛の清貧の生き方を詠った漢詩516があります。

欲無ければ 一切足り
求むる有れば 万事窮窮(きわ)まる
淡菜 饑(う)ゑを療(いや)す可く 
衲衣 聊(いささ)か躬(み)に纏(まと)ふ    
独往して 糜鹿(びろく)を伴とし 
高歌して 村童に和す
耳を洗ふ 巌下の水 
意に可なり 嶺上の松
(窮まる…満足できずに行き詰まる)(淡菜…菜っ葉) (衲衣…僧衣) (糜鹿…鹿)
(意に可なり…心地よい)

 また、知足(足を知る)を詠った漢詩721もあります。

方外 君羨む莫(なか)れ 
足るを知らば心自ら平らかなり
誰か知らん 青山の裏(うち) 
虎と狼の有らざるを
(方外…うき世の世界、仙人又は仏教の世界)
(青山…山の中)

 良寛の清貧の思想は、円通寺での修業時代に、禅の高僧の伝記を読んで学んだ面もあるようです。そのことを詠った漢詩354もあります。

円通寺に来たりて従(よ)り 
幾回か冬春を経たる
門前 千家の邑(ゆう) 
乃(すなわ)ち一人も識らず     
衣垢(あか)づけば手をもって自ら濯(あら)ひ 
食尽くれば城闉(じょういん)に出づ
曽(かつ)て高僧の伝を読むに 
僧は可可(かな)り清貧なり   
(冬春…年) (邑…町)
(一人も識らず…托鉢に出ても特別親しくしてくれる人は一人もいない)
(城闉に出ず…市中に托鉢に出かける)
(僧は可可り…高僧の多くは)

清秋の夜 月華中流に浮かぶ 瀰猴之を探らんと欲して 相率ゐて水中に投ずるがごとし

 世間の人々は、愛欲、煩悩のために、快楽、金、財産、地位、権力、名誉などを求めるばかりであると嘆いている良寛の漢詩455があります。

我れ世間の人を見るに 
総て愛欲の為に籌(はか)る
之れを求めて得ざる有れば
心身更に憂愁す
縦(たと)ひ其の欲する所を恣(ほしいま)まにするも終(つい)に是れ能(よ)く幾秋(いくとし)ぞ
一たび天堂の楽(らく)を受けて
十(と)たび地獄の囚(しゅう)となる
苦を以て苦を捨てんと欲し
之れに因(よ)って永くに綢謬(ちゅうびゅう)す
譬(たと)へば清秋の夜 
月華中流に浮ぶ
瀰猴(びこう)之を深(さぐ)らんと欲し
相率(ひき)いて水中に投ずるがごとし
苦(いたま)しい哉(かな)三界の子 
知らず 何(いつ)の日か休(や)まん
遥夜(ようや) 熟(つらつ)ら思惟すれば 
涙下りて収むること能(あた)はず
(籌る…求めてやまない)
(綢謬す…煩悩がまとわりついて離れない)
(中流…川面)
(瀰猴…猿たち)
(休まん…この妄執から抜け出せるのか)        
 また良寛に、首句が「自従一出家 不知幾箇春」の漢詩60があります。
 この漢詩で良寛は、「蓄財に奔走し、財を貧しい隣人に分け与えることもしない人がいる。そうしてその人が死んだ後は、蓄えた財産は他人が使い、本人の名声が後世に伝わることはない」と嘆いています。

 良寛に、人の貪欲な心の果てしないことを嘆く文章があります。

天の高きもはかりつべし。地のあつきもさぐりつべし。ただ五尺の人の心中こそ知れがたし。おそるべきは人の心なり。

終夜榾柮を焼き 静かに古人の詩を読む

 良寛に、静かな山中でひっそりと生きているという心境を詠んだ歌があります。

やまかげの 岩間を伝う 苔水の かすかに我は すみわたるかも

  草庵の中では坐禅をしていました。そんな漢詩337もあります。

蕭条(しょうじょう)たり三間(さんげん)の屋(おく) 終日 人の観る無し      
独り間窓の下に坐し 
唯(た)だ落葉の頻(しき)りなるを聞く
(坐し…坐禅をする)

