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上杉篤興 うえすぎあつおき

上杉鷹山 うえすぎようざん

有願 うがん

遠藤幸助 えんどうこうすけ

【上杉篤興 うえすぎあつおき】
氏名・号  六郎ともいう。
職業  燕市小関の名主。国文学者。
良寛との関係  良寛や由之と親しく、良寛歌集『木端集(きのはししゅう)』を書く。             略歴 上杉六郎は関東管領上杉憲政の遠孫が土着した家系と伝え、代々小関村庄屋職を襲いだ旧家である。文政三年(一八二〇)彌彦神社祠官高橋斉宮邦彦の紹介で平田篤胤門に入り、特に懇望して篤胤の一字をもらって篤興と称したほど国学に執心であった。江戸に出て篤胤に師事して越後の門人増加に努め、気吹舎の門流発展につくすところが大であった。国学者生田萬の柏崎来往も彼の招請によるものといわれ、天保八年(一八三七)の柏崎騒動には上杉六郎も連座して、一時幽囚の憂き目にあった。彼は越後における平田学の中心人物として活躍した人である。文政十一年(一八二八)三月には、篤胤の嗣子鉄胤が二ヶ月ばかり越後に来遊し、下越方面で平田派の金策と学問扶植を図っているが、上杉ら越後門人の努力で、三条付近の庄屋層の入門が目立っている。上杉六郎は良寛没後、その追悼歌を詠んで木村家におくっている。
 もろひとの たむけの袖も うらひすと 馴(なれ)にし鳥も 天かけるらし
    はかなしと 何か嘆かむ 万代も 朽せぬ君が 碑(いしぶみ)ぞこれ       」
(宮栄二氏、小林新一氏の『良寛のふるさと』(中日新聞東京本社東京新聞出版局 昭和四十三年 より)
「  上杉篤興を語る際には柏崎騒動に触れなければならない。北川省一氏の『漂泊の人 良寛』に簡潔に記載されているので引用させていただく。
「天保八年(一八三七)二月の大塩の乱のうわさが越後の雪どけとともに拡がった六月のはじめ、今度は身近に持ち上がった柏崎騒動の衝撃が越後の津々浦々まで駆けめぐった。平田篤胤の高弟で、上州館林藩から追放された国学者生田万(いくたよろず)(三十七歳)は、前年、同じ篤胤門下の柏崎の神官らに招かれて来柏し、塾を開いて実践的な復古思想を講じていたのですが、連年の凶作のため、この年諸国は飢饉、越後にも餓死者が多く、柏崎の米相場は天保五年には十両につき二十三俵余であったものが、六年には十九俵余、七年には十二俵余となり、さらにこの年に入って四月には四俵余と暴騰しました。それにもかかわらず柏崎の陣屋は米商人に買収されて、越後米の領外移出の禁令を解いてしまった。そのことに激怒した生田は、ついに六月一日の夜明け、血盟の同志とと語らって、「奉天命誅国賊」「集忠義討暴虐」と大書した白旗を押し立て、口々に「大塩平八郎の一党なり」と大声に名乗りを上げて柏崎陣屋を襲ったが、事成らず、生田はじめ同志は自刃あるいは討死(うちじに)、逃げのびた首謀者の一人は江戸表に自首、牢死した。
 柏崎騒動の同志の多くは蒲原郡の者でした。最年長の鷲尾甚助は蒲原郡加茂に道場を開いていた尾張浪人の剣客で、平田篤胤に師事していた。水戸浪人で剣客の鈴木義隆は、篤胤の門人である三条・宮島家の食客、その他の若者たちも、あるいは地蔵堂近在の職人であったり、三条在の庄屋やその二男であった。柏崎騒動の取り調べには幕府自身が乗り出し、厳重を極めました。」 
 生田万の乱(柏崎騒動)の幕府による処罰は過酷で、生田万の家族までが処刑された。幕府は農民一揆に対しては、見せしめのために、常に首謀者を処刑したのである。
 上杉篤興について、渡辺秀英氏の解説した『木の端集(復刻)』(象山社 平成元年)によれば、おおむね次のとおり。
「天明八年(一七八八)に生まれたと推定される。良寛より三十歳年少である。
 釧雲泉に師事した。
 文政三年(一八二〇)篤興三十三歳頃に平田篤胤門に入る。
 帰郷後も越後での平田国学(古道宣揚、儒仏排斥、復古実現)の普及に努め、北国古学棟梁と呼ばれた。平田家は出版費用に多額の借金があった。
 篤興は平田家の窮状打破と民政向上を図るべく利根川下流の新田開発事業に着手した。
 文政九年(一八二六)開発の願書・見積書などを幕府に提出。
 文政十年(一八二七)四十歳の頃、名主を辞めて江戸に出る。結果は失敗に終わる。
 息子憲貞の伝では「父六郎大謀ヲ企テ、事敗レテ家産蕩尽シ、庄官ハ廃セラレ、如何トモスル能ハザルニ至リ」とある。
 天保元年(一八三〇)息子は名主となる。
 天保二年(一八三一)憲直の母が没し、後妻として水原の丹後氏の娘を迎える。
 天保三年(一八三二)後妻に憲貞が生まれる。
 天保四年(一八三三)憲直は家庭の窮乏や不安定な状態に意欲を失ったのか名主を捨てて放浪の旅に出る。
 天保五年(一八三四)名主職追放はもちろん、住宅も破壊されて追放の悲運に遭う。
 天保八年(一八三七)六月一日、生田万の騒動が起こる。五十歳の篤興は生田万を招聘した重要人物であったが、騒動には不参加。しかし、六月四日に篤興は召し捕られ、江戸へ送られ、九月十二日、宥免されて帰村仰せつけられるまで、幾多の苦難をなめた。
 天保十五年(一八四四)篤興は没した。享年五十七歳。」

