良寬 珠玉の言葉 41~52

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花無心にして蝶を招く  蝶無心にして花を尋ぬ

 良寛の漢詩でも次の漢詩730は人気があります。

花 無心にして蝶を招き 
蝶 無心にして花を尋(たず)ぬ
花 開く時、蝶来り 
蝶 来る時、花開く
吾れも亦(また)人を知らず 
人も亦吾れを知らず
知らずして帝の則(のり)に従う

 春になると、自然に花が咲き、蝶が舞う。花は、招こうという心はなく、自然に蝶を招き寄せる。蝶は、尋ねようという心はなく、自然に花を尋ねる。
 花が開くときには、自然に蝶が来るし、蝶が来るときには、自然に花が開いている。こうした毎年繰り返される自然の営みは、天帝の定めた天地自然の運行の法則に基づくものであり、人間の思慮分別を超越した仏法の真理なのです。 
 同じじように、私も他人のことなどは眼中になく、
他人も私のことなどは眼中にもないようになれば、(お互いが、他人と比べて足りないものを求めるという心がないから、堯(ぎょう)や舜(しゅん)の時代のようになれば、)
 誰もが、知らず知らずのうちに、天帝の定めた天地自然の運行の法則に従って、一切が足りた思いで、生きていけるのだと良寛はこの詩で詠っています。

 自然のあるがままの姿こそ仏法の真理です。仏法の真理はよく月にたとえられます。良寛に題が「闘草」の漢詩412があります。

也(ま)た児童と百草を闘はす
闘ひ去り闘い来たりて転(うたた)風流
日墓 寥寥 人帰りし後
一輪の名月 素秋を凌ぐ

 一緒に遊んだ子供たちが帰った後、秋の夜の煌々と輝く月を見て、良寛は作為をなくして無心で生きている自分の存在を含むこの世界こそが、仏法の真理であると観じて、この詩を詠ったのではないでしょうか。

眼根旧によって双眉の素にあるを

 良寛の漢詩621があります。

両三年前 別れて我去り
今日再び来る 乙子の社(やしろ)
料(はか)り知りぬ 遍参(へんさん)別事無く
眼根(がんこん)旧によって双眉(そうび)の素(もと)にあるを
(編参…諸国を修行する)
 この漢詩は乙子神社の草庵に、足かけ三年ぶりに戻ってきたときの感慨を詠ったものです。その感慨とは、足かけ三年にわたって、諸国行脚の修行を続け、草庵に戻って来てわかったことは、以前と変わったような特別なことは何もなく、眼玉は相変わらず二つの眉の下にあるという当たり前のことだった、というものです。
 長期間の諸国行脚を終えて、何か特別なものを悟ったとかいうことではなく、眼は眉の下にあるというような、当たり前であること、すなわち、あるがままの姿が、そのまま仏法の真理であることを、良寛はこの諸国行脚で、改めて認識したのでしょう。

 この言葉は、道元が中国から空手還郷(くうしゅげんきょう…手ぶらで故郷に還ること)した際の言葉の中にある語句「眼横鼻直(げんおうびちょく)」を当然踏まえています。
 道元は、如浄という仏に会い、身心脱落を体験し、自らが仏となり、仏法そのものになりきったのだから、手ぶらで帰ってきたのです。経典を持ち帰ることが伝法ではないのです。
 身心脱落とは、肉体と精神の一切の束縛から解放されることであり、二つの眼は横に並び、鼻は縦にまっすぐ(眼横鼻直)という当たり前のことを、ありのままに知ることです。
 この詩は良寛が自分は、道元と同じ身心脱落の境地にあることを詠った詩ではないかと思われます。

 なお、この詩を詠んだ時期については、「乙子の社」とあることから、従来、良寛がおおむね六十代の十年間を過ごした乙子神社草庵時代と考えられてきました。しかし、私は五合庵に定住する以前に、一時的に乙子神社草庵に仮住していており、諸国行脚を終えてそこに戻ってきたときの三十代の作だと思っています。

