良寬 珠玉の言葉 31~40

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一生成香

 美しい心を持ち続け、さらにその美しさに磨きをかけ続け、生涯、美しい心で行動するということは、非常に困難なことである。人間は弱い存在である。ついつい、気が緩み、欲の芽が出たりして、情けない行動も行いがちである。良寛とて同じ人間である。時には我が身を振り返って、反省することもあっただろう。
 そこで良寛は次の言葉を書いて、座右の銘とした。
 「一生成香 (一生香(こう)を成(な)せ)」

 座右の銘とは、常日頃から心がけている戒めの格言というような意味である。、
「生涯いい香りを発しながら生きよ」という、ある意味では、自分に対するきびしい戒めのことばである。 この座右の銘によって、良寛は常に自分の心を奮い立たせていたのである。
 一生努力して、飛び抜けた美しい心で清く正しく生き、万人に慕われる人格者となった良寛はまさに「香を成した」のであった。
 良寛は「一生香を成せ」という言葉によって、良寛という人間を作り上げたのである。
 ところで、この香りとはいったいどんな香りかという疑問も出てくるが、おそらく深山の深い谷間にひっそりと咲く「蘭(らん)」の香りではないかと思う。蘭は古来隠者の象徴であった。良寬の漢詩529がある。

窮谷(きゅうこく)に佳人(かじん)有り      
容姿 閑にして且(か)つ雅なり          
長嘯(ちょうしょう)して 待つ有るが若(ごと)く
独り修竹の下(もと)に立つ  
(長嘯…口をすぼめて長く発声する)

 深山の深い谷間に咲く蘭のようによい香りを発する人がいる=隠棲してひっそりと暮らしている美しい心を持った有徳の人がいる。つまり良寬は自分のことを蘭にたとえている。そして、自分の真価を認めてくれる人・知音を待ちながら、竹のように堅い節操を保ちながら、一人で生きているということを詠っている。
 この詩などから、良寬は蘭のようなよい香りを発することを、美しい心を持ち続け、徳を積んで周りの人々を感化すること、一生香を成すことのたとえとして使っているのである。

期するところは弘道にあり 誰か浮漚の身を惜しまん

 良寛に諸国行脚の厳しい修業時代を回想した詩447があります。
珊瑚(さんご)は南海に生じ 
紫芝(しし) 北山に秀(ひい)づ
物には固(もと)より然(しか)る所有り
古来よりにして今年(こんねん)に非(あら)ず
伊(こ)れ昔 少壮の時 
錫(しゃく)を飛ばして千里に游(あそ)ぶ
頗(すこぶ)る古老の門を叩(たた)き 
周旋(しゅうせん)すること凡(およ)そ幾秋ぞ
期する所は弘道(ぐどう)に在(あ)り 
誰(たれ)か浮漚(ふおう)の身を惜しまん
歳(とし) 我と共にせず 
已(や)んぬるかな復(ま)た何をか陳(の)べん
絶巘の下(もと)に帰来し 
蕨(わらび)を采(と)り昏晨(こんしん)に供す
(紫芝…神仙の霊薬とされる霊之(れいし))
(錫…錫杖)(周旋…あちこち巡り歩く)
 (弘道…仏道を世に弘(ひろ)めること)
 (浮漚…水面に浮く泡のようにはかない)
 (絶巘…切り立った高い山)(昏晨…夕方と朝)
 この詩は、自分は何年間も修行のために各地を行脚し、多くの高僧の門を叩き、仏法を弘めるために、まず仏法を究めようとして、身を惜しむことなく努力した。そういう厳しい修行を積んだからこそ、今の悟境に至り、良寛という僧が産まれたのだと自負する一方、自分こそが釈尊の教えを忠実に継承している僧であることや、自分が実践している托鉢や愛語によって仏法を弘めているという本来の僧のあり方は、ほとんど世間に認められることがないまま、歳月だけが過ぎ去ってゆくという現実に対して、言葉を失うほど深く落胆したことを詠った詩であろう。
 しかし、良寛は世間に認められないことから、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のように、隠者となって山中に暮らしていると詠っているようみえるが、実は、身心脱落の境地に至り、心のおもむくままに騰騰任運、随縁、自然法爾(じねんほうに)、優游自適に生き、かつ、山中草庵独居、只管打座(しかんたざ)、托鉢行脚という道元の教えを忠実に守って、生涯、厳しい修行を続けているのである。
  首句が「荒村乞食了」の良寛の別の詩720には、「あに虚しく流年を渡らんや」の句もあります。

