良寬 珠玉の言葉 21 ~30

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従ひ乳虎の隊に入るとも 名利の路を践む勿れ 名利纔かに心に入らば 海水も亦た澍ぎ難し

 良寛に「僧伽」と題した長詩390があります。当時の堕落した仏教界を批判した内容であり、純粋に仏の道に生きた良寛独自の生き方を表した重要な漢詩です。それゆえ、良寛の墓碑に刻む漢詩として、鈴木文台によってこの漢詩が選ばれました。 その一部を掲げます。

白衣(びゃくえ)にして道心(どうしん)無きは
猶尚(なお)是(こ)れ恕(ゆる)す可(べ)し
出家にして道心無きは 
之(こ)れ其(その)の汗(けがれ)を如何(いかん)せん
髪は三界(さんがい)の愛を断ち 
衣は有相(うそう)の句(こう)を壊(やぶ)る
僧恩を棄てて無為に入(い)るは  是(これ)等閑(とうかん)の作(しわざ)に非(あら)ず
我彼(か)の朝野を適(ゆ)くに 
士女(しじょ)各(おのおの)作(な)す有り
織らずんば何を以(もっ)て衣(き)ん 
耕さずんば何を以て哺(くら)はん
今釈氏(しゃくし)の子と称(しょう)し 
行も無く亦(ま)た悟りも無し 
徒(いたず)らに檀越(だんおつ)の施(せ)を費やし
三業(さんごう)相(あい)顧(かえり)みず
首(こうべ)を聚(あつ)めて大話(たいわ)を打(だ)し因循(いんじゅん)旦莫(たんぼ)を度る
外面は殊勝を逞(たくま)しうし 
他(か)の田野(でんや)の嫗(おうな)を迷わす
謂(い)ふ言(われ)好箇手(こうこしゅ)なりと 
吁嗟(ああ)何(いず)れの日にか寤(さ)めん
縦(たと)ひ乳虎の隊(むれ)に入(い)るとも 
名利(みょうり)の路(みち)を践(ふ)む勿(なか)れ
名利讒(わず)かに心に入(い)らば 
海水も亦(ま)た澍(そそ)ぎ難(がた)し 
(白衣…世俗の人)
(三界の愛…この世の執着)
(有相の句…世俗のしがらみ)
(無為…仏門)
(行…僧としての行い)
(檀越の施…檀家の布施)
 (三業…身、口、意のすべての行為)
 (因循旦莫を度る…旧態然のまま日を過ごす)
 (好箇手…修行を積んだ力量のある僧)

誰か問わん迷悟の跡  何ぞ知らん名利の塵

 良寛の代表作ともいえる漢詩467があります。良寛の生き方を端的に表した詩です。その漢詩の中にこの句があります。読み方と意訳を掲げます。

生涯身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう)天真に任す
嚢中(のうちゅう)三升の米 
炉辺(ろへん)一束(いっそく)の薪(たきぎ)
誰(たれ)か問わん迷悟(めいご)の跡(あと) 
何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)
夜雨(やう)草庵(そうあん)の裡(うち) 
双脚(そうきゃく)等閑(とうかん)に伸ばす

 私の生き様は、住職になって親孝行しようなどという考えを好ましくないものと思っており、ゆったりと、自分の心の中にある清らかな仏の心のおもむくままに任せて日々暮らしている
 頭陀袋(ずだぶくろ)の中には米が三升、囲炉裏端(いろりばた)には薪(たきぎ)が一束(ひとたば)あり、これで十分だ
 迷いだの悟(さと)りだのに誰がとらわれようか、また、名誉や利益といったこの世の煩(わずら)わしさにどうして関わろうか 
 雨の降る夜は草庵の囲炉裏端で、(日頃の托鉢や坐禅で疲れた)両脚を無心にまっすぐに伸ばしている

 長年の仏道修行を経て、師の国仙和尚から、印可の偈(げ)を授かった良寛にとって、悟りを開いたとか、まだ悟ることができずに迷っているとかに、とらわれている状態は脱却しなければいけないことでした。そして無欲・清貧に生きた良寛にとって、利(財)だけでなく、名(名誉)もまた、捨て去るべき欲望・煩悩にすぎません。

 良寛に、名声を博すことなく、人に知られないまま、土の中の埋もれ木のように、ひっそりと命を終えることを望んだ歌があります。

あらがねの 土の中なる 埋もれ木の 人にも知らで くち果つるかも

君看よ双眼の色 語らざるは憂い無きに似たり

 君看(み)よ双眼(そうがん)の色
 語らざるは憂(うれ)い無きに似たり

 この言葉は良寛の言葉ではありませんが、良寛はこの言葉を愛し、美しい書にしています。
 この言葉は『禅林句集』にもあり、白隠(はくいん)禅師の『槐安国語』(かいあんこくご)が出典です。『槐安国語』は『大燈(だいとう)国師語録』に白隠禅師が評唱や下語(あぎょ)を付したものです。