【上杉鷹山 うえすぎようざん】
 良寛が武士に決して近づかなかった理由は、領主・武士のほとんどが農民を差別し、武力で弾圧し、搾取したからであった。しかし良寛が唯一注目した領主がいた。米沢藩の上杉鷹山である。
 度重なる飢饉で多くの餓死者が全国にあふれた中、唯一、米沢藩だけは餓死者をほとんど出さず、百姓一揆もおきなかったという。その蔭には、破綻した藩財政を立て直すため、徹底的な倹約と、殖産興業に力を注いだ上杉鷹山(ようざん)公という名君の存在があった。
 良寛三十代の関東・東北行脚の目的の一つは、川内芳夫氏が指摘したように、上杉鷹山公の治績を見聞することだったのであろう。良寛は上杉鷹山公の治績を自分の目で見るために、わざわざ米沢まで出かけたのである。良寛ほど、越後の貧しい農民を救う名君を渇望していた者はいなかったのである。
  上杉鷹山公はケネディ大統領が最も尊敬する日本人として挙げた人物です。鷹山公が次の藩主に家督を譲る際に示した藩主の心構えが次の三箇条の「伝国の辞」です。
  一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
  一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
  一、国家人民のために立たる君にて君のために立たる国家人民にはこれなく候
  鷹山公には次の歌もある。
 受けつぎて 国の司の 身となれば 忘るまじきは 民の父母
上杉家に伝わる「伝国の辞」の精神を受け継いだ鷹山公は、大森子陽の師でもあった細井平洲を師として、その教えを守り、善政を行ったのである。

