関係人物 イ

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関係人物イ

飯塚久利(久敏) いいずかひさとし

井伊直経 いいなおつね

維馨(経)尼 いきょうに

和泉円 いずみまどか

稲川惟清 いながわこれきよ・ただすが?

井上桐麿 いのうえきりまろ

巌田洲尾 いわたしゅうび

【飯塚久利(久敏) いいずかひさとし 】後日記載
氏名・号
生没年
出身地
職業  上野(こうづけ)の歌人。
略歴
良寛との関係  解良家で、『橘物語』を書く。良寛の逸話五遍を載せる。

【井伊直経 いいなおつね】
   文政十一年(一八二八)良寛七十一歳の年の十二月十八日、栄町(現三条市)を震源とする大地震があった。いわゆる三条地震である。死者約千六百名、倒壊家屋約一万三千軒という大地震であった。
 与板藩の城下町与板も被害が甚大で、死者三十四人、全壊二百六十四軒であった。この三条地震で犠牲となった無縁仏を供養する法事が曹洞宗香積山徳昌寺で営まれた。法要の施主は与板藩第八代藩主井伊直経(なおつね)であった。このとき三十一歳。直経は第六代直朗(なおあきら)の七男。文政九年(一八二六)第七代直暉(なおてる)の養子になって第八代を継いだ。安政三年(一八五六)五十八歳で没した。
 良寛は香積山で無縁仏供養の法事が行われたことに感動するかなり長編の詩を詠んで、井伊直経を愷悌(がいてい)の君と讃えている。
 権力に決して近づかなかった良寛は、為政者に対する批判や賞賛を全くといっていいほど行わなかった。その良寛が、与板藩主の善行を讃える詩を詠んだことは極めて異例と言える。出雲崎を追放された弟由之が与板に隠棲していたため、与板藩に配慮してもらいたいという意図があったためという穿(うが)った見方もないわけではないが、私はやはり、被災者のため、与板の豪商たちに、食料や物資の拠出を命じ、また、自らも率先して人々の救済、人心安定に努めた若き与板藩主の温情あふれる行為に感動するとともに、名君として、今後も慈悲の心で領民を治めてくれるのではないかという期待が大きかったためではなかったかと思う。

【維馨(経)尼 いきょうに】
氏名・号  三輪家の出身。俗名は「おきし」。「ゆいきょうに」とふりがなされた本もある。維馨尼(維経尼と表記する場合もある)の維の字の由来が維摩経(ゆいまぎょう)であるならば「ゆいきょうに」と読むべきかも知れない。
生没年  一七六四~一八二二  良寛より六歳年下。
出身地  旧与板町(現長岡市)
職業  德昌寺の虎班和尚の弟子
略歴  大坂屋三輪家の六代多仲長高の娘おきしは、与板の山田重翰(しげもと)(杜皐(とこう))の兄弟の杢左衛門重富に嫁いだが、夫の死後は三輪家に戻り、徳昌寺の虎斑(こはん)和尚の弟子となって剃髪し、徳充院と号し、維馨尼(いきょうに)となった。三輪左一の姪である。
良寛との関係  文化四年(一八〇七)に、頼りにしていた叔父左一を亡くして、心痛のあまり維馨尼は病気がちになっていたのか、良寛は維馨尼に、文化四年(一八〇七)十月八日付けの健康を気づかう内容の手紙を出している。
 当時明版の大蔵経を復刻した日本版の大蔵経(黄檗版)が刊行されていましたが、文化十四年(一八一七)の春、伊勢の松坂に明版大蔵経九千余巻のあることを知るや、虎斑和尚は、急遽購入する決心をし、募金を始めました。五十四歳の維馨尼は、はるばる江戸へ勧進(募金)に出かけました。それを聞いた良寛は感激するとともに、維馨尼の身を案じて、文化十四年(一八一七)十二月に、詩や和歌を書いて送りました。良寛が女性に贈った唯一の漢詩です。
 また年が明けた文政元年(一八一八)正月十六日にも手紙を出しています。
 この良寛の心あたたまる二つの書簡は、維馨尼が亡くなるまで大切に保管していたもので、そのために、今に伝わっています。
 文政元年(一八一八)十一月、虎斑和尚は伊勢松坂に行き、書店に内金五十両を渡し、一部分を弟子二人で担いで帰って来ました。明版大蔵経の代価二百二十両の未納金百七十両と運賃等の経費の不足分を補うため、その後も虎斑和尚は募金を続けました。
 また、阿部定珍から万葉集に朱註の書き入れを頼まれた良寛は、九代三輪権平が所持している全三十冊の高価な『万葉集略解(りゃくげ)』を借りるために、文政二年(一八一九)十月十日、維馨尼に口添えを頼む手紙を出しています。真冬の江戸への長旅がたたったため、その後寝込んだのか、維馨尼を気づかった内容です。十一月二十日付けの維経尼あての良寛の健康を気遣う内容の手紙もあり、文政二年のものであるかもしれません。
 維馨尼は、病が癒えることがなかったのか、文政五年(一八二二)に五十九歳で没しました。  徳昌寺の維馨尼の墓碑には、「萬善維馨禅尼」の六字が刻されています。
  昭和五十八年、楽山苑の中に「天寒自愛の碑」が建立されました。
「 君 蔵経を求めんと欲(ほっ)し 
  遠く故園の地を離る
   吁嗟(ああ) 吾何をか道(い)はん 
  天寒し 自愛せよ
  十二月二十五日   良寛
 江戸にて 維馨尼 」
 