生涯瀟灑たり破家の風

 良寛の漢詩410がある。

    驟雨
今日食を乞ふて 驟雨(しゅうう)に逢ひ
暫時廻避す 古祠(こし)の中(うち)
咲(わら)ふ可し 一嚢と一鉢と
生涯蕭灑(しようさい)たり 破家(はか)の風
(食を乞ふ…托鉢に出る)
(驟雨…にわか雨)
(咲ふ可し…高らかに笑おう)
(蕭灑…さっぱりして清々しい)
(破家の風…煩悩や分別心を滅却している者の生きざま)

 この漢詩の遺墨は多くあり、良寛のお気に入りの漢詩だったようです。
 托鉢に出かけ、にわか雨に遭い、しばし、古い神社の中で雨宿りした良寛。その良寛が持っているのは、頭陀袋一つと鉢の子(托鉢でいただいたお米などを入れる応量器)一つだけというものでした。
 この姿こそまさに、清貧に生きた良寛の理想とした姿なのです。世間から見たら冷笑に値する乞食僧(こつじきそう)の姿こそ、煩悩や分別心を滅却して、大悟して、名利の俗塵から脱出している者の姿であり、さっぱりした清々しい良寛の生きざまを象徴しています。
 そして良寛は、己のこの姿を、なんと素晴らしく、痛快なことではないか、と高らかに笑い、自讃しているのです。
 「破家」とは煩悩妄想を家財にたとえ、それらを滅却した身心脱落のさまを表しています。
 一方、良寛の生家で出雲崎町の名主であった橘屋は、弟の由之の代に、町民から訴えられた裁判に敗れ、家財没収のうえ、所払いになって、没落しました。まさに破家散宅になってしまったのです。良寛にとって、「破家」の語句には、実家橘屋の悲運のイメージが重なっているのかもしれません。
 「破家の風」の「風」は、他の漢詩662にある「西天の風流」の語句の「風流」と同じ意味でしょう。
 「西天の風流」とは、インドの釈尊から伝わった仏法そのもの、インドから来た達磨から伝わった禅そのもの、を表していると思われます。

騰騰天真に任す

 良寛の漢詩の代表作といってもよい漢詩467があります。この漢詩の遺墨も多く、良寛にとって、会心の作だったのでしょう。

生涯身を立つるに懶(ものう)く 
騰々(とうとう)天真に任す
嚢中(のうちゅう)三升の米 
炉辺(ろへん)一束(いっそく)の薪(たきぎ)
誰か問わん迷悟(めいご)の跡(あと) 
何ぞ知らん名利(みょうり)の塵
夜雨草庵の裡(うち) 
双脚(そうきゃく)等閑(とうかん)に伸ばす

 意訳してみると、
 私の生き様は、住職になって親孝行しようなどという考えを好ましくないものと思っており、ゆったりと、自分の心の中にある清らかな仏の心のおもむくままに任せて日々暮らしている
 頭陀袋(ずだぶくろ)の中には米が三升、囲炉裏端(いろりばた)には薪(たきぎ)が一束(ひとたば)あり、これで十分だ
 誰迷いだの悟(さと)りだのに誰がとらわれようか、また、名誉や利益といったこの世の煩(わずら)わしさにどうして関わろうか
 雨の降る夜は草庵の囲炉裏端で、(日頃の托鉢などで疲れた)両脚を無心にまっすぐに伸ばしている

 「騰騰」とは、煩悩・執着を消し去り、思慮分別を働かさせず、無心無作(むしんむさ)で、ありのままの姿で、何ものにも束縛されずに、ゆったりと生きているをさまを表す言葉です。
 「任天真」の天真とは、天真仏の略でしょう。禅学大辞典によると、「天真仏 我我の心は修証(しゅしょう…修行とさとり)造作(ぞうさ…作為)にわたらず、天然自然の当体そのままが仏であるということ。ただしこれは証悟を得た覚者によって見られた真心、法身、仏性などを指すものである。」
 良寛詩における「騰騰任天真」の類語に、「騰騰任運」、「随縁」などがあります。
 また、等閑には、なおざりという意味と、物事に意を留めないこという二つの意味があり、この詩の場合は後者の、無為無作にという意味です。