【有願 うがん】
氏名・号  名:有願。号は信景、海翁、東岫(とうしゅう)
生没年  元文三年(一七三八)~文化五年(一八〇八)享年七十一歳。
出身地  南蒲原郡大島村代官新田の里正(村長)田澤氏の息子。
職業   曹洞宗の僧。書の達人。白根市茨曽根の円通庵に住持していた。 
良寛との関係  良寛より二十歳年上の道友。良寛は有願の書(狂草)、思想、生き方から大きな影響を受けた。
 良寛がいつ有願と知り合ったかについては不詳であるが、良寛が帰国後新潟町で偶然に有願が辻説法しているときに出逢い、再会を喜ぶ漢詩があることから、良寛の帰国(四十歳頃の五合庵定住)以前に面識があったものと思われる。例えば、良寛が十八歳の年に橘屋を出奔し、二十二歳の年に円通寺に赴くが、その間に大森子陽を通して、たまたま越後に来た有願と逢っている可能性もある。あるいは、天明五年(一七八五)及び天明八年(一七八八)に、良寛は紫雲寺の観音院で宗龍と相見しており、このときの安居に有願も参加した可能性もある。
 有願の住んだ円通庵(田面庵)のある旧白根市(現新潟市南区)新飯田(にいだ)の中ノ口川沿いには桃の花のたくさんあり、良寛は次の歌を詠んでいる。
この里の 桃の盛りに 来て見れば 流れにうつる 花のくれなゐ 
 良寛には有願の死を悲しんだ詩歌がある。
略歴 寛延四年(一七五一)有願十四歳の年、中蒲原郡茨曾根村永安寺(そうとうしゅう)の住職古岸大舟に投じ、疎懶の性風狂子に類し、人は多く愚となした。
 大森子陽も大舟に学んでおり、有願と大森子陽は親しかったと思われる。
 宝暦十四(一七六四)有願二十七歳のとき加賀天徳院の悦巌素忻(えつがんそきん)につき得度し、修行した。得度は古岸大舟と悦巌素忻の二説ある。
 悦巌は岡山県円通寺開山徳翁良高(とくおうりょうこう)から、良高-黙子(もくす)-悦巌-宗龍と法を嗣いだ人である。
 良寛に影響を与えた大而宗龍(だいにそうりゅう)と有願は兄弟弟子となり、互いによく知っていたと思われる。
 良寛は良高-全国-国仙-良寛と法を嗣いでいる。悦巌も宗龍も良寛もともに徳翁良高から出ている。
 有願はのち、西蒲原郡燕町萬能寺の第六世住職となる。
 肥前佐賀の高伝寺の住職におされる
 筑前侯の香華院(円光院)に招かれる
 姫路の景福寺の住職となる
 岡山県の円通寺に立ち寄ったか?
 故郷を出でて江戸駒込に住し、乞丐(こつがい=コジキ)の徒を率いて参禅したという逸話がある。
  安永元年(一七七二)有願三十五歳の年、上州の八幡山長伝寺(群馬県安中市)に住す
  天明元年(一七八一)有願四十四歳の年、諸国行脚を終え越後に帰国
 書は張旭(ちょうきょく)の風を学んで狂草を得意とし、画は狩野玉元に学んだ。
  天明三年(一七八三)有願四十六歳の年、新飯田円通庵(田面庵)三世住職?となる
 天明八年(一七八八)有願五十二歳の年、玉元画の屏風十牛図に賛を書す
 村の子供達に手習い等を教える
  村の道路工事等に献身的に働く
  文化五年(一八〇八)八月三日遷化。享年七十一歳
 良寛は詩歌に有願居士とも書いており、有願は一時期還俗してたかもしれない。
 円通庵に有願の歌碑があり、碑陰に略歴を原田勘平氏が書いている。
円通庵有願歌碑
 有願さま御うた
ふる里はももの林に牛の子のあそぶのみにて皆たがやせる    勘平書
碑陰の文章
「有願和尚ハ代官島ノ里正(りせい)田沢氏ノ出デ元文三年ニ生マレタ。少時茨曽根永安寺ノ大舟和尚ニ投ジテ出家シタ。性来常人ト異ナッタノデ人多ク之ヲ愚トシタト云ウ。后(のち)燕町ノ万能寺ノ住職トナリ或ハ加賀天徳院ノ悦巖(えつがん)ニ参ジタガ、多クハ消息不明デアッタ。晩年越後ニ帰リ、新飯田ノ田面庵ニ隠居シテ第三世ヲツギ、村ノ子弟ヲ教エテ徳望近隣ニ高カッタ。文化五年八月三日ニ没ッシタ。行年七十三。和尚ハ詩文ニ長ジ、書ヲ張旭(ちょうきょく)ニ学ビ、画ヲ玉元ニ師事シテ一流ノ風格ガアル。又親シク良寛ト交リ応答ノ詩ガアル。遺稿ニ九相図ガアリ、髑髏ノ詩三百十五首ヲノセテイル。信景(しんけい)、海翁(かいおう)、東岫(とうしゅう)等ハソノ号デアル。昭和三十九年三月建」

【遠藤幸助 えんどうこうすけ】
氏名・号  三浦屋幸助、三幸
生没年  一七七一~天保五年(一八三四)享年六十四歳。
職業  三条市二之町の菓子商の主人。屋号は三浦屋。都羊羹で知られた。
略歴  本業のほか、俳諧や画を好み、風流に暮らした文人。良寛のほか鈴木牧之や林甕雄とも交流があった。加茂に移住したようである。子供の遠藤元助も良寛と交遊があった。現在、墓は三条市の定明寺にある。
良寛との関係  良寛と親交があり、良寛が三条に行くとよく立ち寄った。良寛から「月の兎」の長詩を書いてもらう。良寛を荼毘に付す直前に三条から駆けつけた人物は遠藤幸助と思われる。良寛の墓前で詠んだ句がある「もの言はぬ花にもの言ふ墓の前」。