良寛関係人物 サ行 サ

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関係人物 サ

斎藤伊右衛門 さいとういえもん → 斎藤源右衛門 さいとうげんえもん

斎藤源右衛門 さいとうげんえもん

斎藤忠蔵家 さいとうちゅうぞうけ

坂口文仲 さかぐちぶんちゅう

笹川九之助 ささがわくのすけ

佐藤耐雪 さとうたいせつ

佐藤遍澄 さちうへんちょう → 遍澄

三峰館 さんぽうかん

【斎藤源右衛門 さいとうげんえもん】
氏名・号 伊右衛門ともいう。
生没年  一七六二~天保九年(一八三八)没した。享年七十六歳。
出身地・職業  旧分水町(現燕市)中島の庄屋。廻船問屋。
略歴・良寛との関係  和歌や俳諧も巧みで、良寛と交友があり、良寛に百合根なども贈る。

【斎藤忠蔵家 さいとうちゅうぞうけ】
 新潟県新発田市米倉の大庄屋。斎藤家の庭園は名園として知られる。
良寛との関係  斎藤家には蔵書も多くあったらしく、良寛は斎藤家を訪ねて、書物を読んだ。それを詠った漢詩がある。

【坂口文仲 さかぐちぶんちゅう】
氏名・号
生没年 一七八〇~一八四七
職業  新津市(現新潟市秋葉区)の医師。
略歴  俳諧、詩歌、漢学を好んだ。子孫に坂口安吾が出ている。
良寛との関係  三十七歳の坂口文仲は、文化十三年(一八一六)に、五合庵に五十九歳の良寛を訪ね、歌を詠み交わした。   
萩箸(はぎばし)と 世に伝えしを 茅萱(ちがや)箸  花をしみてか 枝をしみてか  (坂口文仲)
草の庵(いお)   何とがむらむ 茅萱(ちがや)箸  惜しむにあらず 花をも枝も (良寛)
 坂口五峰氏の『北越詩話』によれば、酒を持参した坂口文仲に、良寛は野蔬を摘んで下物と為し、茅萱を剪って箸と為したといいます。家に帰ってから文仲は良寛を「にせ道人に過ぎん」と酷評したという。
 良寛は、来客にすり鉢で足を洗わせたり、墓地から拾ってきた欠けた茶碗でご飯をもったり、墓地に生えていた芹を摘んで料理したりすることなどがよくあった。この茅萱の箸(ススキの茎を切って作った箸)もその類いである。一見非常識に思われる応対であるが、良寛は日頃の清貧の生活そのままの姿で、接しているだけなのである。あるいは、貧富、浄穢の富や浄を志向する意識を捨て去るべきだという教えを行動で実践しているのかも知れない。
 おそらく文仲は、詩歌書に秀でた風雅な文人として、良寛を想像して訪問したのであろう。そうしたところ、乙子神社に移転する直前の五合庵はかなり老朽化した庵であったと思われるうえに、五合庵の周りの野草を摘んだだけの料理に、茅萱の箸という粗末な対応に、大きなギャップを感じて、幻滅したのではないか。それで、「にせ道人に過ぎん」と言ったのあろう。
 谷川敏朗氏は『良寛の逸話』の中で、「別に文仲と一緒に行った人の「良寛初対面の図」がある。それに文仲が識語を書いているから、「にせ道人」という評価は本心からではあるまい。」と述べている。