優游

 良寛の漢詩によく使われる言葉に「優游(ゆうゆう)」があります。はからうことなく、とらわれることなく、騰騰任運、随縁に生きる良寛のゆったりとした心・境地を表しています。
 なお、任運について、長谷川洋三氏は『良寛禅師の悟境と風光』の中で次のように述べています。道元禅における「任運」とは「精一杯の努力をした上で各人の徳分に応じて与えられるものに従うこと」なのであり、何もしないで成り行きに任せるという意味ではまったくない!」

 首句「自従一出家」の漢詩35があります。
一たび出家して自従(よ)り 
蹤跡(しょうせき) 雲烟に寄す
或いは樵漁(しょうぎょ)と混じり 
又(ま)た児童と共に歓(たの)しむ        
王侯曷(な)んぞ栄とするに足らん 
神仙は我が願いに非ず                      
遇う所 則即(すなわ)ち休し 
何ぞ必ずしも嵩丘(すうきゅう)の山のみならんや
彼(か)の日に新たなる化(か)に乗じ 
優游 年を窮(きわ)む可し
(蹤跡…歩き回った跡)
(樵漁…きこりや漁師)
(神仙…不老不死の神仙)
(遇う所…行き遇ったところ)
(休し…煩悩を断ち大安心を得る)
(嵩丘の山…達磨が坐禅した嵩丘山の寺)
(日に新たなる化に乗じ…日に日に変わる無常の自然の変化に身を任せ)
(年を窮む…生涯を送る)

  題が「聞之則物故」の漢詩375に次の句があります。
文を以(もっ)て恒に友に会し
優游 云(ここ)に年を極む
(文…漢詩漢文)
(友…三峰館で共に学んだ富取之則などの友人)
               
 首句「少小抛筆硯」の漢詩437に次の句があります。
優游又優游
薄(いささ)か言(ここ)に今晨(こんしん)を永(なごう)うせん
(今晨…ゆったりと朝を過ごす今の生活)

頑愚 信に比無し

 良寛の題が「次来韻」の漢詩567があります。

 来韻(らいいん)に次す   
頑愚(がんぐ) 信(まこと)に比無く 
草木を以て隣(りん)と為す
問ふに懶(ものう)し迷悟の岐(き)
自ら笑ふ老朽の身
脛(すね)を褰(かか)げて間(しず)かに水を渉り 
嚢(ふくろ)を携へて行(ゆくゆく)春に歩す
聊(いささ)か此の生を保つ可し 
敢へて世塵を厭(いと)うに非ず
(次来韻…人から贈られた詩の韻と同じ韻の詩を作る)
(頑愚…かたくなで愚かなこと)
(嚢…頭陀袋)

 良寛は自らを愚、癡、無能、閑者などと詩の中で語ることが多い。単に愚か者であることを自嘲しているのではない。賢しらさや思慮分別をなくし、無心無作に、騰騰任運に生きる姿が愚なのである。良寛は、禅僧にとって、愚こそ優れた素質であり、評価されるべきもの、価値あるものと考えていた。愚であることこそが悟りの境地に至った人間の姿なのです。

 この詩では、比類ないくらいの愚に徹している良寛は、草木を隣人とし、迷悟にもとらわれず、老いても独りで暮らし、裾をまくって小川を渡り、春になると頭陀袋を下げて托鉢に出かけているが、けっして世間との交わりを嫌っているわけではなく、こうした生き方を肯定しているのです。只管打座(しかんたざ)の修行を続けるため、山中の草庵に独居し、修行で培った何ものにもとらわれない心の赴くままに、縁に随い、優游と生きているだけなのです。       
 愚と似た意味で「疎慵」、「疎懶」という語も、良寛は詩の中で使っています。
 詩480では、「孤拙 孤慵を兼ね、我出世の幾に非ず、一鉢到る処に携へ、布衲(ふのう)也(ま)た相宜(よろ)し、時に寺門の側に来たれば、偶(たまたま)児童と期す、生涯那(なん)の似たる所ぞ、騰騰且(しばら)く時を過ごす と詠っています。
 さらに他の詩では「痴」、「無能」、「閑者」という語も、多く使っています。