衝天の志気敢へて自ら持せしを

 良寛に「傭賃(ようちん)」と題する詩407があります。

家は荒村に在り 四壁(しへき)空し
展転 傭賃して 且(しばら)く時を過ごす 
憶(おも)ひ得たり 疇昔(ちゅうせき) 行脚の日
衝天(しょうてん)の志気 敢(あ)へて自ら持せしを (疇昔…その昔)

 「四壁空し」については、同趣の詩に「わずかに壁立(へきりつ)し」とあることから、四面の壁は、壁としては役に立たないほどの粗末な壁という意味で、清貧の生活の象徴でしょう。
 また四壁が空しいということは、遮(さえぎ)るものがなにもないことであり、良寛が煩悩・執着・分別心・作為などから解放されている自由自在の境地であることも想像させます。
 「傭賃」については、郷本の空庵時代に塩炊きなどの賃労働に従事したという見方もありますが、『法華経』信解品(しんげぼん)にある「窮子(ぐうじ)は傭賃展転して、たまたま父の家に到る」から引用しているものではないかと思われます。『法華経』のこの部分の「窮子」は衆生、「父」は仏陀の譬(たと)えです。良寛にとっての傭賃とは托鉢行脚のことでしょう。
 ふるさと越後に帰って来た頃、良寛はあらゆるとらわれを離れて、騰騰任運(とうとうにんぬん)、随縁、自然法爾(じねんほうに)に生きつつ、あちこち托鉢行脚して、聖胎長養(しょうたいちょうよう 悟後の修行)の日々を過ごしはじめました。
 良寛にとって托鉢とは、多くの民衆と和顔・愛語でふれあうなど菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)の実践の手段であり、貧しい民衆の苦しみを和らげる衆生済度のための菩薩行だったのです。
 寺請制度の下で、僧は寺の住職となり、檀家からの安定的な布施で生きていくことが一般的だった江戸時代において、一人の托鉢僧として生きていくことは極めて困難なことでした。
 「衝天の志気」とは、仏道を極めようという天をも衝くほどの激しい求道心のように思われがちですが、良寛の場合、良寛独自の生き方として、一人の托鉢僧として生き、托鉢によって衆生を済度するという困難な茨の道を敢えて歩むのだという強い覚悟を意味していたのではないでしょうか。

朝には孤峰の頂きを極め 暮には玄海の流れを截つ

 良寛に諸国行脚に出る際に厳しい修行の覚悟を詠んだ詩75があります。

本色(ほんじき)の行脚(あんぎゃ)の僧 
豈(あ)に存すること悠悠たる可(べ)けんや
瓶(びょう)を携(たずさ)へて本師(ほんじ)に別れ
特特(とくとく) 郷州(きょうしゅう)を出(い)づ
朝(あした)には孤峰の頂(いただき)を極め 
暮(くれ)には玄海の流れを截(た)つ
一言(いちごん) 若(も)し契(かな)はずんば
死に到るまで誓って休(や)まざらん
(本色…ほんとうの)
(悠悠…のんびり)
(瓶…水瓶)
(本師…得度又は嗣法の師)
(特特…おもむろに、ことさらに)
 (孤峰の頂…孤高の山頂(絶対の境地))
(玄海…北の黒くて深い海の海流(雑念妄想))
 (一言…真の仏法を悟ること)
 円通寺時代の後半に諸国行脚の修行の旅に出るようになった良寛は、国仙和尚と別れ、仏道修行のふるさと円通寺を旅立つ際の意気込みを振り返ってこの詩を詠んだのでしょうが、若い修行僧への激励であったかもしれません。

 良寛の仏道修行への真摯な態度を詠んだ詩は他にもあります。円通寺時代を追憶した詩440では、次の句があります。

憶(おも)ふ円通に在(あ)りし時 
恒に吾が道の孤なるを歎(たん)ぜしを
柴を運んでは龐公(ほうこう)を憶ひ 
碓を踏んでは老盧(ろうろ)を思ふ
入室(にっしつ) 敢へて後るるに非ず 
朝参 常に徒(と)に先んず
(吾が道の孤…良寛の真剣な仏道修行の生き方が他の雲水とは異なっていて孤立していたこと)
(龐公…在家の先覚者龐蘊)
(老盧…六祖慧能)
(入室…師家(国仙和尚)の指導を受けるため部屋に入る事こと)
 (朝参…朝の参禅)