「 正月十六日夜             正月十六日の夜
春夜 二三更(こう)       等間 柴門(さいもん)を出づ
微雪 松杉(しょうさん)を覆ひ 弧月 層巒(そうらん)を上る
思人を思へば 山河遠く    翰(かん)を含んで 思ひ万端(ばんたん)たり

月雪(つきゆき)は いつはあれども ぬばたまの 今日の今宵(こよい)に なほしずかけり
        与板大坂屋        良寛
   維馨老尼  」

【和泉円 いずみまどか】
氏名・号  円は随亭と号した。
生没年  安永二年(一七七二)貧賤の家に生まれた。天保八年(一八三七)、六十五歳で没した。
略歴  少時より雑貨行商を経、中年より米綿の商をもって富豪となり、五泉町の町頭、町年寄りに上がり、名字帯刀を許された。円は心を国学に寄せ、香木園、千尋円の別号があり、家業の余、和歌国文をもって、世にあらわれた。家集『ひなのさえずり』二巻を残した。和泉円は、特に師について国学を学んだ人ではなかったが、その友人は多く、自叙伝には新潟の玉木勝良、田辺篤夫夫妻、寺山嘉胤、出雲崎の橘由之、加茂の小日向葵亭、林甕雄(みかお)(客寓の人)、見附の渋谷北洋、則清の井上桐麿、雁島の稲川惟清(雅水)、岩渕の大脇春嶺、新津の桂誉重をあげている。また、国外では、同郷の大江広海が江戸から京に入って、歌道をもって門戸を張っていた。歌文の添削などには、江戸の安田躬絃、清水浜臣、光房父子、小山田与清(まつのや)、京都の城戸千楯、伊勢の足代弘訓、備中の藤井高尚らがあり、互いに文通をしていた。
良寛との関係
 小山田は五泉の東方約七キロ、通称蟹沢山中腹から山麓にかけて繁茂する二百数十本の彼岸桜の名所で、当時文人の間に喧伝され、歌詩にも歌われたところである。由之がこの桜見に行くことになったのは、五泉の国学者和泉円(まどか)と雅友の交わりを得たからであった。
 天保二年(一八三一)正月六日、良寛没し、ついで、七月二十三日、由之の子馬之助も四十三歳でなくなった。円は十月「橘由之におくる」と題して、先年小山田の山歩きの折に約束したことなど忘れられたのではあるまいかと思い、去年の春も今年も待ちわびていたのにと、その重なる不幸を悼み、
  一重だに たえぬなみだを 二しへに かさねていかに 袖ぬらすらむと
と悲しんだ。さらに、三年後の天保五年(一八三四)正月十三日に由之が没し、教え子達が建碑して歌一首を求められたのに対して、次の歌を詠み贈っている。
  万世に 名はくちまやも けふ立つる しるしの石に 苔はむすとも