蓆を敷いて日裡に眠る

 良寛の漢詩450がある。

一たび出家して自従(よ)り 
任運(にんぬん) 日子(にっし)を消す
昨日は青山に住し 
今日は城市(じょうし)に遊ぶ
衲衣(のうえ) 百餘(よ)結(けつ) 
一鉢 知んぬ幾載(いくさい)ぞ
錫(しゃく)に倚(よ)りて清夜に吟じ 
蓆(むしろ)を鋪(し)いて日裡(にちり)に睡(ねむ)る
誰か道(い)ふ 数に入らずと 
伊(こ)れ余(わ)が身即(すなわ)ち是(こ)れなり

 訳は

いったん円通寺を出てからは 
(はからいを捨て)運に任せて日々を過ごしてきた
昨日は緑の山の中に住んでいた 
今日は町の中に遊行(ゆぎょう)する
僧衣はつぎはぎだらけ 
一個の鉢を何年も使っている
月の美しい夜は錫杖に寄りかかって詩を吟じ
昼間はむしろを敷いて昼寝をする
人はよく「人の数にも入らぬやつ」というが
この言葉はすなわち私のことだ

 昼日中からむしろを敷いて昼寝するような人間は「人の数にも入らない」と思われがちだが、良寛は騰騰任運の生き方に徹しており、月が美しければ詩を吟じ、昼間眠くなればむしろを敷いて昼寝をするだけなのです。

 題が「偶作七首(その3)」首句が「自出白蓮精舎会」の詩416の最後に次の句がある。  
大道(たいどう) 毬(まり)を打つ 百花の春
前途 客(かく)有りて 如(も)し相問わば
比来 天地の一間人(いちかんじん)
(大道…町の大通り)
(百花の春…たくさんの花々が一斉に咲く春の日)
(相問わば…なぜそんなことをしているのかと問う)
(比来…このごろよく来る)
(天地の一間人…娑婆のひとりの閑人(ひまじん))

災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候

 文政十一年(一八二八)良寛禅師七十一歳の年の十二月十八日、栄町(現三条市)を震源とする大地震がありました。いわゆる三条地震です。死者約千六百名、倒壊家屋約一万三千軒という大地震でした。良寛は三条や与板の知人に安否を気づかう手紙など、地震に関する手紙を何通か出しています。特に有名なものが、与板に住む友人の山田杜(と)皐(こう)(とこう)への次の書簡です。
 「地しんは(まことに)に大変に候 (中略)
 うちつけに 死なば死なずて 長らえて かかる憂き目を 見るがわびしき
 しかし、災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候、死ぬ時節には 死ぬがよく候
是はこれ 災難をのがるる妙法にて候。かしこ」
 これは、自然随順の死生観を持ち、騰騰任運(とうとうにんぬん)、随縁に徹した良寛の悟達の境地を示すものとして、良寛の中では最も有名な言葉です。災禍に苦しんでいる人が聞けば、誤解しそうな言葉ですが、心境の高い山田杜皐であれば理解してくれると考えたのでしょう。  

 道元禅の忠実な継承者でもあった良寛は、道元の死生観を受け継ぎ、生死を超克していました。道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「生死(しょうじ)の巻」には次の一文があります。
「ただ生死すなわち涅槃(ねはん)とこころえて、生死として いとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分あり。」
(ただ生死輪廻の事実は、そのままが涅槃(真理、悟りの境地)であるとこの道理を明らめて、生死輪廻の人生を厭うて苦しんだり、悲しんだり、怖れてはならない。また涅槃という奇特な別な存在があるのではないから、涅槃を願うべきものでないと諦観(たいかん)すれば、そのとき初めて生死輪廻の苦しみと迷いを離れる道が現成(げんじょう)するのである。(訳は中村宗一『全訳正法眼蔵 四』誠信書房より))

 道元の「生すなはち不生、すなはち不滅。生来(き)たらば、ただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかひてつかふべし」という境地に、長年の修行によって良寛も達していたのです。