大廈の将に崩倒せんとするや 一木の支ふる所に非ず

 良寛に題が『唱導詞』首句が「風俗年年薄」の長い漢詩391がある。『唱導(しょうどう)の詞(うた)』は、禅宗の歴史と現状を語り、禅宗が衰えて堕落した時代に巡り合った不幸を嘆き、人々を正しい仏法に導くために詠んだ詩である。当時の僧侶が腐敗堕落していると嘆く長詩『僧伽(そうぎゃ)』390とともに、良寛の仏教に対する真摯な姿勢が現れている。
 『唱導の詞』で良寛は、釈尊から始まり達磨を経て中国唐代に禅が盛んになり、その後五家七宗に別れ、日本には道元禅師が出て仏法を弘(ひろ)めたが、道元禅師が亡くなられて何百年もたつと、俗悪な僧がはこびり、学徳優れた高僧は埋もれて尽き果て、禅本来の思想は伝わらず、世俗にこびへつらう堕落した教えが溢れていると歎いている。

 この長詩の最後の部分の句は次のとおり。

師の神州を去りて自(よ)り 
悠悠 幾多(いくt)の時ぞ 
枳棘(ききょく) 高堂に生じ 
蕙蘭(けいらん) 草莽(そうもう)に萎(な)ゆ  
陽春 孰(た)れか復(ま)た唱(とな)へん
巴歌(はか) 日(ひび)に岐(ちまた)に盈(み)つ
吁嗟(ああ) 余(わ)れ小子 
此(こ)の時に遭遇す              
大厦(たいか)の将(まさ)に崩倒せんとするや     
一木(いちぼく)の支ふる所に非(あら)ず
清夜 寐(い)ぬること能(あた)はず
 反側して斯(こ)の詩を歌ふ

(枳棘…棘(いばら)=俗悪な僧)       
 (蕙蘭…香気を発する花=学徳のある僧)     
 (陽春…古代の高雅な曲=禅の正しい思想)           
 (巴歌…卑俗な歌=堕落した教え)(大厦…巨大な建物)                      

 良寛には次の歌もある。
波の音 聞かじと山へ 入りぬれば
又色かへて 松風の音

世俗(海に面した実家)を厭って山(仏門)に入ったが、現実の宗教界も理想とする場所ではなかったという思いを詠った和歌であろうか。

世上の栄枯は雲の往還

 禅僧は十年ごとに遺偈(ゆいげ)をそれとなく遺すという。六十歳の時と思われる良寛の遺偈627がある。
閃電(せんでん)光裏(こうり) 六十年
世上(せじょう)の栄枯は雲の往還(おうかん)
巌根(がんこん)穿(うが)たんと欲す 深夜の雨
灯火明滅す 古窓(こそう)の前
(閃電光裏…稲妻の光のように瞬く間)  

 五十歳を過ぎた頃の「夜雨」と題する次の遺偈423がある。他に首句が「回首五十有餘年」の遺偈574もある。
世上の栄枯は雲の変態
五十餘年は一夢の中(うち)
疎雨(そう)蕭蕭(しょうしょう)たり 草庵の夜
閑かに衲衣(のうえ)を擁して虚窓に倚(よ)る
(疎雨蕭蕭…小雨がさびしく降る)

 七十歳を過ぎた頃の「草庵雪夜の作」と題する遺偈642がある。
回首す 七十有餘(よ)年
人間(じんかん)の是非 看破(かんぱ)に飽(あ)く
往来の跡(あと)幽(かす)かなり 深夜の雪
一炷(いっしゅ)の線香 古匆(こそう)の下
 (人間…世間)
 雲が同じ形を留めないように世の中もたえず移り変わり、自分の人生も振り返ればあっという間だったという感慨がこれらの遺偈に詠まれている。
 良寛に人生の短さや無常を表した詞(ことば)は他にも多い。首句が「人生浮世間」の漢詩500に
朝に少年子為(た)るも 
薄暮には霜鬢(そうびん)となる 

 首句が「無常信迅速」の漢詩553に
無常信(まこと)に迅速 
刹那(せつな)刹那に移る
紅顔長(とこ)しえに保ち難く 
玄髪(げんぱつ)変じて糸となる 
(刹那…一瞬)
(糸…白い糸のような髪)
 良寛の遺墨にもある。光陰惜しむ人古来稀なり