 大燈国師の「千峰雨霽露光冷(せんぽうあめはれて ろこうつめたし)」という句の後につけられた白隠禅師の下語(あぎょ)です。
  大燈国師の句は「見渡す限りの山々の草木に雨上がりの露が輝いている」というような意味でしょう。雨嵐になってもやがては晴れ、何も語ることなく露が光り輝く、という自然の摂理がそのまま仏法の真実であることを詠っているようです。

  白隠禅師のこの句「君看(み)よ双眼(そうがん)の色 語らざるは憂い無きに似たり」は、「私の二つの眸(まなこ)を見て下さい。私は憂いや悲しみを語りはしないので、憂いや悲しみは何一つないように見えるでしょう。しかし、語り尽くせないほど憂いや悲しみは深いのです。でも、同じような憂いや悲しみを抱く者が私の目をみるだけで、一言も言葉を交えなくても、私の心は分かるはずです。だから私の二つの眸を見て下さい。」というような意味でしょう。

 自分は清貧に暮らしながら、民衆の苦しみを救いたいが、自分の力では十分に救うことができないという憂いや悲しみを持つ良寛の瞳は、澄みわたり光り輝いていたことでしょう。それは、悲しみの涙を流したあとの輝きであるかもしれません。
 そして良寛は、良寛の目を見ただけで、良寛の憂いや悲しみを瞬時に理解してくれる、同じ憂いや悲しみをもつ人・知音との出会いを心から待ち望んでいたのです。

過ちを知らば則ち速やかに改めよ  執すれば即ち是も真に非ず

  良寛に次の漢詩557があります。

昨日は今日と異なり 
今晨(こんしん)は来晨に非ず
心は前縁に随って移り 
縁は物と共に新たなり
過ちを知らば則(すなわ)ち速やかに改めよ 
執(しゅう)すれば則ち是(ぜ)も真に非ず
誰(た)れか能(よ)く枯株(こしゅ)を守って
直ちに霜の鬢(びん)と為(な)るを待たんや
(晨…朝)
(執すれば…執着すれば)
(是…正しいと思うこと)
(枯株を守る…固定観念にとらわれる)
 
 良寛は、求めない心、とらわれない(執着しない)心、はかわらない(無作為の)心で生きることを心がけました。
 冷静に考えれば、過ちだと思っても、言い出した手前、メンツにこだわり、過ちを素直に認めて改めようとしない人が多くいます。
 それではいけない、過ちだと知ったら直ぐに改めなければならないと、良寛はこの詩で言っています。
 固定観念にとらわれず、自分に執着せず、因縁生起の理(ことわり)に随い、すなわち大自然の摂理に随って、騰騰任運(とうとうにんぬん)に生きよと言っているのです。

 良寛はまた若いときに論語を徹底的に学んでいます。
 晩年になっても論語の言葉を思い出して、書にしています。
「過改めるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」

 また次の遺墨もあります。
「交友莫争(友と交わるに争うことなかれ)」
相手の主張と異なる自分の主張を貫き通そうとするために争いが起きます。自分の考えに執着しているためです。友人との交際に当たっては自分の考えに固執しないことが大切なのです。

竿直くして節弥高く 心虚にして根愈堅し

 良寛に次の漢詩449があります。

宅辺に苦竹有り 
冷冷数千干(かん)       
笋(たけのこ)は迸(ほとばし)りて全て路(みち)を遮(さへぎ)り
梢は斜めに高く 天を払ふ
霜を経て 陪(ますます)精神あり             
烟を隔てて 転(うた)た幽間(ゆうかん)        
宜(よろ)しく 松柏(しようはく)の列に在るべく
何(なん)ぞ 桃李の妍(けん)に比せん           
竿(かん)直くして 節(せつ)弥(いよい)よ高く 
心(しん)虚(きょ)にして 根(こん)愈(いよい)よ堅し爾(なんじ)が貞清(ていせい)の質を愛す          
千秋 希はくは遷(うつ)ること莫(なか)れ   
  (冷冷…すがすがしい)
  (陪精神…いよいよ気高く)
  (烟…春のもや)
  (松柏…松や柏のように節操を変えない植物)
  (妍…美しさ)
  (貞清の質…正しく清ら かな性質)
  (遷る…貞清の質が変わ ってしまうこと)

 この詩で良寛は、自分が目指す生き方を竹に託しているようです。
 苦難を経ていよいよ気高く、
 節操を変えない、
 静かで奥ゆかしい、
 幹は真っ直ぐで正直、
 志操はますます高く、
 心は空で雑念がなく、
  根は堅く張っている、
 性格は正しく清らか

