関係人物 ヒフヘホ

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関係人物 ヒ フ ヘ ホ

藤原光枝 ふじわらみつえ → 大村光枝 おおむらみつえ

遍澄 へんちょう

【遍澄 へんちょう】
氏名・号  佐藤遍澄。本名は市内。画号は琢山、芝田、翠陰など。
生没年  一八〇一~明治九年(一八七六)九月十三日没。享年七十五歳。
出身地  旧和島村島崎に生まれる。
職業  良寛の法弟。
略歴  父は鍛冶職の早川甚五衛門。遍澄はその長男。文化八年(一八一一)から十二年まで島崎の真言宗妙徳寺にのぼり、賢深和尚の指導を受ける。画を富取芳斎から学んだ。
良寛との関係  文化十三年(一八一六)良寛五十九歳の時、五合庵を訪ねて良寛の弟子になり、乙子神社草庵時代以降、良寛の身辺の世話をした。文政九年(一八二六)富取武右衛門(倉太)に請われて、旧分水町(現燕市)地蔵堂にある願王閣(がんのうかく)の閣主に迎えられる。老齢の良寛を一人国上山中に残すに忍びず、遍澄の生家の隣の木村家に良寛のお世話を依頼して、案内する。良寛の臨終に由之、貞心尼、元右衛門とともに立ち合った。嘉永三年(一八五〇)に眼疾のため島崎に帰り、妙徳寺で勤行に努めた。願王閣時代は、近隣の子弟ヲ至誠庵で教育したり、良寛と交流のあった人々を訪ね、良寛の詩歌の収集に努めた。また良寛の肖像画を描き、明治以降の良寛の肖像画の基となった。昭和三十五年八月六日、妙徳寺境内に遍澄の頌徳碑が建てられた。良寛禅師奇話第五十八話に記載あり「師仏ニ入ル、初ハ如何ナル故ヲ不知、釈遍澄ニ問フベシ」。