関係人物 キ

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関係人物 キ

義諦 ぎてい・ぎたい

義提尼 ぎていに

義苗 ぎみょう・ぎびょう

木村周蔵 きむらしゅうぞう

木村元右衛門利蔵 きむらもとえもんとしぞう

九二 きゅうじ・くに

京屋野口家 きょうやのぐちけ

【義諦 ぎてい・ぎたい】
氏名・号  福島尊衲。雅号は花笑、如実庵。
職業  浄土真宗の僧。
略歴 木村家と鈴木牧之との間の手紙にでてくる福島尊衲は義諦という僧。相馬御風氏『良寛百考』の記述から、長い間、貞心尼の住んだ閻魔堂のある長岡市福島に、西誓寺如実庵があり、そこの僧とされてきたが、藤田正夫氏の「沙門義諦を追って」(『良寛』四十四号 平成十五年)によって、旧南蒲原郡栄町福島新田一六九〇の浄土真宗本願寺派徳誓寺の僧・義諦と判明した。如実庵は雅号。牧之の親しい俳友と思われる。
良寛との関係  鈴木牧之が、自分が描いた画に良寛の讃を書いてもらおうとして、義諦に頼んで、木村家及び良寛と、鈴木牧之の間をとりもってもらった。良寛と義諦が歌で阿弥陀の誓いについての問答もしている。

【義提尼 ぎていに】
氏名・号  義貞尼とも。
職業  尼僧。国仙和尚の末弟子。歌人。玉島の真如庵に住む。
良寛との関係  良寛はすぐ上の兄弟子にあたる。良寛に和歌の影響を与えた。寛永二年の冬、良寛と義堤尼は国仙和尚から、ほぼ同じ時期に「印可(いんか)の偈(げ)」を授かっている。
 国仙和尚が義堤尼に与えた「印可の偈」の訓(よ)み下し文は次のとおり。
 義堤禅尼に附す。
男に非ず女に非ず丈夫の子
鬼に非ず紙に非ず小尿の児
為に附す山形爛藤(らんとう)の杖
看んと要す宝珠を撃砕するの時を

【義苗 ぎみょう・ぎびょう】
生没年  ?~文化元年(一八〇四)没。
職業  旧分水町(現燕市)国上にある国上寺の僧。享和二年(一八〇二)まで住職をしていた。
良寛との関係  義苗は享和三年(一八〇三)に国上寺の住職を退隠して五合庵に入った。そのため、四十六歳の良寛は五合庵を出て、西生寺や照明寺密蔵院で仮寓した。文化元年(一八〇四)正月義苗が亡くなったため、良寛は五合庵に再入庵した。

【木村周蔵 きむらしゅうぞう】
 木村家第十二代元右衛門。利蔵の子。放蕩にふけったため、十一代元右衛門利蔵に勘当される。しかし、良寛の取りなしで勘当がとける。良寛からの訓戒の手紙が一通残る。

【木村元右衛門利蔵 きむらもとえもんとしぞう】
 和島村(現長岡市)島崎の能登屋木村家は近世の始め、菩提寺の浄土真宗隆泉寺とともに能登から越後に来た家である。島崎の百姓代を務めた。明治までは代々元右衛門の名を世襲した。
 木村家十一代元右衛門利蔵(としぞう)(一七七六~一八四八)が当主の時、良寛を迎入れた。利蔵は兄の木村家十代元右衛門の遺言を守って、一切経とそれを納める大蔵経を隆泉寺に寄進した。利蔵の子の周蔵が木村家十二代を嗣いだ。周収蔵の妹がかのである。
 文政九年(一八二六)晩秋から天保二年(一八三一)一月六日に良寛が示寂するまでの足かけ六年間、良寛を受け入れ、世話をした。

【九二 きゅうじ・くに】
職業  画家?
良寛との関係  九二と早川樵巴は文政十二年(一八二九)島崎の良寛を訪ねた。九二はその時の草庵内部の様子を描いた「島崎草庵図」を、良寛が亡くなった年の天保二年の四月に書き残す。絵は現在は相馬御風記念館(糸魚川市歴史民俗資料館)にある。

【京屋野口家 きょうやのぐちけ】
 京屋野口家は京都から移ってきた家。尼瀬(あまぜ)は上杉時代には出雲崎の一部であったが、江戸時代初期に、京屋野口家が代官に働きかけて尼瀬を独立させ、尼瀬の名主になった。出雲崎港よりも良港であった尼瀬港を有する地の利と商才にすぐれ、出雲崎の名主橘屋山本家と勢力争いを行うようになった。金紋高札を建てる場所を橘屋の前から京屋の前に移したり、代官所を出雲崎から尼瀬に移したりして、橘屋山本家を徐々に圧倒していった。
 出雲崎の中でも、京屋と親戚で筆頭町年寄であった敦賀屋鳥井家と橘屋も敵対的な関係になってゆき、由之の代になるとついに、文化七年(一八一〇)裁判に訴えられて敗訴し、家財取上、所払いとなって、名門橘屋は没落した。

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