【稲川惟清 いながわこれきよ・ただすが?】
「和泉円の友人のうち、古志郡雁島の稲川惟清(画水)は、貞心尼著『蓮の露』の附録に彼女が「雁島なる稲川惟清翁の書き添へし言の葉」として一文を載せている.。柏崎の山田静里と同様、古志郡福島にいた貞心尼をたすけ、『蓮の露』の編集にも協力した一人であったかと思われる。」
(宮栄二氏、小林新一氏の『良寛のふるさと』(中日新聞東京本社東京新聞出版局 昭和四十三年 より)
  北川省一氏の『良寛遊戯』の中に次の文がある。
「貞心尼の知友だったとみえ、彼女の自家歌集「もしほ草」の中で彼の死をいたんだ一節がある。「画水翁の身まかりたるよし人のかたりけれどおのがもとへ何の音信もあらざりければよもさはあらじと思ふ折からおぼつかなさに人やりてとはせつるに聞しにたがはず十月三日の日世を去りしといひおこしたりければ
  いつはりの 世たのしみし 言の葉の まことなりしと きくぞかなしき  」
 この画水翁なる人物について「良寛と貞心尼の遺稿」の著者堀桃坡は次のように書いている。「雁島割元格又右衞門という者、貧窮の百姓を救うために領主の役人をごまかしたので入牢申付けられたところ岩室とかへ逃げたのだという。雁島では稲川という人を神に祀ってあるというのはこの画水翁かも分からない。」」

【井上桐麿 いのうえきりまろ】
氏名・号  井上桐斎は字を逸休、通称を仁兵衞、桐斎または随処と号した。
出身地  南蒲原郡田上村湯川の人
職業  柳川の庄屋
略歴  父智重の代以来、三条の柳川の庄屋となったが、桐斎の代で治世大いにあがり、文政九年(一八二六)、五十公野組(北蒲原郡)大庄屋に推され、則清村(現新発田市)に住んだ。桐斎は雛田葵亭、松川痴堂と交わり、経史にも通じたが、年三十にして、国学に志し、和歌にすぐれた。斉藤彦麿について学び、その一字を受けて桐麿と称し、梧之舎(きりのや)と号した。天保十四年(一八四三)、京に上り、松村宗悦の紹介で千種有功卿に謁し、和歌を唱和した。国学をもって新発田藩主溝口健斎侯に用いられ、藩中に重きをなしたという。
良寛との関係   解良栄重『良寛禅師奇話』に、「井上桐麻呂、(初ハ柳川ニ住ミ、今ハ則清ニ徙(ウツ)ル)、師ヲ尊信シテ、常ニ国上ノ草葊ヲトフ。当時ノ善人ヲ師ニ問フ。師ハ、余ガ父ヲ教ヘラル。尓後(ジゴ)、余ガ家ニ往来ス。」とあって、しばしば国上に良寛を訪れて教えをうけ、牧ヶ鼻の解良叔問と心を通わせ合った中であったことが分かる。

【巌田洲尾 いわたしゅうび】
生没年  一七九二~文化十三年(一八一六)信州松本で病死。享年二十五歳。
出身地  新潟市 職業  儒者、画家
良寛との関係 
 巌田洲尾の『萍踪(ひょうそう)録』によると、文化九年(一八一二)に二十一歳の洲尾は五合庵を訪れたが、留守だったので、自作の詩を残して帰った。
 残暑のころに再び訪ねてようやく良寛に会えた。そのときのことを、「清談一日、改めて洗髄の意あり」と書いている。そのときのことを詠んだ良寛の詩がある。
 主人に贈る    
詩有り 若干首(じゃっかんしゅ)  
家貧しくして艸稿(そうこう)のみ  
我 之を書して洲尾(しゅうび)に贈らんと欲す
主人 我が為に筆紙(ひっし)を給せよ
 洲尾は良寛から詩稿『草堂集』を見せてもらい、百余首を抜き出して『雲山餘韻』と題して出版しようとしたが、その前に亡くなった。
 二人合作の幅がある。洲尾二十二歳、良寛五十六歳の作。