 良寛の住んだ五合庵はきわめて簡素な造りだったようです。そんな庵を訪れる来客と酒を酌み交わした情景を詠んだ歌があります。

吾が宿(やど)は 竹の柱に 菰(こも)すだれ 
強(し)いて食(を)しませ 一杯(ひとつき)の酒

 良寛は冬になると、草庵に籠もり、雪の降りしきる夜には囲炉裏で薪を焚いて、読書などをしていたようです。そんな厳しくも静謐な生活を詠んだ漢詩472があります。

玄冬十一月 雨雪正に霏霏(ひひ」)たり
千山同一の色 万径 人行稀なり    
昔游(せきゆう)総(す)べて夢と作(な)り 
草門深く扉を掩(おお)ふ
終夜榾柮(ごっとつ)を焼(た)き 
静かに古人の詩を読む
(霏霏たり…絶え間がない)
(昔游…昔あちこち歩いたこと)
(榾柮…ゴツゴツした木の切り株などの薪)

 長い間病気で寝込んで、冬の寒さが身にしみるという悲痛な思いを詠った歌もあります。
埋(うづ)み火に 足さしくべて 臥(ふ)せれども 今度(こたび)の寒さ 腹に通りぬ
(埋み火…囲炉裏の灰の中の炭火)

形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

 清貧に生きた良寛には形見にするような品々もなく、辞世を請われたときの歌で、春の花(桜)、夏のほととぎす、秋のもみぢ葉が私の形見ですと詠んでいます。
  川端康成はノーベル文学賞受賞講演の中で、良寛の辞世の和歌を引用し、日本の神髄を伝えたと述べ、四季の明瞭な「美しい日本」の自然を愛し友とする日本人の生き方を紹介しました。

 美しい自然を愛し、自然とともに生きた良寛には、月と花だけあれば十分だと詠った歌もあります。

こと足らぬ 身とは思はじ 柴の戸に 月もありけり 花もありけり

 この歌の「月もありけり花もありけり」は、中国の宋の時代の蘇東坡の言葉「無一物中(むいちもつちゅう)無尽蔵、花有り、月有り、楼台有り」を踏まえたものであるかもしれません。

 良寛に、自分は感情を持たない金や石ではなく、美しい自然の移り変わりにしたがって、心は動かされると詠った漢詩429があります。

八月 涼気至り 
鴻雁(こうがん) 正(まさ)に南に飛ぶ
我も亦(また) 衣鉢を理(ととの)へ 
得得として翠微(すいび)を下る
野菊(やぎく)は清光を発し 
山川(さんせん) 秀気多し
吾は生 金石に非(あら)ず 
物に随ひ意 自(おのずから)ら移る
誰(たれ)か能(よ)く一隅(いちぐう)を守り 
兀兀(ごつごつ)として鬢(びん) 糸を垂れしめんや
(鴻雁…雁)
(衣鉢…托鉢の身支度)
(得得として…おもむろに)
(翠微…緑の山)
(物に随ひ…自然の風物の移り変わりにしたがって)(兀兀として…坐禅をして
(鬢 糸を垂れしめんや…白髪になろうか)

一衣一鉢

 清貧の修行僧として生きた良寛の持ち物と言えば、僧服一着と托鉢の際に持ち歩く小さな鉢(応量器)一箇ぐらいでした。良寛は所有物を持たない自分の生き方を「一衣一鉢」(いちえいっぱつ)という短い言葉で表現しています。「還郷作」と題する漢詩243があります。

家を出て国を離れて知識を訪ね     
一衣一鉢(いちえいっぱつ) 凡(およ)そ幾春ぞ  
今日郷に還りて 旧侶(きゅうりょ)を問へば     
多くは是れ 名は残る苔下(たいか)の人
(知識…名僧)(旧侶…旧友の消息)
(苔下…苔むした墓の中)
 また、「托鉢」という題の長い漢詩413の中に次の句があります。
浄飯(じょうぼん)王子 曾(かつて)て消息し
金色(こんじき)頭陀(ずだ) 親しく受け伝ふ
親しく受け伝へて 爾来(じらい)  二千七百有餘年
我も亦(ま)た是(こ)れ釈氏(しゃくし)の子
一衣一鉢(いちえいっぱつ) 迥(はる)かに灑然(さいぜん)たり
(浄飯王子…釈尊)
(消息…托鉢で生きていた頃、霊鷲山で説法した)(金色頭陀…摩訶迦葉)
(受け伝う…拈華微笑として知られるが、釈 尊から以心伝心で仏法の真髄を受け継いだ)
(灑然…俗塵を洗い落としたようにさっぱりする)