過去は已に過ぎ去り 未来は尚ほ未だ来たらず

 良寛には、時間は次々に移り変わっていくものであるから、時間を大切にして怠ってはならないという思いがある。そんな思いから仏道修行の仕方について若い学僧に語ったような漢詩438がある。

過去は己に過ぎ去り
未来は尚(な)ほ未だ来らず
現在は復(ま)た住(とど)まらず
展転として相依る無し
許多(あまた)の閑名字もて
竟日(ひねもす)強(し)いて自ら為す
旧時の見を存する勿(なか)れ
新条の知を逐(お)う莫(なか)れ
懇懇として遍(あまね)く参窮(さんきゅう)し
之に参じ復(ま)た之を窮(きわ)めよ
窮め窮めて窮まり無きに至って
始めて従前の非を知らん   
(閑名字…不要な文章)(竟日…一日中)(参窮…坐禅して追及する)

 時間には限りがあり、人はすぐに老いてゆく。今という時間を真剣に過ごさないと後悔すると考えていた良寛には、首句が「日落ちて群動息(や)み」の漢詩719があり、その中に次の句がある。

勉めよや同参の客(かく)
光陰実(まこと)に移り易し
(同参の客…共に禅を学ぶ人)

 良寛に逸話がある。酒ばかり飲んでいるある人に「浮世(ふせい)は夢の如し、歓を為すは幾何(いくばく)ぞ」と板に書いて与えたが、その人は「酒ばかりは止められぬ」といって、その板を投げ捨てていた。その板を見た借金取りが、借金はただにするからと言って、その板を貰って帰ったという。

 また次の逸話もある。ある商人に一生の宝とすべきものを書いてくれと頼まれ、全紙一杯に「し」の字を書いた。意味のわからない主人を見て、良寛は言った。「生きていく場合、死を忘れなければ、過ちを少なくして過ごせるだろう」

つきてみよ 一二三四五六七八 九の十 十とをさめて またはじまるを

 文政十年(一八二七)の四月十五日頃、良寛がいつも子供たちと手毬(てまり)をついているということを聞いていた貞心尼は、手毬を持って島崎の木村家庵室の良寛を訪ねました。
 しかしながら、良寛は寺泊の照明寺密蔵院(しょうみょうじみつぞういん)に出かけており、不在だったのです。そこで貞心尼は次の和歌を木村家に託して良寛に渡してもらうことにしたのです。

    師常に手まりもて遊び給うとききて奉るとて 
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ (貞心尼)
 (御法…仏法}

 六月に貞心尼からの手毬と和歌を受け取った良寛は貞心尼に次の歌を返しました。

つきてみよ  一二三四五六七八(ひふみないむなや) 九(ここ)の十(とを) 十とおさめて またはじまるを  (良寛)

 良寛の手まりは仏の教えを体現したものであるということを、貞心尼は見抜いて良寛に贈ったこの歌を詠んだようです。それに対して良寛は、手まり歌が十で終わり、また一から始まる繰り返しには仏の教えが込められていることを、貞心尼に送った歌に詠んでいます。良寛のこの歌の「つきてみよ」には手毬をついてみなさいという意味と、私について(弟子になって)みなさいという意味が込められているようです。
 
  当時の手まりは形もいびつで小さく、よくは弾まないため、うまくつくことが難しかったようです。どこに跳ね返ってくるか分からない手まりをうまくつくためには、雑念を捨て無心になりつつ、臨機応変につかなければなりません。また、一から始まり十で終わり、また一から始める繰り返しは、仏道修行というものは生涯続けるものであり、毎日が坐禅や作務などの同じ修行の繰り返しであるということと同じなのです。さらに一二三四五六七…には、当たり前のこと、ありのままのことという意味もあり、花は紅柳は緑という、あるがままの自然の摂理が仏法の真実であるという諸法実相の世界を表しています。

