良寬関係人物 クケ

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良寛関係人物 クケ

雲泉 くしろうんせん

桑原祐雪 くわばらゆうせつ

玄乗破了 げんじょうはりょう

解良喜惣左衞門栄綿 けらきそうざえもんよしつら → 解良叔問 けらしゅくもん

解良叔問 けらしゅくもん

解良栄重 けらえいじゅう → けらよししげ

解良三郎兵衛栄重 けらさぶろうべえよししげ → 解良栄重 けらよししげ                

解良栄重 けらよししげ

源蔵 げんぞう

玄透即中 げんとうそくちゅう

【釧雲泉 くしろうんせん】
氏名・号  名は就、字は仲孚、号は雲泉、通称は文平。
生没年  一七五九~文化八年(一八一一)
出身地  肥前(長崎県)島原生まれ。
職業  画家。
略歴  若い頃中国人から絵を学び、山陽、京阪、江戸を遍歴して画境を高めた。越後へは文化三年(一八〇六)江戸の詩人大窪詩仏とともに来遊し、文化八年(一八一一)十一月十六日出雲崎の「けんどんや」で急死するまで、滞在した。酒を愛し、茶をたしなみ、魚釣りを楽しんだ。この時期、出雲崎には杜澂五適、亀田鵬斎、石龍和尚らが来遊していた。良寛記念館の前庭に亀田鵬斎の文と書になる「釧雲泉の碑」が建てられている。
良寛との関係  文化三年(一八〇六)から八年に客死するまで出雲崎に滞在した。

【桑原祐雪 くわばらゆうせつ】
  旧和島村(現長岡市)島崎の医師。木村家の斜め向かいの島崎川に面した場所に家があった。あるとき河童を助けたことからお礼に止血剤をもらった。それ以降、桑原家は河童医者といわれ繁盛した。良寛はそのいわれを「水神相伝」にまとめた。祐雪の子の祐順も医師で、親子二代にわたって、良寛と親交があった。


【解良叔問 けらしゅくもん】
氏名・号  解良喜惣左衛門栄綿(よしつら)、号は叔問
生没年  一七六五~一八一九
出身地  分水町(現燕市)牧ヶ花
職業  分水町(現燕市)牧ヶ花の庄屋解良家第十代
略歴  多くの文人を招き、漢学、和歌、国学を学んだ。長く庄屋を務め、村民から慈父の如く慕われた。法華経を信仰した。叔問の弟は旧和島村(現長岡市)上桐の柄澤家の養子に入った。叔問の長男は夭折し、次男栄忠(よしただ)が解良家十一代を嗣いだが、二年後に隠居させられ、栄忠の弟熊之助栄(三男)が文政五年(一八二二)解良家十二代を嗣いだ。四男雄四郎は小千谷市片貝の佐藤家に婿入りし、秋山郷の飢饉を救った。文政十一年(一八二八)熊之助栄が退役し、叔問の末子栄重(よししげ)(一八一〇~一八五九)が解良家十三代を嗣いだ。栄重は『良寛禅師奇話』を書き残した。『良寛禅師奇話』に次の話がある。
 「井上桐麻呂、(初ハ柳川ニ住ミ、今ハ則清ニ徙(ウツ)ル、師ヲ尊信シテ、常ニ国上ノ草葊ヲトフ。当時ノ善人ヲ師ニ問フ。師ハ、余ガ父ヲ教ヘラル。尓後(ジゴ)、余ガ家ニ往来ス。」
 この話の善人とは信心深い人、慈悲深い人という意味ではないか。
良寛との関係   三峰館時代の学友。最も有力な良寛の外護者。解良家の中でも特に良寛と親しかった。良寛は法華経を写して解良叔問に贈った。地蔵尊の石像に埋められたという。良寛が解良叔問へ、庄屋の心得を説いて与えた歌があえる。
領(し)ろしめす 民があしくば われからと 身をとがめてよ 民があしくば
(領ろしめす…領治する)