 五合庵では料理に使う擂(す)り鉢で来客の足を洗い、来客が辟易(へきえき)したという逸話が残っています。そんな五合庵の暮らしを詠んだ漢詩387もあります。
索索(さくさく)たる 五合庵 
実に懸磬(けんけい)如く然り
戸外杉千株 壁上偈(げ)数編
釜中(ふちゅう) 時に塵(ちり)有り 
甑裏(そうり) 更に烟(けむり)無し
唯(ただ)東村に叟(そう)有り 
頻(しき)りに叩(たた)く月下の門
(索索たる…何もない)
(懸磬如く…「ヘ」の字の楽器の形)
 (偈…仏教の漢詩)
 (甑裏…米を蒸す甑)(叟…おきな)

襤褸又た襤褸 襤褸これ生涯

 ぼろを着て又ぼろを着る、ぼろを着ることこそ私の生きざまと詠った良寛の漢詩464があります。

襤褸(らんる)又た襤褸 
襤褸是れ生涯
食は裁(わず)かに路辺に取り 
家は実(まこと)に蒿萊(こうらい)に委ぬ
月を看て終夜嘯(うそぶ)き 
花に迷うて言(ここ)に帰らず
一たび保社(ほうしゃ)を出でて自り
錯(あやま)って個の駑駘(どたい)と為る
(襤褸…ぼろの衣服)
(蒿萊…背の高い雑草)
(嘯き…詩歌を吟じ)
(保社…修行した寺、すなわち円通寺)
(駑駘…のろまな馬)
 厳しい修行を終え、円通寺を去った良寛は、ぼろをまとい、食は托鉢で得るという清貧の生活ながら、月と花に心を動かされる日々を過ごしています。そしてそんな自分をのろまな馬のようだと自嘲しているかに見えます。
 しかし、良寛はりっぱな高僧になろうなどというようなはからいや分別心も捨て、一切のものにとらわれない無心で作為のない境地で生きているにすぎません。そうした生き方がはた目からはのろまの馬に見えると言っているのでしょう。

 良寛は春の霞みのようにひらひらしたぼろな僧衣を着ているという句(七斤の布衫(ふさん)破れて烟りの若し)を詠んだ漢詩416(首句は自出白蓮精舎会)もあります。
 また「騰騰」という題の漢詩408の首句に、不釣り合いな格好の服を着たという語句もあります。
裙子(くんす)短く 褊衫(へんさん)長し
騰騰(とうとう)兀兀(ごつごつ) 只麼(しも)に過ぐ陌上(はくじょう)の児童忽(たちま)ち我を見
手を拍(う)ち斉(ひと)しく唱ふ放毬歌(ほうきゅうか)
(裙子…袴のような僧衣)
(褊衫…袈裟の下に着る僧衣)
(騰騰…托鉢などで元気よく歩くさま)
 (兀兀…坐禅などでどっしりしたさま)
(只麼…ただあるがまま)
 (陌上…道ばた)

焚くほどは 風がもてくる 落ち葉かな

 良寛の逸話があります。
 長岡藩主の牧野忠精(ただきよ)公が良寛の名声が高いことから、長岡城下に良寛を招こうと考えました。そして五合庵に良寛を訪ね、立派な寺を用意するからぜひ、長岡城下に来てほしいと要請しました。ところが良寛は、「焚(た)くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」という俳句を書いた紙をお殿様に渡したのです。
 私の庵(いおり)で燃やして煮たきするくらいは、風が吹くたびに運んでくれる落ち葉で、十分間に合います。だから私にとって、この山での暮らしは、物に乏しくとも心は満ち足りているのです。というような気持ちをこめて、お殿様の要請をやんわりと断ったのです。この逸話は歴史的な事実ではないと思われますが、いかにも良寛にふさわしい逸話です。

 小林一茶の『七番日記』の文化十二年(一八一五)十月の条に、この句によく似た次の句が出ています。

焚くほどは 風がくれたる 落葉かな

 良寛は一茶の句からヒントを得てこの句を作ったのではないかと説が広がっていました。
 しかし、一茶の『七番日記』が世に出たのは明治四十三年であり、良寛は一茶の句を見ていないのです。

 冨澤信明氏は「「焚くほどは風が持て来る落葉哉」は良寛辞世の句である」(『良寛だより』百二十七号 平成二十二年)の中で、次のように述べています。
 天保三年に上梓された『發類題越後獅子』巻二の冬の部に落葉の題で良寛作の「焚くほとハ風可持天来る落葉哉」の句がでてくることから、良寛作の句であることは間違いがない。
 そして、良寛の辞世の句と考えられることから、一茶の句の方が先に作られたと思われるが、公に上梓された句集に出ているので、良寛の句の方が先に世に出たものであることは誰も否定できない。