淡雪の 中に立てたる 三千大千世界 またその中に 泡雪ぞ降る

淡雪(あはゆき)の 中に立てたる 三千大千世界(みちおほち) またその中に 泡(あわ)雪ぞ降る
(三千大千世界…須弥山を中心とした世界が小世界、その千倍が小千世界、その千倍が中千世界、その千倍が大千世界で、この小・中・大の三種を合わせたもの)
 牡丹雪の一粒の顆(たま)の中に三千大千世界の納まっているのが見え、その三千大千世界の中に、また同じ沫(あわ)雪が降っている。
 大小への固定観念を捨てて、小さな物に無限大のものを容れ、それ故そこに又極小をも見つつ、その融合を捉えてゆくというのは仏教の世界観であり、仏教の真理を詠った歌である。
 入水自殺した良寛の父以南の辞世の歌がある。蘇迷盧(そめいろ)の 山を形見に たてぬれば
わがなきあとは いつらむかしぞ
 この歌の「蘇迷盧の山」とは良寛であるとの説がある。「あはゆきの歌」は、父の辞世の歌を踏まえたものであり、歌の中の「なかにたてたる三千大千世界」とは、蘇迷盧の山、つまり父以南が形見としてこの世に残した、須弥山(=宇宙)と一体となった存在であり天真仏となった良寛のことなのではないか。
 諸法実相の立場に立つ良寛にとって、自己とは宇宙・世界・自然と一体のものである。すなわち良寛という人間は宇宙・世界・自然と一体となった三千大千世界ということができる。
 良寛は「あはゆき」を見て、すぐに消える儚い命をイメージし、無数の命が生まれては死んでいく諸行無常の世界を見たか。その世界・宇宙の、三千大千世界の、淡雪をはじめとした森羅万象の存在こそ、真理だという諸法実相を良寛は感じたか。
  白い「あはゆき」を見て、人間が生まれながらに持つ仏の心・清浄心をあらわしていると考えたか。人間とは本来純粋で無垢な存在だと。
 「あわゆき」は、泡のように柔らかく降り積もり、暖かく包み込んでくれる。衆生の苦しみを包みこみ癒やして救う仏の慈悲心の象徴なのではないか。
 訳は「淡雪の中に立ってみると、宇宙・世界と一体となった自分は三千大千世界そのものであるから、淡雪の中に三千大千世界が立っている。自分と一体である宇宙・世界すなわち三千大千世界の中には、全ての人々を救おうと暖かく包み込んでくれる仏の慈悲心を表すような泡雪が柔らかく降っている」

風定まりて花尚ほ落ち 鳥啼いて山更に幽なり

 良寛に「観音二首」と題する漢詩があり、次の詩396がその二番目である。

風定まりて花尚(な)ほ落ち
鳥啼(な)いて山更に幽(ゆう)なり
観音妙智力なり 咄(とつ)
(妙智…妙観察智。一切の存在・現象の実態をありのままに見て取る智慧。慈悲行の出てくる根源のもの)
(咄…その妙智への覚醒を促す一喝)

 この詩の起句は陳の謝貞の詩句に、承句は梁の王籍の詩句にあり、対句にしたのは宋の王安石である。
宋の詩論書『詩人玉屑(ぎょくせつ)』に、「王荊公(王安石)は「風定花尚落」を以て「鳥啼山更幽」に対す。
則ち上句は静中に動有り、下句は動中に静有り」とあります。
 良寛の読書グループの回状と思われる書簡の中に『詩人玉屑』の記述があり、良寛が『詩人玉屑』を閲読したことは確実です。
 良寛は静中動、動中静の幽邃な大自然の風景そのものが、観音さまの智慧の力の現成であると受け取っています。そして観音妙智力であることは、いわずもがななことなので、「咄」と言ったのでしょう。

 良寛のこの詩は『法華讃』にそのまま収録されています。『法華讃』の本偈に次の著語(じゃくご=短評)がついています。
若(も)し流水を得ずんば、別山を過(よ)ぎれ
鶯の声なかりせば梅の花梢に積もる雪と見ましを
 蔭木英雄氏の『良寛詩全評釈』には次のようにあります。「『如浄禅師語録』に「白狗生薑(しょうきょう)を喫(くら)い、胡人夜に関を渡る。咄。若し流水を得ずんば、別山を過(よ)ぎれ」とあります。流水は生薑の辛さを癒やしたり、暗夜の道しるべになります。つまりは観音さまの慈悲です」
 竹村牧男氏は『良寛 法華讃』の中で、「この意が解らなければ、さらに参ぜよ」「鳥が鳴いてこそ、観音の妙智力が知られる。空空ではない、空即是色だ。」と訳しています。
 新潟市中央区にある西海岸公園のドン山の近くの林の中にこの詩偈の碑があります。