【笹川九之助 ささがわくのすけ】
職業  旧吉田町(現燕市)溝の庄屋。
良寛との関係  三峰館時代の良寛の学友。良寛より一歳年少。

佐藤耐雪 さとうたいせつ(1876~1960)
 佐藤耐雪(本名:吉太郎)は良寛顕彰の父と十呼ばれている。良寛記念館に耐雪翁の顕彰碑があり、簡潔にまとめられているので掲げる。
「良寛のみ年あやかり屠蘇をくむ 耐雪
耐雪翁は明治九年尼瀬に生まれ博学にして人格高潔郷土の振興に献身された。研究は出雲崎編年史をはじめ十余編の著書とされ、先賢の顕彰は良寛堂、良寛記念館の建設や俳諧伝統塚、芭蕉銀河碑、釧雲泉碑の建立となり、たしなまれた俳句には若翁集などを残された。町政に参画しては教育文化産業進展に尽力し昭和三十五年八十四歳の天寿を全うされた。茲にその遺徳を刻み後世に伝える。
 昭和四十六年九月十六日耐雪佐藤吉太郎翁遺徳顕彰会」
 顕彰碑の碑面筆者は安田靫彦、碑陰の顕彰文と書は渡辺秀英である。
 耐雪は書籍商・漁業・林業を営む傍ら、出雲崎の郷土史を研究した。相馬御風や安田靫彦と親しくした良寛研究家であった。
 耐雪の主な著書に、句集『日向ぼこり』『五適杜澂伝』『北越資料出雲崎』『出雲崎の史的俳味』『出雲崎編年史』『山本以南翁』『良寛遺墨集』『良寛の父橘以南』など多数ある。これらのうち、昭和三年に刊行された『良寛遺墨集』は遺墨集の規模としては戦前最大の歴史的名著である。
 『出雲崎編年史』は耐雪翁が約五十年の年月をかけて執筆した原稿用紙六千枚に及ぶ大著である。内容は神代から明治末期までを年代別に分け、出雲崎の歴史を論述集大成したものである。良寛の生家で出雲崎の名主であった橘屋の盛衰に関わる歴史も、京屋野口家や敦賀屋鳥井家との確執・抗争の経緯に関する資料等、非常に詳しく調べたものであり、良寛研究の基本的資料として極めて重要なものである。しかし、翁の生前には出版が実現せず、没後昭和四十七年、全三巻総計六百余ページの大冊となって刊行された。
 『良寛の父橘以南』は昭和十年に出版されたもので、昭和五十六年に復刻版が刊行されている。内容は「北越蕉風中興の棟梁」と賞された著名な俳人だった良寛の父以南の伝記である。橘屋と京屋との関係から詳述し、以南の京都での入水自殺の経緯が記されているほか、以南の没後に出された以南追悼句集『天真佛』も収載されている。この書の中で、以南が勤皇家であったとの説にはそれを裏づける資料がないと指摘している点などが注目される。
 良寛の生家橘屋を嗣いだ弟の由之が裁判に敗訴して以降、橘屋は没落し、橘屋の生家跡は人手に渡って分割され、二十数軒の民家が密集していた。佐藤耐雪は、こうした状況を歎き、何とか跡地を買収し、良寛顕彰の象徴となる記念碑を建てたいと思うようになった。そして、大正四年出雲崎で講演した山田寒山師の「ご当地は良寛さまのお生まれになった全国に誇るべき一大聖地でありながら、未だに良寛さまを顕彰する何物もないではないか。『良寛上人誕生之地』くらいの石碑でも建てようという人は出ないのか」という警句もあり、町の有志と図り、良寛寺建立運動が始まった。
 大正六年「大愚山良寛寺造営趣意書」が作られ、総額三千円の寄付金募集を開始した。発起人は佐藤耐雪をはじめ十二名が名を連ねた。最終的には寺ではなく、良寛堂と名付けられた小堂となった。
 大正七年本格な寄付金募集活動が始まった。寄付は金圓だけでなく、良寛の遺品の提供、画家などの芸術家からは書画等の作品の提供を募った。芸術家からの書画作品は展示会などで買い上げてもらい建立資金とした。
 同年三月に橘屋屋敷跡の買収移転が始まった。買収が全て終わったのは大正十一年四月の地鎮祭の後であった。
 大正七年十月十九日に、耐雪は初めて大磯町の安田靫彦画伯を訪問した。
 大正十一年四月十一日に地鎮祭、着工。七月二十九日上棟式。
 同年九月十六日竣工。現在の良寛堂が見事完成した。建立式の式典では耐雪が報告書を、良寛堂造営顧問として尽力した権田雷斧大僧正が式辞を、積極的に協力した相馬御風が来賓総代として祝辞を述べたほか、禅僧十二名、塚本格道師が導師として読経、読経中に、遺族山本荘太郞、関係人島崎木村達雄、小林二郎、有志として相原寛太郎、田代亮介、津田清楓等が焼香した。
 建立者の耐雪の「良寛和尚ノ人格ヲ表現スベキ最簡素ナルモノヲ作リタク…」との信念を受け、思いを同じくした安田靫彦画伯により設計された。建物は九尺(約二・七メートル)四方、用材は伊豆修善寺の新井旅館の主人相原寛太郎寄贈の台湾産のヒノキを用いた。
 建立式で耐雪が読み上げた報告書の中に、「藤原時代建造仏の精華たる宇治鳳凰堂の翼楼に範を採り…」とあるが、後日、安田画伯は「細そりした庵室のような生粋の日本的な藤原風」と述べている。
 良寛堂の内部には多宝塔があり、その上部に小林二郎寄贈の良寛愛用の石地蔵(枕地蔵)が嵌め込まれ、その下に良寛の和歌一首「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆるさどのしまなり」が刻されている。
 良寛堂建立の経緯については、耐雪翁が詳細な記録を「用留」として書き残しており、その内容は、平成二十四年の出版された耐雪翁の御令孫反町タカ子氏(父は全国良寛会初代会長近藤敬四郎)の執筆となる『良寛堂建立の記録 佐藤耐雪の「用留」を読む』に詳しい。
 昭和二十七年に新潟県の文化財(史跡)に指定された良寛堂は、来年令和三年(二〇二一)が建立された大正十一年(一九二二)から、ちょうど百周年の記念の年となる。
 良寛堂建立に尽力された耐雪は、昭和二十八年頃、愛蔵の良寛遺墨と関連資料を出雲崎町に寄贈。
 昭和三十一年、財団法人の設立が文部大臣から認可。昭和三十五年「良寛記念館建設趣意書」が作られ、総額一千五百万円の募金が開始された。
 良寛記念館は耐雪の悲願であったが、完成前の昭和三十五年一月に亡くなった。
 昭和三十五年十一月、本館の建設に着工、翌三十六年六月に完成した。昭和三十九年、第二期工事に着手し、昭和四十年五月、ついに全館が完成。
 良寛記念館の建物は近代建築の巨匠谷口吉郎博士(工学博士、芸術院会員、文化勲章受章者)の設計により、良寛の生家ゆかりの虎岸ヶ丘に建設され、昭和四十年五月十五日に開館した。
 良寛記念館の所蔵作品は良寛の遺墨(うち十二点は出雲崎町指定文化財)、安田靫彦をはじめとする日本画家巨匠による良寛絵伝、良寛愛用の遺品、良寛関係の図書や資料などがあり、常時展示されている。
 同館の前庭には、五合庵を模した耐雪庵、釧雲泉の碑と墓(銘は亀田鵬斎)、耐雪佐藤吉太郎翁顕彰碑などがある。
 館に隣接する高台には昭和五十七年に新潟県景勝百選一位に選定された「良寛と夕日の丘公園」が整備され、良寛と子供の「語らい」の像や良寛の詩歌碑などが建っている。
 館の裏手には、歌碑がある「沖つ風いたくな吹きそ雲の浦はわがたらちねの奥つ城(き)どころ」
 良寛記念館は平成二十五年より財団法人組織から出雲崎町の管理下に入った。
 平成二十八年八月一日、良寛記念館は国の登録有形文化財に認定された。
佐藤耐雪吉太郎は永年の良寛研究や良寛顕彰の活動が評価され。昭和三十二年に新潟日報文化賞(社会部門)を受賞した。