生きていく場合、死を忘れなければ、過ちを少なくして過ごせるだろう

 良寛の逸話があります。
 三条の成田屋主人から、生涯の宝とすべきものを書いてくれと頼まれ、全紙一杯に「し」の字を書いてやった。その意味が分からずがっかりしている主人を見て、「生きていく場合、死を忘れなければ、過ちを少なくして過ごせるだろう」と良寛は教えた。

 一休さんの頓知話に、一休さんが正月に「し」の字をかいた幟(のぼり)を持って、「し の用心」と大きな声を出しながら、街を歩いたというものがあります。

 七十四歳まで生き、江戸時代としては長生きだった良寛は、親しい友人や、自分の真価を理解してくれた知音が先に死ぬことが多く、そうした時の悲しみ、孤独、無常観を詠った詩458があります。

昨日 城市に出(い)で 
乞食(こつじき)すること西又た東
肩は痩せて 嚢(ふくろ)の重きを覚え 
衣は単(ひとえ)にして 霜の濃きを知る
旧友 何処(いずこ)にか去れる 
新知 相逢(あいあ)ふこと少(まれ)なり
行(ゆ)きて行楽の地に到れば 
松柏(しょうはく) 悲風多し
(城市…街)
(嚢…托鉢でいただいた米などを入れる頭陀袋)
(新知…新しい知音)
(行楽の地…三峰館時代に学友と行った繁華街)
(松柏…中国では墓地に植えられる→墓地を暗示)
                                         
 「古詩十九首」に次の句があります。
「去る者は日に以て疎く(中略) 古い墓は犂(す)かれて田と為り 松柏は摧(くだ)かれて薪と為る 白楊に悲風多く 蕭々と人を愁殺せしむ」

 貼交(はりまぜ)屏風の中にある、良寛の最晩年のものと思われる遺墨に、八念誦(はちねんじゅ)の経文の書があり、その中に次の語句があります。
 「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 謹莫放逸」

散る桜 残る桜も 散る桜

  この句は良寛の辞世の句と言われています。

 出所は高木一夫『沙門良寛』。同書の写真版によれば「地蔵堂町字下町、小川五平氏(当主長八)ヨリ出デシ反古中ニアリシ」と相馬御風氏が記した文書に、「良寛禅師重病之際、何か御心残りは無之哉(これなきや)と人問ひしに、死にたうなしと答ふ。又辞世はと人問ひしに、散桜残る桜もちる桜」とあります。
 ただし、良寛の最後を看取った人は、誰もこの句を記していませんし、遺墨も伝承もありません。古句が良寛の逸話に紛れ込んだのかも知れません。

 この句はまた、軍歌「同期の桜」の歌詞の中に、「咲いた花なら散るのは覚悟」とあるように、太平洋戦争時代にはよく知られた句のようです。

 幕末維新の志士雲井龍雄が明治三年に斬首される直前に、即興で詠んだものという説があります。
  私は、良寛の和歌だとすれば、良寛が徳川幕府の過酷な民衆支配に対して否定的な考えを持っていたと思われることなどや、良寛の和歌は、村山半牧などの維新の志士には、わりとよく知られていたと考えられることから、雲井龍雄も、同志の志士から、良寛作と思われていたこの句を、聞いて知っていた可能性があったのではないかとも考えています。

 臨終間際の今まさに命が燃え尽きようとしている良寛にとって、たとえ命がもう少し長らえても、それもまた散りゆくことには変わりがないのです。

 病気が重篤になった良寛は、下痢を止めるために食事を絶ち、薬も絶たれました。自然に命の灯が(ともしび)が消えて行く時を待たれたのです。

かひなしと 薬も飲まず、飯(いひ)絶ちて 自ら雪の 消ゆるをや待つ (貞心尼)

うちつけに 飯(いひ)絶つとには あらねども
且(か)つやすらひて 時をし待たむ
(うちつけに…だしぬけに)
(且つ…すこしだけ)