  良寛は竹を格別に愛していたようです。縁側の下からタケノコが生えてきたとき、普通の人ならば縁側の板が壊れないようにタケノコを切るところ、良寛は縁側に穴をあけ、さらには庇まで穴をあけようとしたのです。
 良寛の命あるものへの慈愛の心をよく示す逸話です。

開き易きは始終の口  保ち難きは歳寒の心

  良寛の遺墨にある言葉。出典は分かりませんが、良寛の言葉でしょう。

「歳寒の心」とは逆境にあっても節操を変えないこと。
「言うは易く行うは難し」の意でしょうか。

良寛に次の漢詩481もあります。

言語は常に出(いだ)し易く
理行(りぎょう)は常に虧(か)き易し
斯(こ)の言の出し易きを以て
彼(か)の行の虧け易きを逐(お)う
弥(いよいよ)逐えば則ち弥虧け
愈(いよいよ)出せば則ち愈非なり
油を潑(そそぎ)で火聚(かじゅ)を救わんとす
都(すべ)て是れ一場の痴(ち)のみ 
  (虧く…欠く)
 (火聚…猛烈な火の集まり、人の煩悩を炎にたとえる)

 人は言葉で言うことの易しさでもって、行動の欠落し易い点を補おうとする。しかし言葉で補えば、補うほど行動は欠落し、言葉で言えば言うほど行動とくいちがってしまう、と良寛は言います。

  長岡の七日市の庄屋山田七彦に宛てた良寛の書簡の中に次の詩729もあります。

紛粉(ふんぷん) 物を逐(お)ふこと莫(なか)れ 
黙黙 宜(よろ)しく口を守るべし
飯(いい)は腸(はら)飢ゑて始めて喫し 
歯は夢覚めて後に叩く
気をして常に内に盈(み)た令(し)めば 
外邪 何ぞ謾(みだり)に受けんと
我 白幽伝を読み 
聊(いささ)か養生の趣を得たり
 (紛紛…あれこれ)
  (物を逐ふ…物事に執着 する)
  (白幽…京都山中に住み、二百余歳で死亡したという。養生法「輭酥(なんそ)の法」で知られる。)

徳を積むは厚く 己に受くるは薄く

 「積徳厚 受己薄(徳を積むは厚く己に受くるは薄く)」は良寛の遺墨にある言葉です。
 出典は分からないため、良寛の言葉である可能性があります。

 他人への慈しみを厚くし、自分が受ける恵みは薄くすれば、世の中は穏やかに治まります。この言葉は良寛が常日頃心がけていた座右の銘であったかもしれません。

 良寛は托鉢に出かけた時など、和顔・愛語で人々と接し、慈愛の心を注いで庶民の苦しみを和らげるという衆生済度(しゅじょうさいど)の菩薩行(ぼさつぎょう)を生涯続けました。
 一方で自分の生活は托鉢でいただいたわずかな米で命をつなぐというようなものでした。山中の簡素な草庵の中には何もなく、清貧の生活に徹していました。

 越後に帰国した頃、寺泊の郷本(ごうもと)の空庵に住み、托鉢に出た良寛は、その日に自分が食べる分以上のお米をいただいたときには、乞食(こじき)や鳥獣に分け与えていました。

  寒さに震えながら物乞いする旅人には、自分の着物を脱いで与え、何もない草庵に入った泥棒には、わざと寝返りを打って、布団を盗みやすいようにしたのです。

 慈愛の心の中でも良寛は、至高の愛とは自己犠牲を伴うものと考えていたようです。その象徴的な逸話を良寛は長歌に詠んでいます。「月の兎」です。
 仲良く遊んで暮らしていた猿と狐と兎のところに空腹の旅人を装った月の神様が来て、食事を求めました。猿は木に登り木の実を採って来ました。狐は簗場で魚を捕って来ました。ところが兎は野原を走っても食べ物を見つけられませんでした。そこで兎は猿に木の枝を集めさせ、狐に木の枝に火をつけさせました。そして兎はその火の中に飛び込み、自分の肉を旅人の食事に差し出したのです。

忍は是れ功徳の本

 「忍是功徳本(忍は是(こ)れ功徳(くどく)の本(もと))」と書かれた良寛の遺墨があります。
 徳川家康は「堪忍は無事長久の基」といい、忍は万事を成功させるもとであると述べています。封建時代は何ごとにも忍耐が欠かせない時代でした。
 だがこの言葉は、良寛が教訓として人に諭し示したものでしょうか。

 青年時代の良寛は圭角のある人物だったのではと思います。十八歳のある夏の日に突然生家橘屋を出奔したように、かっとなると、過激な行動に出ることが、時々あったのではなかったでしょうか。
 そんな自分の性格を変えようという思いもあって、敢えて厳しい仏道修行の道を歩み始めたのかもしれません。