【解良栄重 けらよししげ】
 牧ヶ花村の庄屋であった解良家十代の喜惣左衛門栄綿(よしつら)(叔問(しゅくもん))は大森子陽の三峰館で良寛と共に学んだ学友であった。良寛の五歳年少である。良寛を支援した有力な外護者の一人であった。温厚な性格と深い思いやりで村民から慈父のごとく尊敬された。寛政八年(一七九六)から五十七歳で亡くなる文政二年(一八一九)まで二十四年間庄屋役を務めた。
 その叔問の長男は夭折し、次男三男が十一代、十二代を嗣いだが、家政を治めることに堪えられず、文政十一年(一八二八)十二代栄が退役したとき、四男の雄四郎が小千谷市片貝の佐藤家へ養子に入っていたため、五男の三郎兵衛栄重が十九歳で家督を継ぎ、十三代となった。
  栄重は文化七年(一八一〇)良寛が五十三歳の年の生まれで、正月八日に生まれたので正八と名付けられた。後に第六代と同じ三郎兵衛を名のったが、三男ではなく、五男である。
 『良寛禅師奇話』を書き残したことでも知られる栄重は、学問や文学を好み、橘守部、林国雄、林甕雄(みかお)、鈴木重胤(しげたね)、近藤万丈等から教えを受けている。
 栄重は安政三年(一八五六)村上藩地蔵堂組の大庄屋富取庫之亟(くらのじょう)が亡くなった時、その嗣子が幼少で職に堪えないため、所管の四十余村の推挙を受けて大庄屋職を後見した。父の叔問同様村民から敬慕された。
 『良寛禅師奇話』は、良寛が亡くなった時二十二歳だった栄重が、三条の宝塔院などで、良寛から聞いた話などの筆録である。
 良寛と直接接した人の記述だけに、信頼度も高く、良寛研究の貴重な資料となっている。
 内容は長短五十六話の良寛の逸話が納められている。良寛没後十五年目頃、栄重三十六歳頃に書かれたものと推測される。  
  良寛の人柄や品格を最もよく表す次の逸話も記述されている。
「師ハ余ガ家ニ信宿(シンシュク)日ヲ重ヌ(注1)。上下自ラ和睦シ、和気家ニ充チ、帰リ去ルト云ヘドモ、数日ノ内人自ラ和ス。師ト語ルコト一夕スレバ、胸襟(キョウキン)清キ事ヲ覚ユ。師ハ更ニ内外ノ経文ヲ説キ、善ヲ勧ムルニモアラズ。或ハ厨下ニツキテ火ヲ焼キ、或ハ正堂ニ坐禅ス。其ノ話、詩文ニワタラズ、道義ニ及バズ、優游トシテ名状スベキ事ナシ。只道徳ノ人ヲ化スルノミ。」
 (注1)信宿とは二泊すること

 

【玄乗破了 げんじょうはりょう】
生没年  ?~文化十一年(一八一四)
職業  曹洞宗の僧。
略歴  出雲崎町尼瀬にある光照寺の第十二代住職。第十一代の蘭谷万秀の跡を継いだ。
良寛との関係  玄乗破了は国仙和尚の三番目の弟子。良寛は二十九番目の弟子であるから、良寛の兄弟子にあたり、良寛は漢詩の中で「師兄(すひん)」と呼んでいる。
 良寛二十二歳の、安永八年(一七七九)玄乗破了の晋山式(しんさんしき)のために、光照寺に巡錫してきた備中玉島の円通寺住職大忍国仙和尚により、良寛は得度して正式な僧となった。その後良寛は円通寺の国仙のもとで十三年間修行した。

【源蔵】
良寛の幼名との説もあるが、榮蔵のくずした書体を源蔵と読み間違えたものとの説もある。

【玄透即中 げんとうそくちゅう】
出身地・生没年  享保十四年(一七二九)に名古屋に生まれ、良寛より二十九歳年長である。
良寛との関係  国仙和尚示寂後、円通寺の第十一世住職となった。
略歴 玄透即中は剛毅果断、学徳兼備の誉れ高く、曹洞宗門屈指の傑僧、永平寺中興の祖と呼ばれている。
 出家した後、清涼寺の頑極官慶を本師として嗣法する。その後、美濃の善応寺、武蔵の龍穏寺に住した。第十一世となった円通寺では『円通応用清規(しんぎ)』を編した。
 寛政七年(一七九五)には、第五十世として永平寺に晋住した。永平寺では、僧堂を古規にならって建立し、伽藍や規矩の復興に努め、古規復古運動を推進した。
 享和二年(一八〇二)に、道元禅師五百五十回大遠忌を修行するとともに、これに因(ちな)(ちな)んで九十五巻本の『正法眼蔵』を初めて開版した。宗祖道元の『正法眼蔵』については長い間、その出版が禁じられてきたが、玄透は幕府に働きかけて出版の許可を得た。これらは永平寺中興の祖にふさわしい玄透の功績である。
 また、当時、永平寺と総持寺は対立しており、総持寺側が幕府に訴えて別立しようとしたところ、玄透は自ら幕府に出向いて抗論し、遂に旧例に復することを得た。このように玄透はきわめて高い政治力を有していた。
 文化元年(一八〇四)、光格天皇より「洞宗宏振禅師」号を賜る。
 文化四年(一八〇七)遷化。世寿七十七歳。
 玄透の最大の活動は、黄檗宗の影響を受けていた当時の曹洞宗門を、道元の頃の宗風に戻すことであり、彼はその古規復古運動の中心人物であった。当時、曹洞宗では月舟宗胡を先達としながら、卍山(まんざん)道白、面山瑞方(ずいほう)などによって、古規復古運動が展開されていた。中でも面山瑞方と玄透は、『永平大清規』への復古を強く訴え、当時輸入されていた明代の作法などを批判し、『黄檗清規』を批判した。また、特に玄透は「木魚」について、大いに批判し、当時永平寺にあった木魚を全て打ち壊したともいわれる。これらの動きは曹洞宗門の中で多数派になりつつあった。
 そのため、黄檗宗の影響を強く受けて、禅浄一致の家風であった全国高外一派を彼らは疎んじ、徐々に締め出しを強めていったものと思われる。
 国仙の示寂の少し前には、玄透が、国仙の次の円通寺住職になることが内々決まっており、当然良寛もこれらのことは知っていたはずである。