裏を見せ 表を見せて 散る紅葉

 貞心尼は『はちすの露』で、「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」を「こは御みづからのにはあらねど」と書いて、良寛の辞世の句のように記しています。
 なお、木因の句に「裏散りつ 表を散りつ 紅葉かな」や、也有に「裏表 には気もつかぬ 落ち葉かな」があります。
 良寛は数多くの紅葉の歌を詠むほどこよなく紅葉を愛していました。その紅葉はやがて散っていくものであることから、紅葉を残り少ない自分の命と重ねたのでしょうか。
 また、表と裏をひらひらさせながら、よどみなく舞いながら散って落ちていく紅葉の姿は、執着しない、とらわれないこと尊ぶ禅からみて、正徧五位説の正位(平等)と徧位(差別)が入れ替わりながら変化すること、すなわち、自在でとどこおらないことを象徴するものです。この句は執着しないとらわれない生き方を学べという良寛の最後の教えだったのかのしれません。
 しかしながら、この句は、末期の良寛が、貞心尼の歌「生き死にの 境(さかい)はなれて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき」という、生死(しょうじ)の迷いの世界から離れて住んでいるはずの仏に仕える身にも、避けることのできない死別という別れのあることがたまらなく悲しいという、貞心尼の悲痛な思いの伝わってくる歌に対する返しの句として詠まれたことを考えると、良寛は貞心尼に次の思いを込めて詠んだのではないでしょうか。
 「仏法の弟子であったあなたへは仏の教えを十分に伝えました(表を見せました)。そして、私のあなたへの愛しいと想う本心も含めた私のすべての生身の姿もあなたにはお見せしました(裏も見せました)。もう思い残すことはありません。」

 『はちすの露』の唱和編の最後の歌があります。
 貞心尼が「来るに似て 返るに似たり おきつ波(寄せては返す沖の波のように、命というものも、生まれて来ては、還って行くのですね)」と前句を唱(うた)と、良寛は「明らかりけり 君が言の葉(あなたのおっしゃることは、そのとおりで実に明らかなことです)」と付句して和(こた)えたのです。

南無帰命常不軽

 良寛の作品に『法華讃』があります。大悟徹底の禅者の視点で『法華経』の二十八品に対する自己の見解を「讃」(内容を讃える宗教的漢詩)として表現したものです。
 その中に次の讃79(『定本良寛全集 第三巻 書簡集 法華転・法華讃』の中の法華讃の番号)があります。

朝に礼拝を行じ 暮にも礼拝 
但(た)だ礼拝を行じて 此の身を送る
南無帰命(きみょう) 常不軽(じょうふぎょう)
天上天下(てんげ) 唯(た)だ一人(いちにん) 

 常不軽(じょうふぎょう)菩薩とは、法華経常不軽菩薩品に出てくる菩薩の名前です。一切の衆生は皆やがて成仏することを尊んで、誰に対してでも「我、あえて汝等を軽しめず、汝等は皆まさに菩薩の道を行じて、仏になるべきが故に」と言って礼拝しました。
 誰に対してでも礼拝してこの語を発したため、軽蔑されたり、石もて追い払われるなどの迫害も受けたといいます。
  良寛はこの常不軽菩薩を非常に尊敬しました。良寛の法華讃には131首の詩偈が含まれますが、そのうち常不軽菩薩品にはこの詩偈をはじめ6首もあります。
 良寛は全ての人は平等で貴い存在であるとの思いを抱き、托鉢などでふれ合う人々に「あなたは仏さまなのです」という気持ちで接していたのです。まさに良寛こそ常不軽菩薩そのものだったのです。
 托鉢僧として生きた良寛も、全ての人から受け入れられたわけではありません、乞食坊主と軽蔑されたり、冷たくあしらわれたりしたことも多かったことでしょう。からっぽの鉢の子を抱えて帰路についたことを詠った「空盂」という題の漢詩665もあります。
 常不軽菩薩は釈尊の過去世の姿とも言われております。良寛と同じく法華経を尊んだ宮沢賢治も「雨ニモマケズ」の詩の中で、「ミンナニデクノボートヨバレルモノニ、ワタシハナリタイ」と詩(うた)っていますが、デクノボーとは常不軽菩薩のことでしょう。
 良寛に常不軽菩薩を呼んだ和歌もあります。
僧の身は 万事はいらず 常不軽 
菩薩の法ぞ 殊勝なりける