【三峰館】
 大森子陽の学塾。子陽の著書に『三峰館集』があり、また教え子の漢詩の題に「森子陽の三峰館に寄題す」というものがあることから、学塾の正式名称だったと思われる。狭川(きょうせん)とは現在の地蔵堂周辺の西川を当時は狭(せば)川と呼んでおり、狭(せば)川のほとりに塾があったことから、大森子陽は「狭川(きょうせん)」と号していたようである。そのため、子陽の塾を「狭川(きょうせん)塾」と呼ぶこともあったようである。
 三峰館で学んだ人々。
 分水町(現燕市)地蔵堂の富取長兵衛(後に敦賀屋鳥井家に養子に入る)、富取之則(良寛の親友)、吉田町(現燕市)溝の庄屋笹川久之助、寺泊町(現長岡市)当新田の橘彦山(げんざん)、分水町(現燕市)真木山の原田有則(鵲斎)。三輪左一、分水町(現燕市)牧ヶ花の解良叔問、分水町(現燕市)中島の庄屋斎藤伊右衛門、分水町(現燕市)竹ヶ花の海津間兵衛(竹丘)、富取翼夫なども学友であったと思われる。橘彦山は大森子陽の従兄弟で、大森子陽の父直好が嗣がなかった浄花庵(後の万福寺)の五世了空である。橘彦山の弟が三条の人で『北越奇談』を著した橘崑崙である。