 大乗仏教では菩薩にかせられた六つの実践しなければならない徳目があり、六波羅蜜といわれています。
  布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智慧の六つです。
 このうちの忍辱とは苦難に耐え忍ぶことです。

 良寛は寺の住職になろうと思えばなれたにもかかわらず、あえて寺にも住まず、住職にもならず、山中の草庵に独居し、日々の糧を托鉢で得るという困難な生き方を選びました。
 大きな寺の立派な住職になってほしいという父親の期待を裏切り、一人の托鉢僧として、良寛は越後に帰国しました。
 みすぼらしい服装の托鉢僧姿の良寛をみて、人々の目には、出雲崎の名主の長男のなれの果ての姿と映ったのかもしれません。

 そんなふるさと越後に帰ってきて、厳しい世間の中に身を置いて生きていくことこそ、良寛にとっては、まさに忍辱そのものだったのです。両親の願いに反して出家した懺悔の念もあって、忍辱行という厳しい修行を自らに課したのかもしれません。

行じ難きを能く行じ  忍び難きを能く忍ぶ

 昭和天皇の終戦の詔勅の玉音放送の中に有名な言葉があります。「耐えがたきを耐え忍び難きを忍ぶ」
 第二次世界大戦の末期、静岡県三島市龍澤寺の山本玄峰老師を首相就任を要請された鈴木貫太郎が訪れています。老師は鈴木に、首相に就任されて、潔く負けて戦争を止めることを勧めました。
 ポツダム宣言が出され、それを受諾するかしないかを決する御前会議が開かれた頃、玄峰老師は鈴木に、「これからが大事な時ですから、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、体に気をつけながらやって下さい」という手紙を送って励ましたといわれています。
 では、この言葉は玄峰老師の造語だったのでしょうか。

 実は良寛の文章によく似た次の言葉が出てきます。「行じ難きを能(よ)く行じ忍び難きを能く忍ぶ」
 この言葉は「今の修行をする人たちは、困難な苦行を自らに課し、我慢できないような苦行をあえて行って、父母からいただいた体をいたずらに疲弊させている。やりすぎはいけない。(肉体を痛めつけて身を危険にさらすような修行はよくない)」。という趣旨の文章の中にある言葉です。

 ただし、玄峰老師が良寛のこの文章を読んだとは到底思えません。
 この「堪え難きを堪え、忍びがたきを忍び…」は、達磨大師が後継者となられた神光(二祖慧可(えか)大師)に、入門のときに与えられた修行の心得であったとの説があります。

 また、「堪えがたき恥辱を忍ぶものは、悪くいわれることはなく、必ず人のために尊ばれることになる」とお釈迦さまのお言葉にもあるそうです。
 良寛も、玄峰老師もともに仏教についての深い学識を有していたのでしょう。

身をすてて 世をすくふ人も 在すものを 草の庵に ひまもとむとは

 七十歳の良寛に弟子入りした三十歳の貞心尼は初めて良寛に逢ったときに、また訪れますという歌を詠みましたが、なかなかすぐに訪問することができませんでした。しばらくして、良寛は貞心尼に次の催促の歌を送りました。

君は忘る 道や隠るる この頃は 待てど暮らせど おとづれのなき (良寛)
(おとづれ…音信)
 これに対して貞心尼は次の二つの歌を良寛に送りました。

ことしげき 葎(むぐら)の庵に 閉ぢられて 身をば心に まかせざりけり (貞心尼)
山の端(は)の 月はさやかに 照らせども まだ晴れやらぬ 峰のうす雲 (貞心尼)

 貞心尼は柏崎の心竜尼・眠竜尼のいる寺で修行していたのか、自由に行動できないでいるという歌や、まだ自分の心の中は、うす雲がかかっている(迷いがある)という歌を送ったのです。
 その手紙を見て、良寛はさらに、次の励ましの歌を送りました。
身を捨てて 世を救う人も 在(ま)すものを 草の庵(いほり)に 暇求むとは (良寛)

 この歌は、貞心尼を叱責するために作った歌ではなく、おそらく、良寛が自省のためにかつて作った歌を貞心尼に贈ったもののでしょう。

 良寛に他にも、自省の歌を多く作っています。

何ゆゑに 家を出でしと 折ふしは 心に愧(は)ぢよ 墨(すみ)染めの袖

あしひきの 山田の案山子(かかし) 汝(なれ)さへも 穂拾ふ鳥を 守るてふものを
(あしひきの…山田の枕詞)

いかにして まことの道に かなひなむ 千歳のうちに 一日なりともも
(まことの道に…仏の道)